シャロンが固く結んでいた紐をそのしなやかな手でゆっくりと解くようにして語り始めたのは、人の吐く息全てが冬の遣いの手に染められたように白い、師走のこと。
 まだこの時、俺と日々人は三つも年の差があるのに身長はほぼ同じで、同じ目線で、同じものが見えていた。俺が中学生に上がってからも日々人を連れ立って裏山を駆け回り、星を眺めることは日常の一部で、そのことに違和感も疑問も抱いていなかったように思う。
 太陽が沈めばたちまち熱を失う空気は、芯から凍てついてしまう程冷たかった。カサカサ、と乾いた木の葉のような音を立てて手を擦り合わせているのは弟、日々人だ。
 寒いのはあんまり好きじゃない、と日々人が吐いた息は確かに冬のそれで、早く春になればいいのにな、と返した俺の口からも煙みたいな吐息が夜空へ散らばった。
 シャロンの家に辿り着くまでの、一段と深い闇の中にある山道には街灯一つなくて、風に揺られた木の葉の音が、四方八方から内緒話でもするように聞こえてくる。
 上に待つ素晴らしい世界を知らなければやはり何処か不気味さが漂っているのは、あまり手入れがされてない、伸びっぱなしの木々のせいなんだろう。
 初めて登った時は夏だったのに、身体の底に沈んだ勇気を奮い立たせるようにして作った拳を振りかざしながら歩いた気がする。俺も、日々人も。
 少し前を行く日々人の手に何気なく目をやれば、ほんのり赤い。よくよく見ればマフラーも手袋もない。日々人は同じ位置に小物を片付けない癖がある。どうせ今日も何処に置いたかわからずに探すのさえ面倒になったんだろう。何度もぐすぐすと鼻水を啜ってるから自業自得と思うが、ちょっと可哀想だとも思った。
 曲がりも何も、日々人は俺の弟だ。
「ごめんなさい、あなたたちがいつ来るかわからなかったから、こんなものしかクリスマスのために用意出来なくて」
 シャロンの部屋は外と違って、何処もかしこもも暖かい。シャロンの膝の上でゴロゴロ甘えた声を出している、ふわふわで真っ白な飼い猫も、春のような暖かさに寝ぼけ眼だ。
 コーディネートにはその人の持つ性格や雰囲気みたいなものが反映されるものなんだと思う。別に色彩に詳しい訳じゃないけれど、クリームとかアイボリーとか、シャロンの大切なグランドピアノの邪魔することなく柔らかい色味で統一された部屋は、何処かシャロンに似てる。
 そうやって俺が褒めたら、シャロンは嬉しそうにはにかんでいたっけ。
 俺と日々人の手には今、じんわりと温かいホットチョコレートがある。チョコの上には甘みのないホイップクリームと、小さな金粉とアラザン。遅ればせながらのクリスマスプレゼントと与えられたものだ。
 クリスマスなんて、もう過ぎてしまったのに。
 混ぜて飲むのよ、と言われたが俺にはもったいなくて出来ない。日々人は真っ先に混ぜた。ストローで絵の具を吹き散らしたみたいに夜空で輝く星たちが、今この手の中にあるようで、俺は出来るなら飲むのも避けたいぐらいだったのに。
「しばらく来られなかったのはさ。ムッちゃんがテストテストって部屋にこもってばっかりだったんだ」
「仕方ねぇだろ、お前だって来年は中学生だ。嫌でもわかるよ、テスト勉強の大変さ」
「いいのよ、二人が風邪もひかずに元気でいて、またこうして来てくれるだけで私は嬉しいわ」
 シャロンはここ数日、インフルエンザで寝込んでいたという。
「この歳でインフルエンザになると駄目ね、昔より治りも遅くて大変だったわ」
 今もあまりシャロンの顔色が良くない。
 チャイムを押して、いつもより長い時間待って出てきたシャロンの顔は、雪を埋め込んだように白くて、俺も日々人も「久しぶり」という単純な挨拶が上手く喉から出てこなかった。
 変な間が出来る。だけどシャロンはいつも突然押しかける俺たちのために腰を屈めて、嬉しそうに視線を合わせてくれた。
 濃くて深い紺色の膝掛けで冷えから身を守り、いつもならピンと空に引っ張られるようにして伸びている背筋も、今日は品の良さそうなソファの背凭れにぴたりとくっ付いている。
 仕事に家事に、俺たちの面倒に、はつらつと動き回る細いシャロンの体は、勝手に俺たちの中で風邪や病気とは無縁だと思い込んでいた。
 でもシャロンは、この世にたくさんいる女性の一人だった。
 改めて頭の正しい位置に記憶を戻される。
 そしていくら自分が辛くても、彼女は俺たちの前では、気丈に振舞おうとするということも。
「カーマンライン、ってわかるかしら」
 ホットチョコレートを空にしてから、いつものように代わる代わる望遠鏡を覗いていたときのことだった。今日は冬になるとシャロンが好んでよく焦点を合わせる、オリオン大星雲が手が届きそうな程真近にある。
 オリオン大星雲は地球にもっとも近い星雲のひとつだ。肉眼でも光のシミみたいに見えるけれど、双眼鏡、望遠鏡、さらにより大きな口径になればなるほど、面白いことに色が塗り替えられていく。最初は白色でも、口径40センチでぼんやりと緑色に、50センチを越えれば赤色になる。
 不思議だ。でもシャロンが言うには、人の目は赤を一番上手く感知出来ないからだ、って。高性能すぎる目を頼らなければ、人は本物の色すらわからない。これだけ近くにいても。
「え、何だっけ」
「教えただろ、日々人。地上から数えて100kmのとこにある、宇宙と地球の境目のことだよ」
「正解よ、ムッタ。それじゃあ、宇宙旅行をすることが出来たら、一体いくらかかる思う?」
「えーと百万円ぐらいとか」
「ふふ、残念ながらハズレね、ヒビト。今なら一番安いもので二千万円ぐらい」
「うわ、スゲぇ、俺の小遣いじゃ絶対無理だ」
「でも、カーマンラインをたった10km超えることが二千万円の宇宙旅行で出来る限界。だけど、あの空に浮かぶ月はカーマインラインを遥かに越えたその先にあるのよ」
 カーマンラインというものは宇宙と地球の境目があまりにも合間だから、人が作ってしまった架空の線。そこを少しでも越えたら宇宙なのよ。二千万円を高いと思うか、安いと思うか、それは人それぞれね。
 進一さんはとても安い、って言ってたわ。だからハネムーンは宇宙にしよう、ってお金を二人で貯めていたのに。
 どうしてかしら、今日はとても素敵な日だから、こんな素敵なことばかりを思い出すの。
「進一さんがたくさんの星の中で私という名前の小惑星を見つけてくれた日に、大切なあなたたちが二人で、元気に来てくれて、とても嬉しかった。素敵なことが、また一つ増えたわね」
 俺たちはこんなにも近くにいるシャロンの気持ちを、この時は少しも理解出来ていなかったんだと思う。


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