久しぶりにかかってきた遠距離電話越しに、オーロラが見たい、って話をした。
 そうしたら日々人は、遠足前や修学旅行前みたいに声を昂ぶらせ、それこそちょっとそこまで、の感覚であいつは面倒な手続きを済ませると、その身軽な体を真っ白な世界の中に置いている。寒さも凍えも知らず見ているこちらが泣きたくなるくらい、幸せそうにあいつは笑う。
 日々人だって寒くないはずはない。何たってオーロラが見えるぐらいだ。実際、俺はすこぶる寒い。
 夜店の綿菓子みたいにパンパンなカナダグース製のダウンジャケットに防寒靴、ミトン型の手袋を現地レンタル。更にその下にはそこらのおじさん顔負けのパッチ二枚重ねにジャージ、上半身には温熱肌着にフリースを着込み、カイロを至る所に貼り付けている。顔は凍傷しないように目から下はネックウォーマーとバンダナの二枚重ね。
 蓑虫にでもなった気分だ、日々人は苦笑する。でもそんな蓑虫たちは俺らの他にも沢山いて、それは皆オーロラを見たい一心で生み出した最低限の防寒対策だった。
 ムッちゃんってそんなに寒がりだったっけ。ああでも、よく風邪ひくしな。
 俺より若干薄着の弟は眉毛と睫毛をサンタクロースみたいに真っ白にしながらも、あっけらかんと尋ねてくるから、人って不平等なんだなぁ、と改めて思う。昔はその不平等さに心を握り潰されることもあったけれど、そんなことで悩むより、日々増え続ける一方の新型ローバーのマニュアルや知識を詰めることの方が有意義だ、と思えるぐらいには、昔の話になりつつある。
 しかし、どう足掻いたところで寒いものは寒いから、無意味に体を動かすことをやめられない。
 俺の足元が分厚い靴底の溝だらけになったところで、一旦俺たちはティーピーと呼ばれる、カナダの先住民たちが生み出した三角屋根のテントの中に避難した。
 ティーピーの中の冷たい空気がスープなら、まさにティーピーは器で、そこを暖める薪暖炉はコンロ。さしずめ俺たちはスープの具ってところか。外から受ける熱によって、かちこちに固まった身体が溶かされていくのがわかる。
 味噌汁でもミネストローネでもホットチョコレートでも、何でも。暖かい液体って「生きた心地がする」ものだと思う。生かされてる、人間っていう器を持ってる、そんな単純なことを喉から胃に落ちる瞬間、血のように温かなものが気付かせてくれる。
「おー暖けぇー生き返るー」
 日々人は雪を払うことも忘れて真っ先に暖炉へ駆けた。日々人の通った跡はすぐにわかるのは、瞬時に溶けた雪水が手の混んだ絨毯の上に落ちているからだ。
 月の上でもあいつの歩いた跡はすぐわかることで有名だった。スキップする歩幅一歩一歩が大きく、特に右足を強く踏み込む癖があるために、右の足跡だけがひどく抉れてしまうせいで、仲間内では日々人の足跡を誰が一番早く見つけるか、というちょっとしたゲームが生まれていたりする。
「別にわざわざこんなとこまで来なくたって、ロシアでも良かったんじゃないのか」
「見るからには効率いい方がいいじゃん、あっちはオーロラよりも晴れることの方が奇跡だしさ、どれだけ大変でも見られないよりは見られる方がいいだろ」
「ああ、そうだな、お前は思考回路が枝分かれなく短絡的に直結してる奴だったよ、昔から」
「褒められてんの、貶されてんの」
「もちろん貶してる」
「うわ、はっきり言うかな、普通」
 カナダ・イエローナイフ。オーロラが見えやすいとされるオーロラベルトの直下にあり、北極まであと残り400kmとなんとも辺鄙な人口二万人程度の小さな街。こんなに小さな街でも様々な人種が混じっていて五カ国語ぐらいが常に空を飛び交う。アメリカも人種のサラダボウルなんて言われてたけれど、この密度ならこっちが上かもしれない。
 その中でもオーロラビレッジというのは、イエローナイフから三十分ほど車を走らせオーロラレイクの周囲にティーピーやオーロラ観測所を点在させた施設のことをいう。
 というのを、日々人がわざわざ日本から取り寄せて持って来たガイドブックの中で知った。
 俺が住んでるアメリカからだって乗り継ぎ乗り継ぎの連続で、尻と首が変になりそうだった。それぐらい、時間がかかった。
 でも大概辺鄙なとこっていうのは、行くのも帰るのも苦労が付き物だろ。月に行くのだって、ムッちゃんも俺も苦労の連続だったじゃん。
 空港で落ち合った時には、魂が抜け落ちたような顔していたのに今じゃあ、その面影すらない。
 明らかにロシアのオーロラスポットを巡る方が効率はいいんだろう。それでもこいつは確実にオーロラを見るため脳と体を動かすんだろうし、今でも宇宙行きのロケットに少年のような顔で乗り込める奴だ。
「なあ、オーロラオーバルとオーロラベルトって一緒じゃねえの」
 ちゃっかり暖炉の近くにまで寄せたウッドチェアに腰掛けて、日々人がガイドブックをぱらぱらとめくる。
「あながち違う訳でもないけど、全く一緒って訳でもないな。オーロラオーバル、っていうのは北半球なら地磁気北極を中心に、オーロラが発生する地帯を繋いだドーナツ状の輪っかのことだ。
 オーロラの仕組みってのは、太陽から飛んできたプラズマ粒子と電離層の大気がぶつかって発光してる現象なんだけど、光自体は星と同じで空が明るすぎると見えない。で、夜側のオーロラオーバルの中でも見えやすい地域だけを繋いだのが、オーロラベルトだ。まあ、オーロラベルトは観光用の目安みたいなもんだよ」
「へぇ、詳しいな」
「いや、これ普通に宇宙論で出るだろ」
 日々人はブランデー・ティーを飲みながら、鼻を啜る音を合間に挟む。鼻水が氷柱になって笑えた時期も昨日で終わり、寒さから逃げるように会話を繋ぐ時間だけが過ぎて行く。
 ここは一年の半分ぐらいが冬みたいなものだという。夏らしい夏が今年あったみたいだふけれど、それすらも三年振りだ、とオーロラビレッジ住み込みの日本人ガイドに聞いた。
 雪掻きを終えた街から街を繋ぐ主要道路も、街も川も、銀と白を織り交ぜた絹の布を被っている。少し外に出て走っただけで、瞼や髭はたちまち凍り付いた。
 ガイドに「夜は絶対、金属製のものを素手で触らないでください」と言われた辺りから、好奇心とか興奮とかは、長旅の疲れで鈍っていた頭の中から既に勢い良くすっ飛んでいる。
 マイナス20度以下になると人の皮膚は簡単に極限まで冷えた金属に貼りつき、持って行かれてしまうのだという。寒さから身を守るためにこんなに着ぶくれしなくちゃならないんだから、人間は丈夫なようで意外と脆い造りをしている。
 ちなみに日々人は注意を聞く前にロッジの手すりを思い切り触ったせいで、膨れ上がったミトンの下には軽く包帯を巻いている。結構べろりと手のひらの皮膚が剥けていて、その悲惨な状況は、最近見たゾンビ映画の類いを思い出させてくれた。
 そんな状況でも「自然ってすげぇな」と気の抜けた一言で済ませた弟は、痛くもないのに顔をしかめた俺を見て、変な顔してんなよムッちゃん、と笑う余裕さえある。
「いくらなんでも、危機管理っていうものがお前には欠けてると思う」
「それ、昔も言われたな。でもあっちの暮らしが長いし、イエローナイフもそんなもんだろ、って思ってたけどなめてた。ガイドの説明はちゃんと聞くよ」
 イエローナイフのオーロラ観測率は世界有数で、下手すれば毎日見られる代物だ。
 すばる望遠鏡が新たな惑星とか銀河団を発見するより、オーロラ見る方が簡単とかさ、何ていうんだろ、やっぱり宇宙飛行士の夢諦めなくて良かったって思う。
 そう零した日々人の横顔が滲んで見えたのは、ソユーズに乗り、二度目の月ミッションを無事に終えて、ちゃんと地球に戻ってきたからなんだろう。
 熱を取り戻したところで、俺たちは再び外に出た。先刻まで踊るようにして落ちて来ていたコートのボタンみたいな雪も止み、先程ティーピーから出てきた俺たちに声をかけてくれたガイドによれば、もうすぐ晴れ間も出てくるだろう、とのことだ。
「誰かさんが。誰かさんのせいで。貴重なレベル4を見逃したなんてな」
「今日のムッちゃん、トゲあるね」
「ガキん頃、花火見に行こうって言って、お前が日付を思い切り勘違いして見逃したこともあったよな」
「ごめんってば。な、もう許せよムッちゃん」
 昨夜はちょうどこの時間帯にオーロラレベル4規模のオーロラが見えたらしいが、ティーピーの中で盛った日々人のせいで見逃す羽目になった。
 ちなみにオーロラは、旅行会社のパンフレットやホームページで見るようなものがいつでも見られる訳じゃない。あれはもしくはブレイクアップ、と呼ばれる非常に活発で爆発的なオーロラを写したもので、大抵オーロラツアーと銘打ったツアーに参加して眼を擦りながら見られるのは、オーロラと呼べるのかどうか迷うような弱いぼやっとした光だけのオーロラ。そんな状況下の昨夜のオーロラは奇跡と呼んでもいい。
 真剣な眼差しで、だけど唇は三日月を描いた日々人に、出来たか、と呼びかける。
 一眼レフを三脚に取り付け終わり、振り返った日々人は、途端緊張を捨て去ったような腑抜けた笑顔に変わって、逆にこっちが不安になった。
「何で笑ってんだよ」
「隣にムッちゃんがいるのって珍しいから、何か幽霊でも見てる気分になって」
「お前って時々場違いな顔する時あるな」
 それに幽霊を見て笑えるのは、この世で日々人ぐらいなものだろう。
 カメラの設置も終えて手持ち無沙汰になった俺たちは、レンタルし忘れたデッキチェアのことも忘れるようにして、日々人が真っ先に雪の上に寝転んだ。
 冷たい、寒い。日々人が当たり前のことを、弾みっぱなしの声で言う。
「あ、ムッちゃん」
「どうした」
「ちょっと雲間が出来てきた」
 二人で北北東に目を寄せる。今では携帯がコンパスになるなんて便利な世の中になったと思う。
 ほう、と息を吐と、自分だけが読める手紙の字のような息が風と共に夜空に散る。
 やっぱり見えねーな。ごちる日々人の口調は昔のままで笑ってしまった。
「何でもかんでもすぐに叶わないのが、また面白いんだろうけど」
 俺たちは夢である、兄弟揃っての月面着陸、ってやつをまだ叶えていない。
 相変わらず俺は日々人の背中を追いかけていて、俺が一回目の月ミッションから帰還したのと入れ替わるようにして日々人は再び月に行った。そうして日々人が帰還したのはもう一年も前のこと。既に今の俺たちは、それぞれ次に与えられたミッションに向かって動き始めている。
 月面天文台、ちゃんと見てきたから。
 日々人に頼まれた訳でもない。だけど日々人の帰還をモニター越しに見つめた三ヶ月後には、スターシティ内にあるアパートに訪ねてきた俺に、日々人は開口一番にそう言った。
 ヒューストンで二人が暮らしていた家の無駄を省いたように狭く、家具も必要最低限のものを揃えたような部屋。サボテンは寒すぎて無理だった、と拗ねていたが。
「ムッちゃん、次はISSに決まったんだって?」
「情報早いな、ローリーか?」
「当たり。ついこの前ローリーがこっち来てたからな。ローリーのバックアップがムッちゃんってのも、なんか不思議な感じだ」
 暖房の効いた暖かな部屋だが、基本モノクロで揃えられた室内は生気を失ったかのようにさみしげで、犬でも飼えばいいのに、と言ったら、浮気できねーよ、と笑う。アポ以外のペットを今後飼うことはないだろう、とわかった上で聞いたのだから俺は意地悪だ。
「どうだった、天文台」
「上手く言えないけど。圧巻だった。スゲぇ、シャロンに会いたくなった」
 俺も報告会議のために日本に一時帰国したとき、すぐにシャロンに会いに行ったから、日々人の気持ちは真っ直ぐに体の真ん中に落ちてきた。日々人もつい数週間前に会いにいったという。
 シャロンは既に目が開かない。呼吸も自力呼吸が困難になり、ありとあらゆる管に命を繋がれて動きを奪われた彼女は、俺の知っているシャロンとまるで別人のようだった。
 笑うことも泣くことも、ようやく実現した天文台の全貌や、小惑星シャロンの鮮明な輪郭さえ見ることが出来ないなんて、それこそ初めて月のクレーターを望遠鏡から覗いた時の衝撃より深く胸を抉る。
 普段は眠っているような思考回路までもを呼び起こし、シャロンの手を握り、天文台の完成までの流れや、そこから見えた深宇宙の輝き、そしてシャロンの話を語り聞かせた。
 反応のないシャロンは、人形のようだ。だけど冷たい手には確かに脈動と熱があって、まだ生きてるんだ、と思ったら、ただひたすら泣くことしか出来なくなっていた。嗚咽が聞こえる中でも、命の線が跳ねる電子音はやたらと大きく響く。
 シャロンのベッドサイドに置かれたスノードームには、仲良く並んだ二匹のフンボルトペンギンが暫く降っていない雪を待っている。シャロンはずっと大切にしてくれていたらしい、ドームはびっくりするぐらいピカピカだ。まるで、ドレスの裾に包まれた金子夫妻の望遠レンズのように。
 それを言ったら、ベッドの中で日々人に「スノードームの底見た?」と尋ねられた。
「何かあるのか?」
「底に俺たちがプレゼントとした日と、俺たちの名前が書いてあったよ。あんなもので喜んでくれるなら、どうしてもっとプレゼントしてやらなかったんだろう、って」
 この日俺たちは、気温が軒並み下がった冷気から身を守るように、ぴたりと体をくっ付けあってベッドの上で横になった。肩に触れた日々人の体は風邪をひいたみたいに熱くて、思わず手を伸ばしたら乱暴に掴み取られ、瞬きひとつの間で組み敷かれる。ルームライトの逆行の中で困ったように日々人は笑い、そのまま溺れるようにセックスをした。
 日々人の思いが唇やあそこから次々と内側に入り込んで苦しくて、上手く笑おうにも笑えない、もどかしいセックスになった。


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