「クラゲって何で光るのか、未だに謎らしいよ。発光体からたんぱく質を取り出した研究はノーベル化学賞もんだったけど」
「クラゲにまで興味あったのか、日々人」
「ないけど聞かれた。彼女に。だから調べただけ。死ぬまでの時間のほとんど真っ暗な世界で過ごすから、食べ物や交配相手を探す時とか、捕食者を追い払ったりするのに発光する、っていうのが通説」
 でもそんなのって人間の後付けにしか過ぎないよな、誰もクラゲの気持ちなんかわかんねぇんだから。淡々と言う割に、日々人の目は期間限定の特別展時である、すぐ目の前のカブトクラゲに夢中だ。光を当てれば七色に光る、っていう珍しいやつ。でも意外と東京湾で獲れる、とここに来るまでに読んだパンフレットに書いてあったけど、それは日々人に教えない方がいいんだろう。
 誰がくらげを海月と最初に書いたのか。
 海に浮かぶ月は、夜空にあるそれと違って、体をうねらせ、進んだかと思えば、ふよふよと止まる、何とも着の身着のままな生き物だ。95%は水分でゼラチンの塊、触れようと思えば触れられるけど、一部のクラゲには可愛くない毒が有る。でも今やストレス社会に生きる大人達の癒しになっていたりする。
 クラゲを見た後にはストレス指数が下がる、と最近行われた実験では証明されたせいもあってか、ファンタジーホールと名の付いたクラゲショーが見られる箱の中は人だらけだ。
 つい二分程前に赤や青や紫といったLEDのライトアップをふんだんに使ったショーは、何だか壮大な深宇宙の天体ショーにも似ていた。
 だからだろうか、俺たちは大音量に隠れながらの会話が止められない。
「ムッちゃん、小学校のとき、家族で海水浴場に行ったとき、クラゲに刺されて、痛いって騒いで軽く溺れかけたよな」
「しかもお前がパニックになって、岸まで運んでやるから、って無理して俺を背負おうしたせいで二人とも溺れかけたんだ」
「あのあと一週間口きいてくれなかった」
「自業自得だろ。危機管理ってものが備わってないんだ、日々人は」
 新江ノ島水族館。ここに行こう、と言い出したのはシャロンだった。
 インフルエンザにかかった俺は、その後熱が引くまでに三日、自宅療養期間も入れて一週間、ベッドの上で過ごすことになった。その間に両親もグアムから戻り、俺も日々人も天文台から実家に戻り、いつも通りの生活を送っていたところに、電話が鳴った。
 シャロンは人の気持ちを汲むのが上手い。シャロンの大切な日に二度も手を煩わせてしまったこと、俺にとっては大きな気がかりだったし、遅かれ早かれ、シャロンにお詫びをしたいと申し込むつもりではいた。
 ムッタ、私ね、少し行きたいところがあるのよ。近頃遠出もしてなかったから、私だってたまには息抜きしたいと思っていたの。デート、って言ったら年頃のあなたには恥ずかしいわよね。でもムッタ、気晴らしにどうかしら。
『あの、ヒビトも誘っていいかな』
『もちろんよ。三人で出かけたことなんて一度もなかったもの、人生の中でも特別楽しみな一日になりそうね』
 空気も心も、彼女の手にかかれば、星と同じぐらい簡単に読めてしまうんだろう。
「ムッちゃん、俺、彼女と別れたよ」
 曲調が変わる。眠くなるようなゆったりとしたメロディから、神秘的で讃美歌を思わせるようなものへ。同時にストーリー仕立てのショーは、クラゲの誕生から、そして死ぬその瞬間を映し出す。
 紫色に染まった弟の顔。じくじく、とあの時クラゲに刺された右足首が痛む気がする。
 日々人ともう一週間近く、まともに口を聞いてなかった。俺が寝込んでいたのもあるんだろう。だけど改めて理由を問われても、何となく、としか答えられない。
 話したくないのではなく、何となく話せなかった。そして日々人も話しかけてこなかった。
「俺のせいか」
「違うって、俺が気付いただけ」
「何を」
「遠距離恋愛って意外とキツいんだってことに。器用になれなかった。ムッちゃんがインフルエンザで倒れた日、別れ話を切り出すつもりだった。だから俺、ムッちゃんを利用したんだよ、彼女が泣きそうになってたから。その場から少しでも早く逃げ出したかった。ごめんな」
 ムッちゃんのせいじゃない。
 瞬間、俺の手に触れた弟の手は火傷しそうなぐらいに熱くて、思考がばちばちとスパークした。
 ショーが終わり、折角なら前で見たい、と張り切ってモニター近くの席に座っていたシャロンが帰って来る。あまりの人の多さにホール内に用意されたソファにも座れず身動き取ることも面倒くさがった俺たちに比べ、人の波に揉まれたはずのシャロンの顔は何だか生き生きしていた。いつもはほぼしないメイクを薄く施し、上を向く睫毛とか色の付いた唇は、母のような存在でありながらも、それ以前に。一人の素敵な女性であることを教えてくれる。
 シャロンは綺麗だ、とても。
「パラオにジェリーフィッシュレイク、っていう毒を持たないクラゲと泳げる湖があるらしいの。私、あまり泳ぎは得意じゃないんだけれど行ってみたいって、今日強く思ったわ」
 宇宙を感じられるなら、何処へだって行きたい、そう言いたそうなシャロンの瞳がひどく眩しかった。
 折角来たんだから、と最後に寄ったお土産コーナーで俺と日々人でシャロンにスノードームをプレゼントすることにした。
 ペンギンはあれだけど、イルカでもスノードームって、もう何でもありだよなと日々人が笑う隣で、シャロンは二つ手に取り、いつになく真剣な顔で見比べている。
 イルカとペンギンでかなり迷っていたけれど(本当はクラゲが良かったらしいがなかった)、ドームの中に二匹いるからちょっとお得でしょ、と嬉しそうに俺たちの手からラッピングされたペンギンのスノードームを受け取ってくれた。
 平日だったこともあり、帰りは渋滞に巻き込まれず比較的順調に車が流れてる。
 太陽は頬を染めたように赤く、水彩画のように空を徐々にぼかしながら夕焼けを作っていく。あれだけ降った雪も、今日一日が見事な晴天だったから路肩に僅かに残るぐらい。けれどまだ当分続くだろう冬の気配は、少し開けた窓から吹き込む皮膚を突っつくような鋭い風と、車内からはっきりと見渡せる終わりを知らない水平線からひしひしと伝わった。
 行きは日々人が助手席だったから、今度は俺がシャロンの隣に座っている。
「シャロンおばちゃんって、普段からこんなに乗り回してる?」
「普段は買い物ぐらいね。今より若い頃は遠くても研究発表や学会の会場へ移動するために使ってたけれど、今は親切な助手が運転役を勤めてくれるから、一段と乗らなくなったわ」
 ルームミラー越しに見たのか、ヒビトが寝ちゃったわ、と微笑ましそうにシャロンは言うが、この揺れる車で寝られる弟の神経の図太さに、俺の中では呆れと感心が半々だ。
 それでも、日々人は俺なんかより、よっぽど出来た男だと思う。人がどうすれば傷付くのか、どうすれば傷付かずに済むのか、とてもよく知っている。俺の知らないところで、日々人は磨かれ続けたんだろう。普段からは想像も出来ないぐらい、弟が人に差し出すものはガラスのように繊細だ。
「ねえ、ムッタ。日々人に聞いたんだけれど、就職決まったんでしょう、本当におめでとう」
 信号は赤。シャロンの顔も同じく夕日を浴びて赤くなっている。
 年季の入った、金子夫妻のレンガ色の愛車フィアット500も、太陽の絵の具を塗り重ねて炎を纏ったような赤に見えることだろう。
 半世紀前の旧車のエンジンをいじって、なんとか高速を走らせられるまでになったけれど、それでも古いものは古い。エンジン音は常に車体を揺らし、足回りもガタガタ。無駄にでかい俺たち、そしてシャロンが乗ると、変な圧迫感を覚えるぐらいに、カモミールが染みた車内は窮屈だった。
 俺からちゃんと報告するつもりだったのに、とあどけない顔で眠る日々人に苛立つふりをしたら、あの子はあれであなたのことをとても大切にしているのよ、と思考が思わず停止してしまいそうなことを平然と言う。
「ムッタはもう社会人になるのね」
「実感わかないな」
「それは私も。一番最初の背比べの線は私より低かったのに」
「星に手が届きそう?」
「ふふ、本当に」
「でもシャロンおばちゃん」
「なに?」
 俺、宇宙を目指すの止めたんだ。
 小さくなりかけた声は、オーディオを切った車内では映画館のように響く。
「それでいいのよ。あなたが選んだことなら、私は全力で応援するわ」
 悲しんでくれる、とそう何処かで期待していたんだろうか、シャロンの言葉に少しがっかりする。どうして、何故、と切羽詰まった声で問い詰められたら、この瞬間のシャロンを手にしたかのような、大きな優越に浸れたのにと思う。
「ねぇ、ムッタ」
 信号が青に変わり、ゆっくりと車が前進する。
「私は一度だけ進一さんを否定したことがあるのよ」
 それは、初耳だった。シャロンのこの時の声ですら、初めて聞いた音色だった。
 いつだって初々しい恋人のような二人のやり取りは、思いやりでいっぱいだった。驚きすぎて間抜け顔にでもなっていたんだろう、俺に刹那視線を投げたシャロンは眉を下げて苦笑する。
「彼は、疲れるとムッタのようにすぐ風邪をひく人だった。あなた達の前では格好つけてたけれどね。迷惑かけてごめん、っていつも私に泣いて謝るの。私は一度も迷惑だなんて思ったことはないのよ、看病していた時だって寧ろ、進一さんとゆっくりと星の話や、ムッタやヒビトのことを話す時間が増えて幸せだった。
 だけど、入院してからも仕事をやめようとはしなかった、ノートパソコンを持ち込んで体力が弱っていくなかでも、ずっと」
 だからもう星のことなんて考えないで、って私はつい、言ってしまったわ。彼はごめん、ってさみしげに笑ってみせてくれたけれど。その翌日、眠るように星になってしまった。
「だからね、人は誰かの夢や道を否定する権利なんて少しも持っていないの。見守ることが一番難しいけれど、誰かがしようとしても、私はしない。ムッタ、自信を持ちなさい。あなたはスゴイ人よ、自分で決めた道ならどんなに大変でも、自分の足だけで歩く力を持った、とても強い人なのよ」
 私はあなたをいつまでも見てるわ、そしていつだってあの天文台で、目を輝かせて望遠鏡を覗きに来てくれるのを、ずっと待っているから。
 シャロンはやっぱり泣かなかった。その代わりに、顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。
 彼女の言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。そしてそれは、彼女の道だって誰にも止めることは出来ない、と制されているようにも聞こえた。
 喉が渇いた、とコンビニに寄って三人分のホットコーヒーを買った。シャロンいわく、進一さんもブラック派だったと知って、俺はとにかくたくさんシャロンに進一さんとの思い出話を聞き出した。もっと早くこうするべきだったのかもしれない、シャロンはまるで自分の事のように進一さんとのシャロンの暮らしを、俺たちに聞かせてくれた。
 いつの間にか夜も更けていた。高速を降りてからは、鼻がワサビを食べた後のようにツンと痛むけれど、窓を開けっ放しにしてある。
 星が綺麗な夜だった。金銀様々を惜しみなく使った何連ものネックレスを並べたような。
 そこにオーロラがあったなら、俺は心臓を丸呑みされたっていい、と思ってしまうのかもしれない、なんて考えていたら、同じく外を見ていた日々人が独り言のように「こういう時間っていいよな」と柄にもないことを言う。
「ふふ、私も好きよ。星を眺めてるだけの時間は最高ね」
「あ、でも俺、他にもあるよ」
「あら、なに?」
「シャロンおばちゃんが歌ってるとき。ほら俺に一度子守唄歌ってくれただろ。あの時間、結構好きだったよ」
 シャロン少しだけ驚いた後、恥ずかしいわ、と口に指を当てて笑った。まるで密かな恋心がばれてしまったかのように、頬を仄かに染めて。
 ようやく県内に辿り着き、俺たちの街へと走らせていくと、都会よりも街明かりが少ないせいか、濃密な静寂が瞬く間に築き上げられていく。
 少しだけうとうととしていたら、寝ていいわよ、と彼女に言われて言葉に甘えたけれど、ふやけそうな鼓膜の向こう側から聞こえてきた、ガラスを振るわせたような細い歌声が、俺を眠りにつかせてはくれなかった。
 眠ったふりをする、その少し前に、シャロンと話していたことを思い出す。

 ねえ、ムッタ。あの歌はね、ケネディがアポロ計画を表明したその翌年の1962年にヒットした、ジャズのスタンダードナンバーよ。
 特に有名なのはフランク・シナトラがボサノヴァ風アレンジをカバーしたもの。この時には、NASAではアポロ計画が着々と進み、無人、有人飛行を繰り返して、月面着陸も夢じゃないところまで来てた。
 タイトルも素敵よね。人々の希望が歌とシンクロしたんだと思うわ。
 この歌に勇気をもらった宇宙飛行士たちはアポロ10号、11号にもこの歌の録音テープを積んだらしいの。ニールもバズもマイケルも、この歌を聞いてどれだけ勇気を貰ったのかしら。

 進一さんと二人でこの歌をよく聞いたわ。
 ドライブをしながら、月や星を見ながら。天文台を建てたすぐなんて二人して貧乏だったけど、それでもこの曲を聞くと、宇宙に夢見ることへの勇気がもらえたの。貧乏でも、子供がいなくても、私たちの目の前は月明かりのように優しく輝いてた。

 私はね、あの人となら何処へ行っても楽しかったし、何処でもよかった。この歌のように月でも、火星でも木星でも。カーマンラインなんか越えられなくたって。地上から見るオーロラも素敵だし、望遠鏡から覗ける宇宙も想像すれば目の前に見事に広がるんだから。だって天文学者だもの。
 そう。何処へ行っても。あの人と一緒なら、そこは私にとってのハネムーンだった。

 “フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン”
 それが彼女の歌う子守唄だ。


続、
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