惑・madoi〜L'Oiseau bleu.
 
 愛人関係、と彼女は自分たちの関係を内心でそう言っているが、世間一般から見ると、なんらおかしなところはない恋人同士に見える、ということは一応理解していた。
 お互いに結婚しているわけでもなく、決まった相手がいるわけでもない。
 雇用主と雇用者というところは、まあ、うるさがたに知られればイヤミのひとつでも言われそうだが。
 それでも、頑なに、愛人だと言い続けるのは。
 この始まりが、普通ではなかったことと、言葉がないから。欲しいわけでもないけれど。

 授業が終わって部活が始まる、その空いた時間を狙ったように机の上の携帯が鳴った。
 受信相手の名前を確認して、茅乃は思わず半眼になる。
 ……理事長。今日会うはずなのにせっかちな人だ、と思いつつ彼女は通話ボタンを押した。
 疲れたような声で、迎えに行けなくなったという詫びの内容だった。仕事で厄介ごとがあったらしい。
 なら今日はナシですねと彼女があっさり言うと、ムキになってホテルで待ってて下さいという彼の要求。
 そんなにシタイのかしら。ミもフタもないことをこっそり呟いて、彼女は了解の返事を返す。おざなりに激励して、通話を切った。
 そして、頭の隅でひとりごちる。
 
 ……さすがにね、最近は。
 理事長が、こちらの事をどう思っているのかなんて、薄々気付いてる。
 だけどハッキリ言葉にされたことはないし、私の方こそ彼をどう思っているかなんて、自分でもまだわかってない。
 
 嫌い、ではない。好き、と言うには納得がいかないものがある。
 身体で繋がっている、曖昧で不確かな、この関係を言葉にするには、もう少し、時間が必要。


  ***********


「お兄ちゃんの恋人見たい見たい見たい〜〜! 連れてきてっ?」

 九歳下の異母妹である朔耶(さくや)がそう言い出した時、イヤな予感はした。
 茅乃さんとそういう関係になってから、月に数回は顔を出していた実家から足が遠のき、空いた時間は彼女と過ごす事を優先していたので当然と言えば当然の結果かもしれない。
 今までどんな女性と付き合っていても、家族をおろそかにした事はなかったので、不審に思われても仕方ない……とは思うものの、実際のところ、茅乃さんと自分は決して『恋人』といった甘い関係ではないので、妹のお願いを叶えることは出来ない。
 というか、家族に会って欲しいなどと言ったら、逃げられる可能性大。
 弱味につけこみ、無理矢理関係を続けている立場としてはどんな些細なリスクも負いたくない。
 ……弱味に関しては、最近疑問がない訳でもないが。
 抱かれることを拒否せず、傷付けるような酷い性交のあとも、変わらず側に居ることを許されている。
 彼女が本当のところ、私をどう思っているのかわからないが、嫌いじゃない、そう言ってくれている状況を、こちらから悪くするのは避けたいのだ。
 わくわくした瞳で私の返事を待っている妹に、とびきりの笑みを向ける。

「勿体無いから見せません」

 一蹴して、その話は終わり。
 むぅ、とふくれた妹が、ちっとも終わりにはしていなかったことに気付かず。
 
 
 週末。
 いつもなら、学校で部活監督を終えた茅乃さんを捕まえホテルに直行するのだが、会社の仕事がゴタつき時間に間に合わなくなってしまった。
 せっかく、明後日夜まで茅乃さんを独り占め出来る数少ない機会だったのに、とミスをしてくれた部下を心の中で数回死刑にして気を晴らす。
 やっと休憩をとれた僅かな時間に電話を入れると、

[なら今日はナシってことで〜]

 心なしか弾んだような声で返され、ヘコみそうになった。

「夜までには必ず終らせます! ルームサービス好きなだけ頼んで構いませんから待ってて下さい」
[……私にあのホテルまで一人で行けと……?]

 あ。これでは抱かれに来いと強要しているようなものか? いやまあ、することに変わりはないんだが。
 第一には会いたいという気持ちがある訳で。
 どうしよう。機嫌を損ねてしまっただろうか。
 外見には全く平然と、中身はオロオロと帰ってくるであろう言葉を待つ。

[……私一人で行くには敷居が高いんですよ、あそこって]

 少し、拗ねたような声色にほっとする。怒らせてはいないようだ。

「そうですか? 気にすることはないと思うんですが」

 大体、私と一緒にいることで支配人に彼女は覚えられているので、ノーチェックで部屋まで案内されるはずなのだが。

[理事長はそうかもしれませんけどね、私は場違いで困っちゃうんですってば]
「そんな事はないと……」
「部長! すみませんデータ復旧したんで、チェックお願いします!」

 部下の呼び声にため息をつく。

「すみません茅乃さん、後でもう一度――、」
[……一階のラウンジでお茶してます。ゆっくり出掛けて、そうしてれば、いい頃合いですよね? もちろん理事長にツケときますよ]
「――はい。大至急終らせて行きますので」

 いいですよ、ケーキ制覇してますから。と冗談めいた言葉は、忙しい私を気遣ってのことか。
 どこまで許してくれるんだろう、私の身勝手なわがままを。
 従う義理などないのに。
 そこに少しでも、情のあることを信じたい。
“お仕事頑張って下さいね”という、彼女にとっては会話を締めくくる挨拶であったそれに、張り切ってしまう自分がいる。
 彼女の何でもない言葉に左右されてしまう自分が可笑しかった。
 誰かを好きになって、その誰かを好きになった自分を嫌いではないと思えたのは、彼女が初めてなのだ。
 ――失いたくない。
 一刻も早く茅乃さんに会うため、仕事に取り掛かった。
 その頃、妹一味の悪巧みが進行しているとは露知らず。
 
 
「茅乃さん? 今着きました、どちらに居られます?」

 着くなり電話を入れた。
 車を預け、荷物を持つのももどかしく足を早めると、耳元で軽く笑う彼女の声。
 駄目だ、ニヤけそうになる。

[ケーキ制覇したところですよ。ラウンジにいます。別に逃げませんから慌てなくても]

 携帯から聞こえる茅乃さんの様子はご機嫌のようだったが、彼女のことだから逃げないかどうかはわからない。
 会話しつつ、ラウンジへ向かうと、以前に私が(強制的に)贈ったドレスを着ている茅乃さんを見つけた。
 教師モードではない彼女とこんなふうに待ち合わせしていると、普通の恋人同士みたいで心が踊る。

[結構早かったですね]

 それを最後に通話を切り、茅乃さんがこちらへやって来る。
 お茶を飲んだばかりなら食事には早いだろうし、少し部屋でゆっくりしたいな、と考えていると、横から黄色い声に抱きつかれた。
 ……は? 暁臣さん、って、何言ってるんだ朔耶?
 突然現れ、腰に抱きついている妹の頭を呆気に取られて見下ろすと、

「あの人が恋人とは意表を突いてくれるわね、お兄ちゃんっ。さて問題で〜す、この状況、端から見るとどんな感じでしょう?」

 表情だけは可愛らしく、小さな声で私だけに聞こえるようにささやいた妹は悪魔だった。
 端から……?
 ホテルのロビー。若い美少女に親しげに名を呼ばれ、甘えるように抱きつかれている。
 自分にしてみれば、妹に謎の突撃をされた状況なのだが、他人から見ると……。
 ハッと茅乃さんを窺うと、“私は知らない人ですよ〜”と言わんばかりにふいと目を反らし、何処かへ行こうとしていた。

「あや、彼女さん怒っちゃった〜? 言い訳大変ね、お兄様ぁ……っキャッ?!」

 嫉妬なんて嬉しいこと茅乃さんがしてくれる訳がない。

「茅乃さん……!」

 確信犯の妹の腕を振りほどき、焦って茅乃さんを追う。

「茅乃さん! 待ってくださいっ!」
「ひゃッ!?」

 危うく、出入口を過ぎようとしていた茅乃さんを捕まえ、腕を掴んで引き寄せた。
 逃げられないように腰をしっかり抱きしめて。

「どこへ行くんですか……!」
「ややや、マズイんじゃないですか、お知り合いなんでしょ? 私との事バレたら……」

 やっぱりだ。
 朔耶は彼女に浮気相手が現れたと誤解させようとしたのだろうが、茅乃さんは自分こそが、隠されるべき立場の者だと思っている。
 そう思う原因を作ったのは私なので、言い訳の仕様もない。
 まだ逃げようとする身体を腕に閉じ込める。

「あれは妹です」
「……へ?」
「妹の悪ふざけです。放って置いて構いません」
「え。……余計ヤバいのでは……」

 もう何も聞かず茅乃さんを部屋へ誘導する。
 目の端に捉えた、妹と、企みに加担していたらしい従兄弟を睨んでおいて、エレベーターへ向かった。
 
 
「んっ、ふ、っん……」

 ドアを閉めるなり、すがり付くように抱きしめて唇を奪う。

「は、理事ちょ……? どしたんです」

 余程情けない顔をしていたのか、茅乃さんが眉をひそめて私の頬を撫でた。その手を取って、指にキスする。

「……逃げないと言ったじゃないですか……」
「う。だってアレは――って! 見られて大丈夫なんですか、妹さんに!」
「あの馬鹿娘は、あとできっちり仕置いておきます」

 言いながらもう一度唇を塞いだ。
 ぴくん、と身じろぎした後、ゆるく背中に回された腕に、勢いづいてくちづけを深くする。舌を擦り合わせ、食むように貪るうちに、彼女の身体から力が抜けた。
 膝裏を持ち、ベッドまで運んだ。抵抗する様子はない。
 諦めているのかと様子を窺うと、ジッと興味深げに見つめられていた。
 真っ直ぐな瞳に少し怯む。

「……茅乃さん?」
「何だか今日は余裕がないですね、理事長?」

 余裕なんていつもない。
 茅乃さんが欲しくて、失いたくなくて、でもどうすればいいかわからなくて。
 気ばかり焦って、身体だけ奪ってしまう。
 ずっと腕の中に閉じ込めて、自分だけのものにしたいと――

「疲れてるんじゃないですか?」

 仕事、大変だったみたいですし。
 押し倒されている状況だというのに、茅乃さんは子供にするように私の頭を撫でてきた。

「……今日は茅乃さんが余裕ですね」

 茅乃さんの上に覆い被さるように、そのまま横たわった。それこそ、子供が親に甘えるように抱きついて。

「重いです」
「茅乃さんは油断すると逃げるので」

 何をする訳でもなく、ただ抱き合っているだけで安心できる、こんな心地よさも知らなかった。
 確かに、疲れているのかもしれない。
 先週、先々週と会社仕事がつまりすぎていて、茅乃さんの顔を見に行く時間すら取れなかったのだ。茅乃さんが不足している。
 肩口に顔を埋めるようにしていると、微かにバニラのような香り。

「甘い匂いがしますね、茅乃さん」
「ケーキ六個食べましたもん。……お腹押さないで下さい、ミが出ます」

 六個もどこに入ったんだと、腹部を撫でるとペチリと手を叩かれた。

「カロリー消費に運動しますか?」
「……ミが出ますってば」

 そう言いながらも、拒絶はしない。
 腹部から胸元に手を滑らせ、軽く揉むと、ん、と眉をひそめて茅乃さんが小さく息を吐く。
 鎖骨からふくらみの上に舌を這わせ、やわらかい肌を味わった。
 久しぶり、だからこそ、ゆっくり彼女と触れ合いたかった。
 なのに、身体は早く彼女の熱を感じたがって私を急かす。
 ドレスの前をはだけ、下着の中から乳房を取り出してむしゃぶりつく。
 朱く色付いた頂きを吸うと、身体をよじり、彼女は震えて息を弾ませた。

「っ、理事長、食事はどうす……んん……ッ!」

 本格的に快楽を求め出した私に、今さらなストップがかけられる。が、止まるわけもなく。

「……先に茅乃さんをいただくことにします」

 胸を愛撫しながら下を探る。
 下着の中はもう濡れていて、指先で擦ると、もどかしげに腰を揺らす彼女に、ささやきを落とした。
 ――逢わない間、自分でシテました……?

「ッ! するわけな……っ……、」

 カア、と頬を赤くして潤む瞳で睨む自分がどんなにオトコの欲を煽るかわかっていない。
 その瞳に私がおかしいくらい夢中なのも。
 せめて私が思う半分でもいいから求めて欲しくて、あえて肝心な部分に触れず、布の上から輪郭をなぞる。
 弱い耳の後ろを舐めて、片手は胸の粒をこね、もう片方で内腿の柔らかい敏感な場所を擦って。
 茅乃さんの熱い荒い息を感じて、こっちも熱くなる。
 が、彼女から私を求める言葉が聞きたくて、我慢する。
 口腔に、擦られすぎてぷっくりと赤く腫れたように立ち上がった胸の粒を含み、羞恥を煽る水音をたてて舐めしゃぶる。
 キツく吸いあげるたびに彼女がビクビクと身体を跳ねさせた。貴女の弱い処など、知り尽くしているのだ。

「っふ、ンん……、ぁ、り、じちょ……ッ!」
「何ですか?」

 意地悪な笑みで吐息を耳に落とすと、ビクリと身を震わせた茅乃さんがうぅ、と私を睨んだ。
 ふるふる首を振って、意地でも言わない彼女の可愛さに、しかしやっぱり負けるのはこちらの方で。
 口を吸って、強ばりを解くようにやわらかく舌を絡めて、トロリと瞳が快楽に沈んだのを確認すると、割れ目に指を差し込んだ。

「っあ、はぁ、んん……」

 キュゥ、と指を締め付ける肉壁が、待っていた事を教えてきて、まぁこれだけでもいいか、と自分を納得させる。
 茅乃さんをこうできるのも、私だけだし。とりあえず今は、身体だけでも求められているのはわかっている。
 ――さっき、茅乃さんが去るところを見た時はゾッとした。
 元婚約者の弱み、という茅乃さん自身にはなんの拘束力を持たない脅迫材料で、関係を続けている。
 どんなに私が茅乃さんを愛しているとしても、それは許されない事。
 茅乃さんの心ひとつで立場は引っくり返る。
 誰が隣にいようとただ幸せを願っていた最初とは違い、彼女の身体の熱さ甘さを知ったあとでは、もうそれは出来そうにない。
 去る背中を見た時、自分の何かが壊れそうな気がして、手放す事など出来はしないと、思い知った。
 ――私の腕の中で、狂うまで、犯してしまおうか――
 暗い考えにとりつかれそうになった私を我に返らせたのは、茅乃さんの甘い声。

「っ、暁、おみ……ん、」

 ナカを掻き回し続ける指を弱々しくひっかいて、止めようとしていた細い手が、私のそれにあてられる。

「……ハァ、っぁ……っもぅ、ぃ、からぁ、」
 ――来て――

「っ……」

 ここで言うか。

「っあ! っ、ん―ッ!」

 一気に押し入れたそれを柔らかく熱く包み込んで受け入れる、茅乃さんに溺れる。

「んぁ、あ、ぁあう、、っぁン、」

 いつも、次は優しくしようと思うのに、その時になったらそんな余裕もなく必死に彼女を貪ってしまう。
 ベッドを軋ませ、あえぎ声が泣き声に変わるまで身を揺さぶり、欲を注ぎ込み。
 どこまで許してくれる?
 貴女の全てを求めるこの強欲を。
 貴女が去るのが恐くて、想いを告げないズルさを。
 こうして身体を繋げている時だけは、何の不安もなくて、世界は貴女と私だけで。
 それが泣きたいくらい幸せだなんて、どうしてしまったんだろう。
 誰かを愛してこんなに自分が変わるなど思いもしなかった。
 貴女を失えばどうなるのか、考えたくもない。
 ためらいもなく、こちらに向けた拒絶の背中を。
 いつか、否応なく見るときが来ることを、うすうす予感しながら、そのときを引き延ばす。

「あ、っん、ハァ、ぁあ、ハ、っんん……あああッ!」
「茅乃、さん……ッ、」

 せめて名前を呼んで、言えない言葉をその文字に含めて。
 耳元に声を流し込むうちに、彼女の内側が崩れるのを感じる、瞬間。
 熱く熔けて、違う生き物である私を、赦して、呑みこんで、開放する――その刹那を求めて、愚かな男になる。
 
 惑う心の落ち着き先は、ただ、貴女の胸の中――



(2010/09/16 加筆修正)
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