「ここ、本当に貸してくれんの」
「ただの物置小屋だけどな。どうせ余ってたんだ。ばあちゃんが亡くなったから使う人もいなくて。でも壊すのも売るのも、もったいなくて出来ないらしいから」
「ムッちゃんのばあちゃんって海女さんだった?」
 壁にかかっていた、銀色の金具みたいなものをヒビトが躊躇なく手に取る。とたん屋根作り、潮風に負けて錆だらけ、ちょっとしたお化け屋敷みたいなこの小屋に入るときでさえも、怖がったり嫌がったりする様子を見せなかった。寧ろ俺より一回りも大きい瞳を更に大きくして、プレゼントを待ち切れない子供みたいな顔で俺が鍵を開けるのを待っていた。
「これ、海女さん用の磯ノミだろ。潜ってアワビを岩から剥がすときに使う」
 よくわかったな、と驚きの声をあげると、港町に来たときは、よく漁港の仕分けのバイトとか、たまに気さくな海女のばあちゃん達の手伝いしてたから、とヒビトが言う。
 他にも浮き輪だったり、ヒレだったり、丁寧に折り畳まれたままビニール袋の中に放置されたウエットスーツもある。全て薄っすら埃をかぶってはいるものの、たまに両親が定期的に喚起や掃除をしているようで、思ったより劣化は激しくなく、ちょっと手入れをすればすぐに使えそうだ、と道具に触ってはヒビトが値踏みするように確かめていく。
「使ってもいい?」
「どうぞ。うちの家系の海女さんは、ばあちゃんだけだったし、本当ならお払い箱なんだ。使っても誰も怒らない。でもヒビト、潜れるのか」
「こういう当てのない旅やってると、いろんなこと出来るようになるよ。自給自足、毎日サバイバル気分」
「俺には真似出来ねーな」
 流石に寝泊まりするには埃っぽかったので、昼前まで俺たちは小屋の掃除に時間を費やした。四畳ほどのスペースを二人がかりで綺麗にした後、ヒビトが昼飯をご馳走するというので、俺たちは再び海に向かうことに決めた。
 どうせならと炊きたての米を家に帰って用意する間に、ヒビトは立ち寄った漁港の組合で、現役の海女たちに気に入られ、更には「穴場まで教えてもらった」と先頭を歩く。
 ご馳走奢るほどの金があるようには見えねーけど。その分体張って返すよ。軽く準備体操を終えて顔を丸い月のようなゴーグルで覆った体格のいい海の男は、勢いよく岩場を蹴った。
「気持ち良い」最高にイカれた甲高い声が、天高くから落ちてくるカモメの鳴き声に重なった。今日も水平線は、ブレがなく美しい。
 ムッちゃーん。岩場の上釣竿を垂らして待ちぼうける俺に向かって、沖合でふわふわと浮いたヒビトが手を降っている。まだ何とか見える距離だ。見えないところに行くなって俺が言ったから、あいつは律儀に守っているつもりらしい。少しずつ離れていってることも知らないで。
 ヒビトが一段と大きく息を吸ったように見える。潜水の合図だった。美しく伸びた足の指が濃紺の海へ消える同時に、カウントを始める。数えて、て頼んできたのはヒビトだ。それを俺は素直に守っている。
 重い瞼を閉じてしまえば、鼻から肺にかけて空気の通る道は全て海に芝居されているみたいだった。
「58秒」
 勢いよく飛沫をあげて、海面から顔をヒビトが覗かせた。ゴーグルを外し、頭をぶるぶると左右に振るって水を払うと、眩しいぐらいに散った雫が星のようにちかちか瞬いた。
「一分切ったか」
「さっきは64秒、その前は61秒、更にその前は69秒で、その前の前は、」
「わーかったって、ムッちゃんって記憶力いいのな」
 ヒビトが拗ねたように唇を突き出しながら、アワビとウニを浮き輪に結んである桶に入れる。見た限り、今回ヒビトが獲ってきたものは合わせて5、6個はあっただろうか、本職でもないのに一分の潜水であれだけ獲れるなら、旅人なんて今時流行らないものやめたらいいのに。こいつなら引っ張りだこだろ、基本的に漁業は若者が足りてないんだ。
 俺はといえば一時間以上も経つのに釣れたものはイワシ二匹。ヒビトと分けるならちょうどいいだろう。
「なあ、次は2分目指して頑張るからさ、もし出来たらご褒美ちょうだい」
 ご褒美って子供かよ。苦笑する。それを肯定と取ったのかヒビトはまた手を空と垂直に交わるように伸ばし、海に沈んだ。
 俺なんかじゃなく、その気になれば空だって何だって掴めそうな残像の中の真っ直ぐな腕をそっとかき消すように、熱い瞼を下ろした。

 俺とヒビトは、ばあちゃんの残したおんぼろ小屋に住み着くことにした。
 遠慮なく侵入してくる隙間風は夜になると肌寒い。男二人で寝るには窮屈すぎてどちらかが寝返りを打てば軽く喧嘩になった。だけどそれも時間があっさりと解決した。サイクルを二、三回繰り返す内に、家から持って来た使い古しのタオルケットはシングルサイズの下でぴたりと体をくっ付けあって眠るようになって、町で唯一の銭湯にある牛乳石鹸の匂いが互いから香ってくるのにも慣れてしまった。
 ムッちゃん、自分の家あるんじゃねーの。ガタガタと小屋が震える。風が強いな今日は。
 寒い、ヒビトが僅かな隙間も許さないと言わんばかりに距離を詰めきたけれど、しばらくしたら今度はどうせ「暑い」って言い出す。毎日のことだ。
「なあ、ムッちゃん、お腹空いた」
「さっき食べただろ」
「俺がおかしいのかな、ムッちゃんと会ってからなんか何食べても足りないんだ、しかもやたら眠いし」
 寝ても食べても満足が出来ないと気付いたのは、確かに俺もヒビトが現れてからだった。寧ろ顕著に表れてきた。
 もっと昔からなんとなく毎日三食食べてもお腹が膨れないし、朝起きる度に寝足りなくて、授業中に居眠りすることがあったように思う。ただそれが、この町のどこを見渡しでも海に抱かれているように当たり前だったから、深く考えることもなかった。脳はとっくにふやけてるんだろう、ここは海に近い町だ。
「なあ、ちゃんと家に帰って寝たら?ここだと寝心地悪いだろ」
「うるせーな、三十路過ぎて野宿もどきも悪くねぇって思ってんだ」
「あれ、ムッちゃん年上?」
「そう、三つ上」
「じゃあムッちゃんは俺の兄貴か。俺、一人っ子だったから何か、いいな」
「こんなに手がかかる弟、かなり面倒くさいけどな」
 ムッちゃんって嘘つくと目、伏せるからすぐわかるよ。月明かりだけが差し込む闇の中でも、ヒビトが笑うのがわかった。
 俺には兄弟がいない。ただどうやら年下に好かれる質らしく、勤めている会社で飲みに行く相手といえば大抵は後輩だったから、これが証拠だろう。甘えられると、突き放せないのだ。ヒビトはそんな俺の性格を日毎に見抜いていくようで「泊まっていってよ」と俺の手を引いたのはヒビトからだった。
 だけど次の朝、日々人はこう言った。付き添わなくても何もこんなとこから盗まないよ、心配すんなって、もう俺なら平気。
 なのに俺に甘えたいときはちょっとだけ幼顔なるんだ、とそんな小さな変化が凶暴なぐらい俺を惹きつけたから、俺は囚われたように日々人とこの小ちゃな小屋で小ちゃな生活を営んでいる。
 ヒビトは矛盾してる。でも矛盾の節々から、ヒビトの寂しさや優しい執着みたいなものを感じることで、柔らかなもので満たされる心を知ったし、またそれが満更でもなかった。
「腹減った」
「寝たらなんとかなる」
「眠いけど腹が減って眠れねー」
「水飲んどけ。ほら、そこに置いてあるだろ」
「そうだ、ムッちゃん、ヤろう」
「いきなりなに、何を」
「セックス」
「ばか、しねーよ」
「何で、昨日もしたよ、この前のご褒美だっていって」
 ヤダよ、忘れたとか。お持ち帰りしといて、なかったことにすんなよ。ヒビトがすかさず覆い被さってくる。
 忘れたはずのあらゆる痛みがぶり返してきて、思わず顔をしかめた。何でヤったんだろう。酔った勢いでもなかったけど、やけに冷静だったこととお腹が空いてたことと、眠かったことだけは覚えている。
 そのときは時刻はまだ9時を回ったところだったはず。お互い寝たくないな、って渋々、裸電球を消したっけ。夜はイワシの塩焼きだった。ヒビトは次の町へ移るお金を貯めるために、漁港で船から引き揚げたばかりの魚を選別するバイトを始めて、そこで仲良くしてもらってるおばちゃんにイワシを分けてもらったらしい。
 七輪なんてものがこの小屋の片隅で眠ってたから、専ら毎食焼きものばかりで、ヒビトは小ぶり過ぎて卸せないイワシを齧りながら「焼いてばっかりも飽きた」なんて文句を付けたけれど、それは綺麗に頭から尻尾まで平らげられた。
 寝転がって同じように腹が減った、眠い、を繰り返していたと思ったら、突然ヒビトが「溜まってる」と呟いた。何が、って聞き返すまでもない。濃紺に慣れてきた瞳がヒビトの熱っぽい目を捉えることは容易く「ヤったら空腹紛れるかな」と品定めするかのように俺の頬をやんわりと撫でてくる。お腹が空いてるから、ってあんな風に赤い舌と白い歯を器用に使って、俺もイワシのように今から食われてしまうんだろうか。骨の髄も残さず。
 ぞくり。ざらつく舌で体の真ん中を舐められた気がして強張ったはずの肺から、ん、と変な声が鼻から抜けたら「エロいね」どっちがだよ、と突っ込みたくなるぐらいイタズラっぽい目をした顔が近付き、そのままキスをした。止められなかった、というより、止めたくなかった。連日の暑さでカラカラに渇いた身体は、唾液でも汗も何でも良かったんじゃないかってぐらい、悦んだ。処女膜破りたての女の子でもあるまいし、突っ込まれて汗流しで喘いでる自分はどうなんだろう。
「兄弟だったら出来なかった」
「兄弟じゃなくてもしねーよ」
「わかんないだろ、俺、ムッちゃんなら兄弟でもヤれそう。男でも」
「昨日男は初めてだって、言ってた」
「そうなんだけど、もう、いいや、考えてもわかんねぇから」
 暑さで頭がダメになったったことにしといて。笑いながらヒビトが施すオーラルセックスは、さっきからぺらぺらとヒビトが喋るせいでくすぐったい。自分のアレが男に舐められて筋むき出しで勃ってるのを、煎餅状態の敷布団の上から見下ろす。
 そのすぐ下はコンクリート詰めの硬い床。尻が痛いと愚痴ったら、すかさず、はい腰あげてー、なんて子供に言うような軽い調子で俺に命令し、すかさず敷布団を二回折り畳んでから俺の尻の下に敷く。
「ん、は、ヤバい、お前、上手い、よ」
 自信ありげな目が俺を煽るように見上げてきた。にゅる、にゅる、と絞るように啜られて、熱い吐息に絡みながら、あ、と声が零れた。加速した欲が脊髄の管を駆け上って、身震いする。イケメンは顔だけでなんか、こう、興奮させるものがあるからズルい。どっかの女性誌の特集で抱かれたい男は皆イケメンばかりなのは、そういうことなんだろう。
 あ、あ、ッ、う。
 昨日で羞恥心は半分以上捨てたようなもんだから、早々に善がる声が俺の喉から熱く漏れていく。小波のようだった快感が竿の付け根でどんどんと高まり、いつしか完全に波は荒ぶっていた。
 自分で扱くってのは、一番気持ち良い方法を知ってるからこそ結構イくのは早い。でもヒビトのフェラは、自分の手とまではいかなくても、初めての相手じゃない感じっていうんだろうか、慣れ親しんだ感覚が、最初から伴っていて、最初から最後までイくことだけに集中出来た。


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