◇ 結晶は目で見える。こんなことをこの歳まで俺は知らなかった。だって東京やヒューストンでは乾いた雪にすらお目にかかれない。乾いた雪と、気温と、湿度や天候、さまざな環境が整えば、肥大化した結晶はそのままの形で降ってくる。六角形のまま。ぱちぱち、とビーズが弾けるような音を立てながら。 空から真っ直ぐ、銀の鉛筆で描いたような軌跡を残して降る、大きな結晶はまるで流れ星のようだった。彗星が生んだ夜空の子供達には、いくら流星群の時を狙ったって触れることなんて出来なかったが、地上で触れることの出来る唯一の星に、俺は寒さを忘れて空を見上げる。 手袋の中に収まった時、俺は自然と手に取った携帯で写真を撮っていた。住み慣れたこの土地の写真を撮ることでさえ、もう何年もしたことがなかったのに、本能が赴くままの出来事だった。 「それ、俺もやった」 その時の俺と全く同じことをした人は、今日も朝から寒いのに部屋の窓を全開にして、こちらの文句をさらりとかわし、ついでに布団に包まる俺から大切な羽毛を一気に剥がし取り、にやり、と笑う。 「ムッちゃんも写真撮ったりすんの」 「たまにな」 「あ、それ、俺の写真とかは?撮った?」 「そんなの、実家帰ったら腐る程あるだろ。今更お前を撮ってどうすんだよ」 昨日の晩に降り止むことなく落ちた雪は、モスクワの街並みから完全に色を無くした。アパートの窓からは、綿飴を撒き散らした絵が飾られているような光景しか見えない。 朝飯作ってやる、と言うムッちゃんは一台しかないコンロと、腕一本分ぐらいの流し台の狭い世界で支度を始め、あの狭さが苦手で遠退いたそこを自在に扱うムッちゃんに、少し感心する。 「でも、いつ?」 「今さっき。お前が寝てる間。すげぇな、拡大鏡もなしに形が見れるなんて」 「な。ここもさ、いいもんだろ」 静かに頷いたムッちゃんは今日もTシャツ一枚にパンツ、なんていうチャレンジャーな薄着だった。見てる方が寒いから、と俺のカーディガンを無理矢理羽織らせ、余る袖を折り返した時の不服そうな顔は、目玉焼きの焼き上がりと一緒に消えた。 真っ青な皿に、目玉焼きとちぎったレタスにライ麦パン、調味料がなさ過ぎて味の薄いオニオンスープは赤いマグカップ、とメニューは質素なのに、俺にとっては、こんなに食材あったかな、と首を捻るような、豊かな料理だ。 「日々人、さては自炊してねーな」 「ここでは、あんまりね。イヴァンの家に招待されること多いから、そっちで食べてる」 「あんまり他所様の家で迷惑かけんなよ」 「何だそれ、母ちゃんみてぇ」 たまには帰ってやれよ、日本にも。あんなんでも心配はしてるんだ。父ちゃんとか、無関心そうで宇宙関連のニュースは絶対見てるんだ、と。芽は早いうちに摘んでおけ、とムッちゃんの小言は、俺が食べ終わるまで続いた。 天気予報は、相変わらず優れない。氷点下がずらりと並ぶ気温表には本気で身が凍る思いがする。 ムッちゃんの滞在はたった三日で、四日目の朝には帰るという。それすらも今日知った。ここに来る、っていうのも有給申請を出来るかどうか怪しいラインの日に電話で言われたんだった。 別にお前が駄目なら駄目でいいんだ、観光ビザは取れたから、勝手に観光するさ。そう言っていたから何処か行きたい場所でもあるのかと思ったら「散歩する」と食器を洗い終えたムッちゃんは早々にコートを着込んだ。 「有給取ったのに」 「どうせなら仕事してきてもいいぞ。お前忙しいだろ」 「まだ一年半もある」 「もう一年半しかねーんだよ」 今俺は、月に向かう準備段階に入っている。 ここ数年でロシアとアメリカの宇宙開発は友好の手を取り合い、公開情報を約束した上の協力体制で軒並みの発展と成果を見せた。アレスロケットの後発としてようやく完成した、有人と物資運搬を同時にこなせるSLSは宇宙局の、ロシアの新しいボストチヌイ宇宙基地の建設費用にNASAの支援があったという。 「今度の日々人のときは、ボストチヌイからか?」 「そ。ここからもうめちゃくちゃ遠いのなんの。行って帰ってくるだけで疲れる」 ボストチヌイはロシア・アムール州にある、極東の発射場だ。ロケット移送の費用がかさむ遠方の地であるために政治家の反対により、着工の遅れを取っていたが、それでもなお太平洋を渡っての輸送も可能な他、南緯度域にあるここは、より宇宙船を的確に軌道に乗せられるメリットを宇宙局は説き続けた。 太平洋を渡ることが出来るなら、SLSを運ぶことも可能。その影なるNASAの思惑が、手を伸ばしてきた経緯だろう、とウォッカグラスを恐ろしい数だけ空にしたイヴァンが言った。 『ヒビチョフの熱意に負けたんだよ、ワシはな。あとは知らん。上層部が勝手に手を取り合っただけだ』 手を結ぶことがどちらにも有益であることは、NASAもロシアもわかっている。しかし、そう一筋縄でいかないのが、国と国の難しさだ。 でも俺はどうしても。NASAと宇宙局は手を組むべきだと、イヴァンに執拗に訴えた。小難しい算段とか利益とか勝手にこじ付けながらも、本当の理由なんてたった一つだったが、それすらイヴァンは見抜いていただろう。重い腰を上げたイヴァンは、呆れたように笑っていた。 そこから、イヴァンを筆頭に協定を結ぶための署名活動が始まったのだ。 「NASAも、気付いたときには署名が始まってたな。ロシアの宇宙飛行士は利己主義だけど、でもみんな好きだ。基地で生活してきたやつらは特に言ってる。心を開いたときのやつらの笑顔は最高だ、って」 ムッちゃんの荷物の中には手袋なんか入っていなくて、寒そうに手をこすりながら、雪の中を歩いている。厚ぼったい灰色の布を敷き詰めたように、空は蓋をされていた。こんな空では打ち上げも出来やしないのに、俺が前回ソユーズに乗った時も。 「打ち上げの時は晴れるのにな」 「日々人が晴れ男なんだろ」 「今晴れたらいいのに」 「何で」 「ムッちゃんの手、こんなに冷たくなってる」 「道のど真ん中で触るな。こっちじゃ捕まっちまうんだろ」 そう言って俺の手を軽く払ったムッちゃんは、ちらちら降り始めた雪の中で、悲しげに笑った。ロシアに住んでいないはずの彼は、ちゃんとロシアの法律を知っていた。 結局ムッちゃんは本当に散歩を楽しんだだけだった。雪の塊に足跡をつけ、その隣に俺の足跡をつけると「これでアポの足跡でもあれば完璧なのに」なんて、もう白い息も出なくなった顔は逆上せたように朱がさしている。 「足跡つけて遊んだだろ」 「ヒューストンですんごい積もった時?」 「寒いし、お互い鼻水止まらねぇし、手袋してないまま雪触ったせいで霜焼け状態だし、三十も越えた大人が何やってんだ、って。でも」 結構ハマった、年甲斐もなく。鼻声で笑った声は、何処かの雪山とか、もしかしたらヒューストン辺りに置いてきのか、酷く小さい。 異常だった。あの頃の俺たちも。あの年の気象も。ムッちゃんとの暮らしも、飽きもせず毎日の男同士の無意味なセックスも。 きっとあの頃は幸福の頂に登りつめていたんだろう。頂に立ったことを自覚した途端、失うことへの恐怖しかない足元に、日に日に怯えを感じていた。 ヒューストンの雪を見るのはこれで最後だ、と終焉のような静寂の銀世界に俺は躊躇したけれど、この時ムッちゃんは俺の手を引いて、一目散に外に飛び出して行った。あの冷たい手の何処に潜んでいたのか、力強い手だった。 張り詰めていたものが弾けたように、俺とムッちゃんはけたけた笑って、雪の上を駆けて、転んで、高校以来の青あざも作った。月をまだ知らないはずの、今より皺が少なかったムッちゃんが、重力の服を脱ぎ捨てて、白銀の粉を散らしながら足跡をつけるのを見ると、その横で並んで立つのは俺でありたい、と強く願うしかなかった。 「月の予行演習だ、って言ってムッちゃんはしゃいでたよ」 「あれが良かったんだ。体裁も考えずに吹っ切れることが出来たから、俺の足跡、ちゃんと月に残ってるよ。沢山つけてきた」 「俺も。ムッちゃんのには負けてねぇよ」 「俺だって負けてない」 「だったら今度は沢山俺がつけてくる」 ウシャンカには肥大化した雪の結晶が刺さっていて、沢山の星にムッちゃんは包まれている。月面に立った時、彼はこんな風に沢山の星に囲まれていたことだろう。俺もそうだったように。 真空の世界。光を遮るものがない月面からは、星の色と輝きは直接目に触れる。地球よりも、もっと多くの星に抱かれているような錯覚を起こす。あれはここじゃ味わえない。本来の星は、万華鏡のようにくるくると命の強弱をつけて、輝いている。雪とは、違う。 「冷たいと思ったら、こんなに積もってんのか」 コートの袖にまでやってきた結晶をひとつずつ抜き取りながら、今生の別れでもないのに彼は泣きそうな顔をする。俺の胸はやたらと騒がしくて仕方ない。 月に立ってもやっぱり手は冷たかった、と以前ムッちゃんが電話口で語ったことがある。 日本でもアメリカでも月でも、結局はこれは治らねぇみたいだな、ってヒューストンのあの家に検査から解放されて帰ってきたムッちゃんは、ベッドの上に横たわっていたのだろう、時折スプリングがきしりとしなる。少し息苦しそうなのは、軽く熱があるせいなのかもしれない。 ムッちゃんの部屋のベッドはいつも真っ白だ。多分俺が離れてからも。日本製の羽毛ぶとんを取り寄せて、シーツもカバーも漂白剤で何度も洗い直したような真っ白な色で揃えていた。理由を聞いたら、お前がすぐ汚すからだ、と拗ねたように布団に顔を埋める。色物は目立って仕方がない、と。 あの時見せたほんのり上気した頬は、今も変わらない。それでも目じりの皺と、痩せた頬は俺の知らない間に増えていた。 「ムッちゃん、何やってんの」 少し目を離した隙に、彼は雪の中に倒れ込んでいた。羽を休めるようにゆっくりと、背中から着地した。ウシャンカを脱ぎ捨て、目を瞑り、横たわるだけのその姿は、京都で見た、ひと夏の白を連想させる。 京都のばあちゃんが眠る桐の箱の中は雪なんかじゃなかった。大きな牡丹菊が美しく敷き詰められていた。外ではツクツクボウシが輪唱していて、俺はそれに負けないぐらいわーわー泣いた。隣で涙を堪えるムッちゃんは珍しく汗までかいている。 『大丈夫だ、日々人』 手を、繋いだ。冷たい手だった。それでもばあちゃんの手よりは暖かかった。 俺の震える手をさらったのはムッちゃんの手だ。お互いの体温を分けあうように、きつく握ったのを覚えている。 ムッちゃんはこの日、実家で倒れるまで何も言わなかった。苦しい、も、熱い、も一言も。 「なあ、日々人」 ムッちゃんの指先と頬だけは血の色が浮き出ている。それが妙に救われた気持ちになるのは、まだ彼が生きているとわかるからだ。 「気持ちいいな、雪」 「なあ、熱あるんじゃねーの」 「手はまだ冷たいぞ」 「それは元からだろ。ほら、帰ろう。風邪ひいて倒れたら大変じゃん」 「俺は宇宙飛行士だ。体調管理ぐらい出来てる」 そう言っててもあの家でだって何度かふらついてたろ、帰ろう。 腕を引っ張る。俺の知らない細い腕にどうしようもなく泣きたくなる。泣いてもいないのに、ムッちゃんは俺の背中に、昔から日々人は泣き虫だな、って囁いた。振り返るとムッちゃんは笑っていて、頬についた雪はたちまち彼の熱に溶かされていく。 「白い流れ星がいっぱいで、ここはすげえ、綺麗だ」 息が詰まるような、笑顔だった。時が止まった気がした。 こんな時、俺はいつだって、上手い言葉を言えない。初めて天文台で望遠鏡を覗いたときも、初めて月に立ったときでさえも、大切な言葉は頭上にあるのに遠過ぎて、言葉を掴む手はいつでも空振りに終わる。人知れず、俺の中だけで死んで行く。 ムッちゃんにならわかるだろ、って勝手に同意を求めて言う俺を、あの頃のムッちゃんは、足りなさすぎてわかんねーよ、って笑い飛ばしてくれていた。 「本物は、もっといいのにな」 彼の瞼に落ちた雪が溶ける。すう、と重力のままに落ちたそれは、流れ星よりも美しかった。 →next |