オーロラを待って、一時間が経つ。
 顔を払えばぼろぼろと粉雪みたいなものが剥がれていく。末端は感覚を失い、痛いを通り越して無痛に近い。
 最初は面白がってシャボン玉を吹いてたちまち凍るその様子を眺めたり、顔に巻き付けたマフラーにあっという間に付着する氷の凄さに驚いたりしてたのに、随分と前に飽きてしまった。
 手に持った大きめのステンレスカップから、燻った豆の香ばしい匂いと、温泉街のような濃い湯気が昇っている。さっき日々人がティーピーから持って来てくれたコーヒーはブラックだった。先に飲み干した日々人は、すっかり雪と友達になってまた寝転んでいる。
「俺、次のフライトはカメラ担当だ」
 湯気の向こうで、日々人の視線がこちらに移り、小さく笑う気配がする。
 何撮りたい。問いかける声は、優しく胸を締め付けてきた。
「上から見たオーロラかな」
「シャロン、喜ぶよ」
「けど、泣くかな」
「泣くかもね」
 ここに来てから、ずっと冬の匂いがする。シャロンの病室は、ノリの利いたシーツの匂いと薬品の匂いがする。りんごに似たアロマの香りは何処に行っても、もう匂ってくることはない。
 嫌でも連想してしまう現実を振り払うようにコーヒーを飲んだ。
 すず、っと鼻を啜る音がする。
 気付いたら顔に腕を押し付けた弟が、真っ白な吐息の下で唇を噛んでいた。赤い色をしてる。どれほど寒くても、日々人の唇は血の気を失わず、俺はそんなことで救われた気持ちになる。
「お前が泣いてどーすんだ」
「違うよ、ムッちゃんだろ泣いてんの」
 腕を持ち上げた日々人の手が、霜まみれの俺の頬をミトン越しで擦ってきた。その裏ではどうせ、へらりと強がってるんだろう。
 生ぬるいものが顔の至る所に拡散されていくのがわかる。
 俺たちは互いの前で泣くことが増えた。大人になったら泣けないもんだ、弟の前では兄らしくあるべきだ、と決め付けのように思ってたのにまさかの逆で、だけど泣き叫ぶというよりは静かに泣くことが多いかもしれない。
 泣いたらスッキリする。だけど雪のように音もなく悲しみが降り積もって、また泣いている。
 シャロンに今の俺たちを見られでもしたら、きっと笑われてしまうんだろう。たまに裸で抱き合ったまま、身体中の液という液を出しながらぐちゃぐちゃになって泣きじゃくってるなんて、他人から見ればお笑い種だ。俺だって笑える。
 笑って生きるって難しい。
 シャロンには簡単に出来たことが、俺たちには何でこんなに難しいんだろうって、時々、日々人を抱き締めながら考える。
 そして目に焼き付いた彼女の泣き顔を、思い出す。
 俺がベッドで眠る彼女に、月の望遠鏡がようやくシャロンの姿を克明に捉えたよ、と語り始めたとき、氷のように透き通った涙が頬を滑り、それは枕の上にシミをたくさん生み出した。
 どんなハリウッド女優よりも、星座の神話に出てくる女神よりも、美しい泣き顔だった。彼女の涙を拭うと、指の皮膚が焦げるようだった。
 彼女はずっと恋してる。シャロンと進一さんは、遠く離れた地と地で、終わりのない恋をし続けている。
「ムッちゃん」
 日々人が突然鋭い声をあげた。
 声に弾かれた俺も空を仰ぎながら勢いよく立ち上がり、転げるようにしてカメラの前へと駆ける。
 ぽってりとした雲を裂いた奥。深い濃紺の空間を歪めたような、エメラルドの太い帯が波打つように次第に大きく、うねり始める。地球そのものが生命の力を借りて雄叫びを放っているみたいだ、共鳴するように体が震えた。
 揺れは治まらない。地球という容れ物では足りず、俺と日々人、そして彼女のように地球から飛び出したがっている。
 無我夢中でシャッターを押した。フレームを覗く余裕もなく、雄大に揺れるオーロラを収めようと躍起になる。
 例えるなら、初めて月を望遠鏡から覗いた時のようでもあったし、宇宙と直角で交わるオリオンのコクピットで打ち上げを待つ時のようでもあった。オーロラを前に、熱も息も、心臓も、圧倒的な勢いで飲み込まれていた。
 どれほどの時が経ったか。ムッちゃん、と再び弟の声が脳内に割り込んで来たときにはオーロラは姿を跡形なく消し去り、周囲は俺たちだけが取り残されたように、静けさを取り戻している。
 月光の照り返しを浴びて、世界から祝福されたように光る日々人はもう一度、今度は親しみを込めたようにゆっくりと俺を呼ぶ。泣きそうな顔して笑って。
 日々人、と。口が、体が、動いてしまう。
 腕が交差する。心臓をくっ付け合うようにして抱きしめ合う。ちりちりと焼けるように熱い体の奥から、命を繋ぐ音がした。


 顔に氷の道筋を作りながら待機した俺たちが、このイエローナイフに泊まった三日間で見たオーロラは、日々人の言葉を借りるなら殆どが「夏祭りの日の空」のようなものだけだった。
 空にぼんやりとした、淡いエメラルドの太い帯がすうっと一本道筋を作ったものは何度も表れたけれど、カーテンのように激しく揺らめくことはない。すごい、と思えたのは二日目の一瞬だけだった(ガイドに聞いたところ、たった五分の出現だったらしい)。
 やるせなさと物足りなさで肩を落とし、荷造りする俺へ「ハネムーンのやり直しって効くの」と低いトーンで聞いてきた日々人の深刻な顔は面白かった。
 ポン、と音を鳴らして機内一斉にシートベルト着用のランプが消える。呼吸と共に腰を縛り付けるそれを解くと、深く腰掛け直した。
 日々人は俺より一時間程早い便に乗ったが、まだ俺と同じく機上の人だろう。既にいびきをかいて眠りこけているかもしれない。
 手元にはこの旅行の間にプリントアウトした写真がある。オーロラの他にも、その日イエローナイフのツアーにいた日本人観光客と一緒に混じって撮った写真もある。
 ちなみに日々人と俺は宇宙飛行士という肩書きを浮かれ過ぎて忘れていたせいで、サインを求められた時には、二人して急に現実に引き戻されたように真っ赤になり、あたふたしてしまったのは記憶に新しい。
 次はどこ行く。去り際に日々人に聞いたら、暫く悩んだ末「どこでもいいよ」と言った。
「ディズニーランドも行ってみてーし、パラオやグアムの南国も有りだし。もちろん月でも火星でも。銀河団の外でも。ムッちゃんとなら、俺は命をかけても絶対ついて行く。一緒に行くよ」
 そうして互いの指先を一度だけ絡め、日々人は振り返ることなく人の波に溶けて行った。
 溢れる日々人の思いが、迷いもせず指を伝って俺に届く。好きだ、と残された体温が熱くて駄目になりそうだ。日々人が俺から離れるときがきたら、二度と笑えなくなるぐらい、駄目になる。俺を何処までも追い詰めてくる。
 小窓から眺めた高度100kmなんて到底及ばない世界は、ひどく狭く感じられる程には仕事に戻りたがっている。
 地球の外に宇宙があって本当に良かった。
 惑星、恒星、衛星、星雲に銀河団。二つとない光が、カーマンラインを越えた世界にあるから、俺は日々人と同じ道を歩いていける。
 いつか日々人に他に好きな人が出来て、子供が出来て、俺の前で泣かなくなっても。
 それでも俺は宇宙へ行くんだろう。シャロンの瞼の裏には世界中の水晶を集めても足りないぐらいの眩い星たちが埋め込まれているだろうから、ISSでオーロラの写真が撮れた後は、それを見に行くのもいいかもしれない。
 ちょっとそこまで、の感覚で。
 オーロラの写真を裏返し、トレーテーブルの上に置いてから、ペンを取り出す。
 日付、続いて俺と日々人の名前を書き込み、最後に書き終えた母のように強く、恋人のように優しい人の名前を目でなぞった。
 今日も彼女は笑っているだろうか。

 ーー親愛なる、シャロンへ


完、
2013.09.10
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