クリスマスは、はっきり言って独り身にはとても味気ない。特に一人暮らしを始めてからは、タイミングよく彼女が途切れていたせいで、大した思い出すらない。
 世間ではホワイトクリスマスだなんだと騒ぐ間も、俺は食糧の買い出しで、赤や緑や金銀のライトの下を、いつもより密で歩調も緩やかな恋人達の間を縫うように歩いたきりだ。買い出しに付いて来た日々人がケーキを食べたいと騒ぐから、ショートケーキをふた切れ買った。
 意外にも家族四人で分け合うホールケーキの取り分よりも大きくて、年甲斐もなく気分が上がったけれど、それだけだ。日々人はまたもや呼び出しを受けてそそくさと家を出て行った。
 彼女はチーズケーキが好きらしい。まだ店開いてるかな、と聞いてくるので、その流れのまま知ってしまった。
 俺も生クリームとか、甘過ぎるもん苦手だから、いざ彼女が残して処理するって時にはチーズケーキのチョイスは助かるけど。あ、ムッちゃんはショートケーキ好きだったろ。
「ケーキ食べてくれていいよ」
 シンプリー、とリズミカルに歌い上げるポールマッカートニーの力を借りて、テレビを見つつクリスマス商戦で早々に摘み取られただろう小さな苺を口に入れたら、生クリームと絡んでやたらと酸っぱかった。昔はもっと甘かった気がするのに。一人で食べるとこんなものなんだろうか。
 翌日。珍しく朝起きて来ない俺を心配したらしい日々人に起こされて、ようやく目が覚めた。日々人に内緒で買った(本当はあいつの分も含めて買った)黒ラベルを六缶空けながら、酔った勢いでベランダに居たのが悪かったのかもしれない。 途中から本格的に雪も降って来た雪も、まだ止まない。
「肝臓やられたら、人の顔ってこんな感じになんのかな」
「俺まだ若いんだけど」
「いやだから、こんなになるまで飲むなよ」
 酒くせぇ、と眉を寄せる日々人は、俺と違って風呂に入ったばかりで、すっきり、って感じだ。
 日々人は夏がよく似合う。ボール追っかけて泥まみれになって、汗かいてる方が似合ってた。黄色すぎる歓声を浴びて、尖った太陽の光の下で笑ってる方がよっぽど。
 日々人が持って来てくれたミネラルウォーターを一気に飲み干し、布団に潜ったとこまでは記憶がある。次に目が覚めた時には、空は既に薄めた墨汁を零したように夜を垣間見せていて、慌てて飛び起きたら頭がぐらりと大きく渦巻いた。しかもとびきり寒くて、身震いする。
 時刻は八時を回っている。本来ならご飯を作り終えて食卓に座ってる。
 クローゼットに引っ掛けてあった厚手のパーカーに袖を通し、自室を後にすると、日々人も同じく部屋から出てきたところだった。コートを羽織ってるから、例の彼女に今から会いに行くんだろう。
「起きたんだ」
「おう」
「あの、さ」
「彼女が待ってんだろ」
「ああ、うん」
 俺を見て、気まずそうに視線を逸らしたのも、言葉が濁りがちなのも気のせいじゃない。俺はその理由を知っていて、だけどやっぱり昔みたいに知らない素振りを貫くのが癖になってしまっている。
 雪が降っているのに、日々人はマフラーも手袋もしてなかったから一応それとなく言ってみたら、何処に置いたか忘れた、って苦笑した。その顔は、俺がまだ日々人と一緒にシャロンの家に通えていたあの頃と、とてもよく似ている。
「お前のことだから、どうせ風呂場とかコタツの中とかに入ってんじゃねぇの」
「そうかも、でも、いいや」
「なんで」
「ムッちゃん見つけといてよ、探すの面倒だし」
 いってきます。玄関のドアを開けた途端、びゅうびゅうと吹き荒れる目の前の風に日々人は僅かに肩を竦めたが、それでも臆することなく旅立ってしまった。あいつは今頃後悔して、堅く拳を作ってるんだろう。
 スウェットから覗く足首が冷気に煽られ、俺は亀のように首を竦めながらコタツに潜る。ベッドで寝なきゃな、とは思う。でも部屋は寒い。けど、コタツも最大出力にしてあるのに、寒い。
 春の日向のような。凍り付いた心を内側から溶かすような、そんな暖かさに先程から震えが止まらない体が癒されていく。でも俺は場違いみたいに子供みたいに膝を抱えて、じ、と不快なものから耐えてる。
 そういえば。去年も。すっかり忘れてたけど。
 あれは酒を飲み過ぎたせいだったが、一人暮らしのアパートに置いたコタツの中でうずくまってたら、うるさい奴が来たっけ。カモミールの匂いを漂わせながら。
 ムッちゃん、何やってんの、寒いの。うわ何これ飲み過ぎだろ。一人でこんなとこで無茶するぐらいなら帰って来たらいいのに。俺に電話かけるぐらい出来ねーの。
 普段大雑把で面倒くさがりで、看病なんか出来そうにもない弟が、酒に酔い潰れた兄を介抱するなんて、酷く滑稽だ。普通逆だろ、いつから逆転した。
 来なくていい、って毎度あいつが来るたびに突き放してやった。それでも一昨年もその前の年も、気付けば俺が一人暮らしを始めたその年からあいつは、この日は絶対、俺を一人にしようとしなかったんだ。
 ヤバイ。これは、ヤバイやつ。もう何度目だか忘れたけど、この感覚は毎度忘れたくても忘れられない。俺は近年稀に見る猛ダッシュってやつでトイレに駆けた。
 カラカラカラカラ、カラカラカラカラ。
 思わず掴んだトイレットペーパーが折り重なるようにして地に落ちていくのを視界の端で捉えて、次の瞬間堰を切ったように逆流してきたのは間違いなく昨日のケーキと黒ラベルだ。



 この状況は二回目だというのに落ち着いてはいられなくて、カモミールの匂いを手繰り寄せるようにして眠りから浮上する。背中を抱くようにして柔らかいベッドにも覚えたあって、そうか、と納得する。
 左を見ると夢にでも魘されているのか、可愛げもなくしかめっ面の日々人が眠っていた。泣き跡はなくて、少しホッとする。
 タイミングが良いのか悪いのか、日々人は俺がトイレにこもってる、まさにその時帰ってきた。
『やっぱり、ムッちゃん顔色悪かったし、そうだと思ったんだ。ほら、キツいけど出すもん出しとけって。吐き出せたらコート羽織って待ってて。病院いこう』
 あの口ぶりじゃあ、俺のためにわざわざ帰って来た、って言ってるようなもんだった。肩を貸してくれた日々人の体はひんやりとしていて、帰って来たすぐは余裕の50m6秒台だったくせに息も絶え絶えだった。逆に俺が心配してしまう。だけどその支える力は昔とは比べものにならないぐらい強い。
 俺が嘔吐するだけで慌てたなんて、今の日々人しか知らない彼女や友達には信じられない話だと思う。俺だけが知っている日々人がいるように、シャロンだけが知っている日々人、っていうのも、また存在するんだろう。
「あら、目が覚めたのね」
 ドアの向こうから顔を覗かせたシャロンは、俺の緊張を解すようにふわりと微笑み、部屋に入ってくる。ベッドサイドのテーブルに置かれた丸い天体のようなライトがあるだけの薄暗い中でも、シャロンが現れると優しい光が満ちていく気がする。
「やっぱり、シャロンおばちゃんの家だったのか」
 上体を起こそうとする俺に「いいから」と強めの口調で言い放ち、静々と体制を戻すと満足げに頷いた。
「ごめん、こいつが勝手に押しかけて」
「私のことなら気にしないでね。そしてヒビトのことは許してあげて。それからどうしてもムッタの隣で寝る、って。本当に、ムッタのことになると頑固なんだもの」
 困ったように笑いながら、日々人の飛び出していた腕を優しく布団の中に閉まった。
「それに今回はヒビトが全て終わらせてしまったのよ。私の出る幕なんてないくらい」
 お隣さんに夜間病院まで車を出してもらえるように頼んでくれたのは日々人だった。連日の雪のせいで、積雪に備えのない市内は相当混み合い、タクシーの到着までかなりの時間を必要としたらしい。
 旅行から帰って来る度にお土産を配り歩く両親のお陰もあってか、すぐに俺と日々人を乗せて車を出してくれた。
 インフルエンザですね。熱に疲れてわーわーと泣く子供の波の中で診断を下された帰り、苦しい、と呟いた俺の声を日々人が拾ったのは、目がかち合ったことからして、わかることだった。
 運転手を勤めてくれたお隣さんに、何かを告げる日々人の声は水を挟んだように遠い。
 何処行くんだよ、とか、彼女はどうしたんだよ、とか問いかける力も残っていなかった俺は、そのまま眠ってしまったけれど。
「久しぶりね、ムッタ。本当なら元気なあなたに再会したかったけれど」
 新しい冷却シートを手渡されて、すっかり温くなったそれを額から剥がす。それからスポーツドリンクを渡されて一口飲む。からからに渇いたスポンジのように、体を作る細胞とか骨とかが隅々まで潤っていくような気がする。
 ほら、きちんと横になって。刹那俺の肩を押した手は、熱を失った冬の世界そのもので、シャロンが浮かぶ星空の温度だった。
「シャロンおばちゃん、手が、冷えてる」
「さっきまで星を見てたから」
 そうだ、今日は。
 俺がハッとしたように目を見開くと、察したらしいシャロンは、ゆっくりと俺の右手を取る。
「私はね、あなた達がわざわざこの日を選んで会いに来てくれてたことを最初から知っていたわ。
 嬉しいのよ、とても。あなたは人の顔色を伺う優しい子だから、この日を避けたがっていることもわかってたの。だからヒビトの強引さが、私には有難かった。ヒビトがあなたを連れて、二人で会いに来てくれることが嬉しかった」
 誰だって一人は寂しいわ。
 あなたが会いに来なくなって、部屋が前より暗く感じられて、とても寂しかったのよ。ヒビトはそんな私に「ムッちゃんはシャロンに会う準備をしてるだけだよ」って言うの。いつか二人でまた来るから、待ってて、って。
「私もヒビトも、あなたをずっと待ってたの」
 俺たちの前で、シャロンは泣こうとしない。
 彼女の泣き顔は幼かった俺たちが触れていいものじゃなかった、彼女の愛した人のものだった。
 いつからか、俺はシャロンの優しさが辛くて仕方がなかった。
 楽しいことよりも苦しいことが増え、悲しみは喜びよりもより鮮明な傷跡になることを知った俺は大人になった。
 子供じゃなくなった途端、彼女の泣き顔が欲しくてたまらなくなった。俺のためだけに心配して、泣いて欲しくて、大切に一粒一粒零される涙に飢えていた。
 ごめん、ごめんな、シャロンおばちゃん。
 子供じゃないくせに。それしか知らない子供のように謝り続ける。
「心配かけちゃいけない、ってわかってるのに、ごめん」
 声が掠れるまで謝る俺を、シャロンは受け止めてくれた。いいのよ、と何度も何度も首を横に振る。どう見たって細くて折れてしまいそうなシャロンの手。だけど握る力は強く、彼女の気高く揺るぎない心そのものだと思った。
 ふとその時、どうしてか、シャロンが進一さんを選んだ理由がわかった気がした。
 地球の衛星は、月だけしかないように。シャロンが見上げる、この世に一つしかない惑星のように。進一さんは彼女を、世の女性の誰よりも、一番幸せに、そして彼女の光を強くする人だった。


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