「貴女次第ですよ? どうします……?」
右手に書類を振りかざし、にっこり笑う彼は非の打ちどころもない好青年――それがとんだ勘違いだと知ったのは、昨日のこと。
背の高い、二つ年下の上司を睨みつけ、私は一歩踏み出す。
近付く私に彼は満足そうに微笑む。
この判断が、さらなる不幸への序章ではないことを、信じてもいない神様に祈った。
何でこんなことに……。
楠木茅乃(くすき かやの)、高校教師二十七歳。
先日、婚約者に振られたばかりの傷心乙女(いいのよ乙女で)。
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出身校でもある、私立蒼蓉学園高校に私が英語教諭として勤めて五年。
担任は持っていないものの、二年の英科を担当、演劇部の顧問として生徒を指導する毎日。長く付き合った同僚の物理教諭と先日婚約、結婚が決まった。
順風満帆、そう思っていた。
――その日、その彼に呼び出されるまで。
「すまない」
お前が悪いんじゃない、と彼は何度も言った。全て、自分が悪いのだとも。
常になくまわりくどい彼の言い訳を要約するならば、他に好きな人が出来て、本気で愛してしまった今、私と結婚することは出来ないので婚約を白紙に戻して別れて欲しい――ということ。
なんじゃそりゃ、と思わないでもなかった。
土下座の勢いで深く頭を下げる、婚約者であった目の前の男をボウと眺める。
同僚である彼との付き合いは、学生時代を含むと九年。そのうち、六年が親友、あとの三年が恋人関係ということになるが、こんな彼を見るはめになるなんて思わなかった。
結納は済ませてないし、まだお互いの両親とも顔を合わせてない段階だったので、婚約破棄というのは大袈裟かもしれないけれど、
これって私、キレていい場面よね?
泣いてなじって罵倒して、当然の場面。
――だけど、この部屋と繋がっている理科準備室のドアから、こちらを伺っている女生徒に気がついた瞬間、生来のプライドの高さが、私にそうすることを許さなかった。
左手薬指にはめていたリングを抜き取り、頭を下げる彼の前に置いた。
小さなダイヤのついた、婚約を決めた日に彼から貰った指輪。
ハッとして彼が私を見る。
愛していると思っていた男の眼を見つめ、私は言った。
「わかったわ。……だけど、貴方を許すわけじゃないから。許されるとも、思ってないわよね? ――じゃあ、さよなら、藤岡先生」
大人のオンナらしく、あっさりと私は別れ話を切り上げる。
ごめん、と重ねて詫びながら彼が安堵しているのがわかった。
彼が教え子に手を出すなんて。そう思うと、呆れるより、諦めが先に立った。
長い付き合いだから、一時の情熱に流されてじゃなく、どうしようもなく気持ちが持っていかれたんだと、説明されなくとも分かったから。
私より、彼女を選んでしまうほどの想いがそこにあることが、分かってしまったから。
外に出る前に、彼の新しい恋人であるらしい女生徒を確認する。
二年の清楚系美少女として密かに人気の高原さん。
涙を大きな瞳に溜めて、頭を下げた彼女に余裕の笑みを投げて、私はその場から立ち去った。
「はぁ……。若い娘にオトコ盗られちゃったよぅ……」
改めて言葉にすると更にヘコむ。
私は人気のない、屋上に続く階段に膝を抱えて座り込んだ。
カッコつけて指輪返さなきゃよかった。売ればいくらかにはなったのに。ヤケクソ気味にそんなことを思う。
あ〜あ、どうしようかなぁ。
彼と付き合ってたのは隠してなかったし、両親や友人にも、今付き合ってる人と結婚するよと言っちゃってたのに。
落ち込むのは、彼に振られたことよりも、結婚がダメになって周りになんて言おう、という心配のほうが先にたつことだ。
それって結局、彼を何よりも好きな訳じゃなかったってことでしょ?
なのに結婚するつもりでいて、できなくなったことにショック受けてるって、自分で自分が情けない。
気が付いてないわけじゃなかった。
もともと友人だったし、お互いいい歳だし一緒にいて楽な相手だから結婚するか、なんて感じで始まった交際だった。
身体を重ねてもスキンシップのようなもので、そこに情熱も情欲もなかった。
それすら数ヵ月前からなくなっていて。
彼がときどき、すまなさそうに微笑むのだって気付いてた。
――ずっと、気付かないふりをしてたんだ。
ぽろ、と涙がこぼれて、そんな私に泣く権利はないと手で拭おうとしたときだった。
目の前にきちんとプレスされたハンカチを差し出されて、私は瞬く。
「……大丈夫ですか?」
見上げると、心配そうな眼差しをした青年が、私を覗き込んでいた。
仕立てのよいスーツに長身を包み、ゆるくウェーブのかかった薄い色の髪を綺麗に整え、銀にも見える不思議な灰色の瞳の持ち主である彼は、年下の上司。
昨年、二十四歳という若さでうちの学院の理事に就任した古賀(こが)暁臣(あきおみ)様ではないですか。
うぅ、いい男にカッコ悪いとこ見られたぁ。
「……やだ、大丈夫です理事長。ちょっと自己嫌悪で、」
言って微笑んだ私を何故か痛そうに見つめて、ハンカチを手に押し込んでくる。
マスカラついちゃうのにな、と思いつつも擦るともっと酷いことになるので有り難くお借りした。
「――そうやって、ひとりで泣くくらいなら、どうして彼を責めないんです」
「え……」
「すみません。通りがかったときに聞いてしまいました」
申し訳なさそうに目を伏せる理事長は、私と彼の別れ話を目撃してしまったらしい。
うわぁ。マズイかしら。職場恋愛が禁じられている訳じゃないけど……って、まさか彼の相手が生徒だってことは。
バレて、ないよね?
もう、何で私が慌てなくちゃならないのよ?
「……楠木先生?」
「やっ、えと、だってみっともないでしょう? もういい歳なんですし、別れ話で揉めるなんて……」
「真剣に付き合ってたのなら当然のことだと思いますが。まして、彼とは結婚を約束していたとお聞きしていますが?」
あ、そうか……。彼にプロポーズされたときに、校長には話していたんだっけ。結婚したらどちらかが学校を移らなきゃならないから。
校長め、先に理事長に話しやがったな。
あああ、校長にも別れたこと言わなきゃなんないのか。
もう、何だか何もかもが面倒くさくなってくる。
……辞めちゃおっかな。
「駄目ですよ、辞めるなんて」
「ひょぇ?!」
読心術!? 読心術なの!?
おののく私だったけれど、実際は声に出てたらしい。
「裏切った男の為に、何故貴女が職を辞さねばならないのです? 辞めるべきなのはあの男のほうだ」
思いがけない語句の強さに驚いて顔を上げると、怖いくらい真剣な瞳をした理事長が私を見ていた。
嵐の前の空ような、銀灰の瞳に視線を囚われて。
思わず息を飲む。
「り……、」
「暁臣、と」
吐息を近くに感じて、やわらかなものが唇を塞いで。
キス、されてる……?
「……!? ――ンんッ!」
覆い被さるように唇を重ねられ、慌てて押し退けようと両手で突っぱねるが、そのまま逆に腕を捕られて胸の中に抱き込まれてしまう。
「……ぁ、んぅ…んっ」
首を振って逃れようとしても、後頭部をガッチリ捕らえられててそれも出来ない。
食まれ、吸われ、舌が絡む。
ナニコレ。何で―――、
息も奪われるくちづけに、離されたときにはグニャグニャになってしまっていた。
ピチャリと、オマケのように唾液で濡れた唇を舐められる。
初めて味わうような激しいキスに荒い息をつく私は、もう何がなんだか。
いつの間にか抱き上げられ、どこかに向かっているのも気がついてなかった。
っ、て、ぇえ?! なにこの状況!
「り、じちょう……っ、下ろしてくださ……」
いわゆるお姫様抱っこで私が運ばれたのは、理事長室。
「ひゃっ!」
お高そうなソファに投げ出されたと思ったら、再びキス。
「ん、……ゃめ、っふ……っ」
さっきみたいに乱暴なモノとは違って、今度は甘く、やさしいくちづけだった。
下唇を甘噛みされ、舌先で味わうようにされ、不覚にも酔ってしまった。勝手に吐息が漏れる。
「……っふは…、ぁ……」
くったりと力をなくし横たわる私を見下ろして、彼はささやいた。
「イイ顔ですね……もっと見せて下さい……」
私のブラウスのリボンタイを解き、ボタンを外す動きにためらいは見られない。下着に包まれたふくらみに唇を落とされ、身をすくませた。
正気に戻ったともいう。
「い、――やっ、なに……!?」
逃げようとして気付く。いつの間にかネクタイで両手が拘束されている。
その手を頭上でひとまとめに押さえられ、愕然と目の前の青年を見つめた。
なにこれ、どういう状況?
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