一話

 ――欲を言葉にするのが、一番怖かった。
 言葉になったそれが、何よりも自分を傷つけることを知っていたから。

「ぁ……ごめんな、さっ――」

 呼吸の浅さに、喉の奥ですべての言葉が砕けてしまった。泣いても叫んでも、戻らないものは戻らない――そんなこと、知ってる。

 だから、届かない言葉を叫んだ。謝罪は罪悪感に対しての償いだ。誰に対するわけでもない。死人は死人、肉塊は肉塊、そんなこと、年端のゆかぬ子供でも知っている。
 だから、泣いた。

 誰も知らない、誰も見ていないここで、声を押し殺して泣いた。





 階段を下る足は一段飛ばしで跳ね上がる。
返ってくる飛沫を気にすることもなく弾む足取りを、誰が見止めることもなかった。近くには、知り合いなど家族程度しかいない。それも病気の母親だけだった。
 その汚れた服を洗うのは母親だった。病気ながらも、その服の汚れで娘の元気な様子に安心しながら、呆れたように笑うのだった。しようがない子だとばかりに浮かぶその苦笑の意味を理解していた私は、呆れられていることが嬉しくて、今日もまた泥を撥ねさせて駆ける。

 ――朝ごはんは、何にしよう。
 悩むまでも無いのだけれど、考えるだけならタダだ。
 玄関の扉を開けて帰ってきたと声を掛け、台所へ走る。手を洗って、買ってきた卵を開ける。炊いた米を、炊飯器の中に確認する。
 卵を割りながらふと思うのは、病人に対して卵かけごはんではあまりに粗末ではないかということ。自分の好みと経済状況からの判断ではあったものの、食欲がなくなってきていたその人にはどうも合わないように思えていた。
 けれど、変えようという気持ちはわかなかった。失敗することは目に見えているし――何より、教えてくれそうな人物は母親しかいない。しかし、ベッドから離れることがそもそも難しい母親にとって、それはあまりに難題だった。

「マミー、朝ごはんネ!」
 そう声を掛けて、ベッドに駆け寄る。碗と水を差し出せば、母親は嬉しげに笑った。
「ありがとう、神楽」
 ――その言葉のおかげで、生きていられる。
 必要とされているこの場所が、神楽の存在を唯一許す居場所だった。そのときの神楽にとって、救いは母親と――稀に帰る、父親だけだった。
 世界はそこで、帰着していた。





 彼女の兄は、面倒見の良い兄だったと彼女は記憶している。
 泣いている彼女の姿を見れば、穏やかな声で宥める。優しい兄だった。

「兄ちゃん!」
「どうした、神楽」
 声を掛ければ、きちんと立ち止まってくれる兄の腰へ、いっぱいの力で神楽は抱きついた。ぎゅう、と思い切り締まる両腕に、彼は痛いよ、と笑った。
 肺一杯に神威の服の匂いを吸い込むと、神楽は幸せそうに笑って顔を上げた。
「神楽はそれすんの好きだね」
「ウン! 兄ちゃんの匂い、なんか安心する」
「――そっか。で、何?」
 その問いに、神楽は弾んだ声で返した。
「定春一号の墓参りに行くネ! 兄ちゃんも一緒に行こ」
「今、俺も? 一人で行ってきなよ」
「どうしてアルカ? 暇でショ?」
「――仕方ないなあ」
 母さんに一言言ってからね、と告げる神威の背中を追って、ウン、と笑った。小さくならない、歩調に合わせる優しい背中に、神楽は思わず微笑んだ。

「花、持ってきたネ!」
「ほんと、墓参りなんだ」
「言ったよネ?」
「うん、聞いた聞いた。けど別に花なんてさ……兎なら、葉っぱの方が喜ぶんじゃない?」
「私は卵かけごはんがいいアル!」
「――うーん、兎の好みじゃないデショ、それは」
「あっ、蜂!」
 神楽は、手元の花へと飛んできた蜂に、思わず後ずさりした。
 この花は、雨の多いこの星で数少ない手に入る花だった。半月ほど探してやっと見つけた、彼女にしては根気強い作業によって手に入れた、大事なものだった。
「あ、また来る」
「げっ」
 兄の言葉に、思わず忙しなく首を回して視界に蜂を探す。
「あっ、居た!」
「そこ、そこ」
「ウン! わっ」
 神楽が跳ねて避けると、神威はあからさまに眉間に皺を寄せた。
「潰しちゃえばいいじゃん」
「そんな」
 その場をくるりと一回転する。
「ほら、また」
「えっ」
 思わず、手を揮った。ガッ、と掌に小石がぶつかった様な衝撃を感じ、そのまま揮う。目の端でも追わなかったその姿がどこかに消えたことを確認しつつも、掌にはまだ、その感触が居た。妙な、固い感触が残っていた。

「……アレ?」
「跳ね飛ばしたんだよ、神楽が」
「マジでか!? 私の平手打ちも捨てたもんじゃないアル! 命中ネ!」
 運よく揮った手によって一発で払われたことに、神楽は喜んで跳ねた。
「で……蜂、どこ行ったネ」
「ダイジョブ、どっか飛んでった。多分死んだよ」
 死んだ。その言葉が神楽の耳に、異物感を与える。

「あ、ほら。コレ」
 そう言って神威の差し出す手元には、蜂の死骸があった。羽を摘まむように持ち上げられたその身体は、ぴくりとも動かない。
 神楽は脇で握りしめたガッツポーズを、緩く指先から解いていった。

「弱いものを殺すのは、愉しいでショ」
 にこり、と神威が笑った。途端に、気持ちが一気に萎えた。
 ――ここは、定春のお墓の前だ。

「――兄ちゃん、私、愉しくなんてないアル」
「そんなわけない。だって笑ってただろ」
「それは、そうじゃなくて……」
 否定の言葉をかき消すように、神威の言葉が語尾に重なる。
「俺と一緒だね。俺もそうだよ、それに、神楽は俺の匂いを好きだと言った」
「兄ちゃんと、一緒……?」
「ああ。だって、今ちょうどさ、俺からするのはきっと、血の匂いだよ。さっきも、ホラ」
 その手の中の、赤を見せた。

 ――血液が赤色なんかじゃ、なければよかった。
「神楽と会う前に、ちょっとやっかいな異星人を殺してきたんだ。これの匂いが、好きなんだろ? だから、一緒」
「……」
 幼い頭で、言葉に詰まる神楽を見下ろして、神威はその頭を柔らかく撫でた。赤く染まった掌で。

「――そういう血だもの。しようがないよ」
「――兄ちゃんも、こうだったアルカ」
 私と、同じ。

 その言葉に、神威は無言で笑った。





 兄のことを記憶から掘り返す時、最後のワンシーンだけが神楽のトラウマだった。
 それ以外は幸福な日々ばかりだったから、それらで全てを上塗りしてしまえば、彼女の中の幸福は作り出せるものだった。
 けれど、最後が。最後ばかりが、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。忘れよう、忘れようと心掛けているのに、父の存在がそれを無理やりにでも思い出させようとするのだ。
 兄がいなくなったのちの家で、兄以外の皆が普通に、日常に戻るのならまだいい。
 彼は――彼女の父は、違和感を持つほど突然に、家を空けるようになったのだから。

 父が戻るという連絡が来たのは、数日前のことだった。手紙にはどこの星か分からない切手が貼られ、文字すらも読めない。家へ持ち帰って母へと差し出せば、母は花が咲く様な笑顔を浮かべた。
「――パピー、今度帰ってくるって」
「ほんとアルカ……! 私、迎えに行くネ!」
 そう言って、私は外へと駆けて行った。今度、というのがいつになるのか知りもしないまま。

「――」
 父親を一日中待ち、帰ってこないことを確認するたびに家へと戻ることを何度繰り返したことだろう。
 雨に降られることの多いこの星で、傘を片手にしない日は稀だった。曇り空でも手放さない傘で覆われた視界に、父親を探す。決して隠れることはないであろうその姿を、見逃さないようにしっかりと目を見開いて待った。
 家へと帰ると、飽きないわねと母が笑って窘める。だって、マミーだって会いたいでショ――そんな一言を、いつも飲み込んだ。
 笑う母は、折れてしまいそうなほど細かった。

 一月も続くと、もはや諦めが気持ちの先に立っていた。それを惰性のように続けても、希望があることを確認する作業だと考えると、心持は易かった。

「嬢ちゃん、人待ちか?」
「……」
 この頃の神楽へ声を掛ける輩に、ろくな人間はいなかった。
 人買い、もしくは性的倒錯者。いずれにせよ手元の傘を揮うのに躊躇はなかった。子供の力で精一杯、力一杯に揮った。子供と言えど夜兎の手の全力は、大人の身体を吹き飛ばす威力は持っていた。ある程度加減は知っていたものの、いつもうまく逃げるのは相手側だった。
 生きるのに、必死だった。うまく自制する術など、誰も教えてはくれなかった。

 ――だから、安心していたのだ。


 いつも通りにまた、傘を揮った。彼女にとっての自衛行為だった。
 無心ではなかった。痛い、きっと痛いと彼女の心は見えない傷を生んだ。けれど、彼女はそれ以上を恐れるが為に、牽制の意味を持って傘を揮った。その傘は彼女の目の前の大柄な男を思い切り薙ぎ倒した。その重さに、ぎしりと肩が鳴ったのを感じる。
 その重さが、生き物の肉を手に感じさせる。触れてなどいないのに、生暖かい肉を感じた。

 ――なんて、柔らかい。脆い。

 薙いだその先に、男の身体は面白いほどまでに滑った。雨で軽く水の張った土の上を、全身に泥水を跳ねさせて勢いよく石柱の方へと滑っていく。
 まるで独楽のような、決して生き物らしい動きではないのに、手の中には肉の感触が残っていた。ぐにりと、食い込んだ確かな熱。生暖かい、独楽。肉塊。
 ――これは、何だろう。思わず、手を握り込んだ。
 
 その身体が、滑った先で思い切り跳ねた。くぐもった、低いうめき声を喉の底からあげて、男は動かなくなった。
「……」
 動かないのは、今までもあった。しかしそれでも気を失ったということは、勘で把握できる。放置しておけば、次の日の朝には姿が消えている。
 しかし、今回は何か嫌な予感――本当に勘に過ぎないものの、穏やかではないものを神楽は感じていた。恐る恐る、その身体へと近づいた。

 男は、目に白色を覗かせて、頭部を石柱に大きく陥没した状態で横たわっていた。
 頭部からしみ出した液体が、その下の土と雨水の色をどんどん染め上げていく。傷を見て、思わず神楽は目を見開いた。
 赤黒い、肉が見えた。

 ――――痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
 
 両腕で、身体を抱いた。ギシリ、と奥歯が鳴いた。
 この感覚の名前は、判らない。
 けれど、これはもう取り返しのつかないことだと、彼女は身を震わせた。寒さなど感じなかった。何も――体温の一片すらも感じることの出来ないまま、彼女はその指先を男の手へと這わせていた。

 その身体に温度が戻ることはなかった。自分の体温を移そうと、幾度か皮膚を柔く擦った。それでも雨の冷たさに体温を奪われてゆき、それを取り戻す術はもうないといわんばかりに、泥のように冷えてくるその手を握りしめた。

 ――ああ、あのときと同じだ。
 神楽は思った。彼女が大事にしていた兎のことを思い返していた。
 ――殺す気など、なかった。そんな弁解など、いざ死の前に立ち会ってしまえばただの言い訳にしかならない。温度を奪っていくのはいつも空気なのに、命を奪うのはいつも自分だった。あまりにも簡単で、あまりにも脆い。力の入れる度合いを間違えてしまえばこれだ――膝が笑うのを、止められない。
 ――もしかしたら、この人にも大切な家族がいたかもしれない。
 恋人や友人が、彼らの帰りを待っていたのかもしれない。
 視点を変えれば彼らが悪人になることなどなかったのかもしれない――なんてことを、なんてことをしてしまったのだろう。小さい心が、病んだ。

 喉の奥で冷たい風が吹く。ひゅうと鳴った気管に、頭の隅では、ああ、泣くな――そんな風に他人行儀な声が響く。

「や、死なないで……」

 自分が殺したくせに、戯言を――頭の中で響くのは鐘の音のような静かな怒号だ。ごめんなさい、ごめんなさい――馬鹿だ。莫迦だ。救いようのない、馬鹿だった。
 家に帰れば、それこそ死にかけた母がいた。兄と父がその手でいくらの命を奪い、父にいたってはそれを生業にしている――そういう血なんだよ、といつかと変わらぬ笑みで兄は言っていた。しかし、違う。そんなのは違う――認めることだけはしてはいけない。脳内での抵抗が言葉になる。

 ――――だって私は、死なんて大嫌いだ。

 自分が死ぬことより、誰かが死ぬことの方がずっと辛い。誰が何と言おうと、それを正当化する感情を自分は持てない。恐らくこれは自分の中の血に反している――それでも、そのときは上手くやれると、自分ならこの血と感情に上手く折り合いをつけられるのだと信じていた。

 震える手で、目の前の躯の頭部から流れ落ちる液体を、必死に掬った。
 それしか、できなかった。





 その後、父が来て数カ月経った後のことだった。

「――マミー?」
 この頃一段と口数が少なくなったその人は、一日中ベッドの上に横たわっていて、動くことが稀だった。
 それでも朝はいつも返事をしてくれていたはずだった。
 おはよう、いい朝ね、そんな一言でやっと私に朝は来るのだから。

 横たわっているはずのそのベッドは、病気のその人の為にと父である人が買ったものだった。少しばかり固いながらも、病院で使われているものと同じであるらしいそれは清潔感だけはあった。
 その白さに飛び込むように、掛布団の脇からその人の顔を窺った。白い布団、髪の毛の色だけが見える。顔は向こう側を向いてしまって、こちらからは表情すら窺えない。

「マミー、具合悪いアルカ?」
 穏やかに、小さめの声で問いかけても、身じろぎすらしないその人の様子が、ひどく気にかかった。
 布団の中に両手を差し入れてその手を掘り出す。ぎゅ、と握る。その温度に思わず、身を引く。

 ――つめたい。温度がなかった。
 喉の奥に風が吹く。声が出なかった。感覚から得た認識を脳で認めてしまうのがあまりにも容易い――死には、触れ慣れてしまっていたから。
 手が冷たい、くたりと、弾力はない。そしてその横顔に――色が、ない。
「……マミー?」
 その声は、子供ならではの逃避だった。知らないふりを、気づかないふりをしたかった。死んでいない、その人は多分眠っているだけなのだと――思い込めたらきっと、幸せだった。
 生憎、彼女はそこまで馬鹿になりきれなかった。その人の死を認識し、直後に考えたのは、その死の責だった。兎の死と同様、その死における責任は誰が償うべきか。敏い彼女は感覚的に理解していた。
 
 ――自分が、殺した。
 何をどう間違ったか知らない、わからない、兎のときも同じだった。自分が知らぬ間に犯した過失が、愛しい全てを奪っていく。そんな自分を責めるものが誰もいない。だからこそ、他に責を押し付けるべき相手もいないということ――即ち、その責は自分にあるのだと彼女は理解してしまった。

 看病という名目で、自分は何をしただろう。
 話して、上手くもない料理を作って、洗濯をして――ああ、そうだ。今朝作ったのも栄養の偏った食事だ、いつも通りだ。
 そう考えると、自分が今まで口に入れたものがひどく汚らわしい罪の塊に思えた。自分ばかり健康で不自由しないからと、不自由な病人を差し置いてのうのうと食事など――胃の中にないはずのものが食道をのぼり、吐瀉物が溢れた。口端を伝い床に撒かれたその色に、嫌悪も、汚いという感覚もない。
 彼女の母親は、病人だったのだ。その人の吐瀉物を処理するのは彼女の役目だった。そんなものに対して嫌悪感など得る暇も余裕もなかった。だからそれは、彼女にとってただの体からの分泌物に過ぎない。麻痺した感覚も価値観も、それがおかしいと指摘する人も基準もなければ、狂っていることにすら気づかない――否、彼女はこの場において、狂ってなどいなかった。


*


 母が死体だと理解したころには、やらなければならないことを神楽は把握していた。
 あの兎と同じく、墓を作る。その行為にきっと意味などないのだけれど、その儀式自体には、彼女の心に折り合いをつけるという、重大な理由を持っていた。
 土中に埋める。母の死体を埋める。その行為を思い立った時、それを行為に移したのちのことを考える余裕がないまま、神楽は母の身体を両腕でぎゅうと掻き抱いた。

 母を土の上に横たわらせるのは気兼ねした。結局は土中に埋めるつもりなのに、死体なのに――汚すのは戸惑われた。
 だからまず、穴を掘った。
 家のすぐそば、兎の墓の脇。幼い心は単純だ。誰か傍に居ればきっと寂しくはないなんて、兎相手に母がどんな会話をするのか知れたものではないというのに。
 無我夢中で掘った。スコップは数度掘れば力でへし曲り駄目になる。だから仕方なしに、両手を土に埋めてただ掘り進めていく。
 柔らかい土は堅く変わり、石が手に当たる。その度に砕くか取り除くかという選択で、働かせるのを止めた頭は砕く選択をした。
 その度、掌には石の欠片が刻んだ擦過傷が増えていった。続けると、幾本もの筋から血液が溢れる。土中は、僅かに赤く染まる。
 土を掻く手が痛んだ。爪と指先の僅かな隙間に土が、小石が詰まって肉を抉る。焦らすように染み入ってくる痛みが手を侵食するのに、どうしてか肩から先はその痛みを受けないかのように動き続けた。

 喉の奥から噎せ返るように湧き出す感情を、抑えたいわけではないのに、どうして手だけは動くのか。それが酷く疑問なのに、噛み締めた下唇には意味なんてないのに、誰もそれに答えてはくれない。
 だって、ここにはもう誰もいない。私一人しかいない。こうして涙を堪える理由なんてどこにもない、誰もいないここで――それでも私は、褒めてほしかった。

「っ――う」

 ――よくやったね、偉いね。
 そうして撫でる右手を欲しがった。転んだ時に差し出される右手が何よりも恋しかったのに。
 昔、ここで兎を埋めた時、確かに皆が彼女を慰めた。その手で墓を作ったことに、年齢にふさわしくない対応だと褒めた。取り乱すよりも、その死の尊厳を選んだ彼女を褒めたのだ。
 しかし今――実の母の亡骸を埋めようとする彼女を、褒める者はいない。
 手をいくら血に濡らしても、誰も褒めてはくれなかった。


 人一人が入れるほどの穴が出来た。
 ――達成感も、満足感も、喜びも無かった。
 母の亡骸をベッドから抱き起こし、自分よりも大きなその身体を軽く引き摺りながら穴の元まで運んだ。汚したくなかったのに、引き摺られた部分は薄茶けた泥が付いてしまった。でももう、仕方がない。
 土の中に、なるべく優しく横たわらせようとした。しかし、自分より大きなものを穴へ丁寧に入れるなどうまくいくわけも無く、どん、と音を立てて穴に亡骸が投げ込まれてしまった。そのことに、思わず彼女は涙を浮かべた。

 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、マミー。

 何もできなかったのだと、自責の念に苛まれていた。こうして墓へ葬ることすらうまく行かない。投げ込まれた亡骸の手を組ますことも出来ない。左へ不自然に捻じ曲がった首が、死体であることを知らしめた。――ごめんなさい、ごめんなさい。
 死人なのだから、それを痛いと感じるわけもない。しかしそれは、確かに神楽にとっては痛かった。痛いと感じたのだから――涙が零れた。その不自然な体勢を直すことは叶わない。だって、墓穴に自分も入ってしまえば、その亡骸を踏みつけることになる。それだけは出来ない。
 
 ――そののち、どれだけこうしていただろうか。
 彼女は、ただじっと穴の中の亡骸を見つめ続けた。動き出すことを信じたわけではない。ただ、別れがたかった。死体だと知っていても、これを埋めてしまえばもう、ここには何も残らない。自分の手元には家族の欠片は、一つも残らなくなるのだ。

 家族の崩壊は恐ろしかった。けれど自分と母親がここに残っていれば、いつかはきっと元通りになるのだと信じていた。けれどその人は死んでしまった。ここには居られない――自分は、生き抜くためにはここにはもう居られなくなってしまった。
 父親が戻るのがいつか、彼女の中では定かではない。信用できる約束があるわけでもない。兄が戻ることなど、ただの妄想に思えた。だからここにいれば、自分の命の保証はなかった。
 家族の崩壊は、ここでの自分の選択で決まるのだと、彼女はどこかで理解していた。父も兄も戻っては来ない。母なんて尚更だ、今こうしてこの手で埋めてしまえば、戻ってくるはずはない。もう戻れないのなら、自分は――先に進むしか、ない。

 選択は、あまりにも容易だった。彼女は母に愛されていた自覚があったからこそ、生き抜かなければならないと信じた。家族の崩壊がどうした、元から崩壊に近い状況だった――彼女は、薄ら笑いを浮かべて空を見た。

 曇天はいつものことで、それ以上濁ることも稀で、それ以上晴れることも稀だった。雫を落としだす空を合図にしたように、自然と身体が動き出す。

 脇に退けて置いた土の塊を、穴に落とし込んでいく。
 母の顔が、まだ僅かに覗く。
 首の端に落としたはずの土が、その部分に落ちてしまった。
 ――しょうがない、しょうがない、しょうがない。
 両手で囲う様に盛った土を、遠慮なく落とした。もうそれは母ではなく、死体だった。
 土で埋まるのは、それはもう苦しいだろう。息ができないだろう。だから、それはもう死体だ。苦しくない、そう思い込まなければ土など落とせない。
 土布団を掛けて、母の一部すら見えなくなっていくにつれ、脳裏をよぎるのは兄と、母と、そして父の姿だった。ぎり、と奥歯が軋んだ。
 ――――だって。

 帰ってくるといった。
 ――帰ってくるといった。
 ――帰ってくると、いった。

「うっ、あぁぁ――……っ」
 
 確かに、帰ってくるといったのだ。


 きっとこれは罰なのだ、と彼女は思った。
 いくつも殺して、最後には自分の母親まで手をかけた――ああ、救いなど求められるはずもない。殺した理由さえ無い死があまりにも多すぎる。夜兎を、自分を避ける者たちの気持ちが十二分に理解できた。こんな理解のできない生き物を愛せという方が、ずっと難しいに決まっている。

 それでものうのうと生きる自分が憎いと、少女は思った。

 噛んだ唇は五ミリほどの深さに達していた。唇から血が伝う。痛い、痛い、だけど足りない。これはきっと治ってしまう――治って、しまうのだ。
 なんて不自由な体だろう。壊したいという意思すら通用しない――そうして、彼女は自らの血を呪った。
 生きているのは――生きていたいのは、誰よりも自分だった。

「ぁ……ごめんな、さっ――」

 くしゃりと、相貌を崩した。
 押し殺した嗚咽だけが、雨音を遮るように響いていた。





 ここ≠発つ。
 持ち物はその身一つだった。母の形見に、髪飾りと、番傘だけを手に持った。
どこへ行くにしても、生きるのならば武器を持たねば――それに違和感など持ちえない彼女だったが、普通ならばきっと、生きるために食べ物と貨幣を選ぶのだろう。彼女の選択肢に、それらが存在することはなかった。

 行くあても無かった。
 ただ、記憶の隅にあった綺麗な蒼い星に、死ぬ前に一度でいいから辿り着いてみたかった。


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