チェリーの誘惑

【3】
 

 くるくると空になったグラスを小さな手で持て遊び、美桜子が視線をさ迷わる。
「……あのですね、変なこと訊きますけど、笑わないで下さいね? あの、その、……」
 言いよどみ俯いて悩む様子を見せた彼女の顔を、皇人は軽く覗き込んで、先を促した。
「あ、あの、あの――わたしって男の人から見てどんな感じに見えますかッ?」
 唐突な問いかけ。最後はひっくり返った声で一気に言ってくる。
 こちらが面食らったのが分かったのか、眉をハの字にして、「……やっぱりいいです」と、涙目になり恥ずかしげに顔を隠す。
 心の奥底から暖かい可笑しさがこみあげてきて、知らず彼は作り物ではない笑みを浮かべていた。
「何かそう聞きたくなることでもあったのかい?」
 クスクス笑いながら皇人が訊ね返すと、むう、と唇を尖らせて、それでも理由を話し出す。
「……付き合ってた人に、見た目と違うって、フラレちゃったんです。友達にも、美桜子はお高くとまってるからって言われて、その――古賀さんみたいな、大人のひとからはどう見えるのかなって……」
 なるほど、と頷いた。
 その友達とやらはおそらく置き去りの張本人だろう。からかうにしても悪意が透けて見える言動に、顔も知らないその人物を不快に思ってしまう。
 それは、既にこの頼り無げな娘に肩入れをしてしまっているせいか。
 ハッと人目を引く美しさを持っているにも関わらず、己に自信がなく、言葉を選んでは躊躇う態度は、せっかちな他人を苛つかせる面がある。
 そうして相手が不快になるたびに、ますます萎縮してうまく立ち回れなくなるのだろう。
 こちらがゆったりと待ち構えて受け止める姿勢を示せば、こんなにも容易く自然な表情を見せてくれるようになるのに、もったいないことをする。
 額にかかった乱れた髪を直してやり、嘘偽りなく正直に、感じている事を告げた。
「とても、魅力的な女性に見えるよ? そうして頬を染める様子も愛らしい。私がもう少し若ければ、本気で口説いてしまいそうだ」
「……皇人さま、もう口説いていらっしゃるように見えますが」
 咎めるように、めずらしく早良が口を挟んでくる。
 危なそうに見えたのか、とたしなめられて気づいた彼が、美桜子に視線を向けると、真っ赤になって首をすくめていた。
 これだけの容姿なら、男にちやほやされた経験はありそうなものなのに、慣れて無さげな様子がまたそそる―――なるほど、確かに彼自身の思考がすでに危ない。
 保護するつもりが捕食者になっては本末転倒、早良が咎めるのも道理。
 ……しかし、この花の香りがする娘をもう少し側で愛でていたいと思ってしまう気持ちが彼にあるのも確かで。
 この欲求はなんだろう?
 会ったばかりの、一回り以上は年下の、少女を脱したばかりの娘に惹かれている、自分が驚きだった。
 こんな気持ちになったのは何年振りのことか。
 絹糸のような黒髪に指を滑らせ、やわらかな頬に触れ、滑らかなその肌を直に味わう初めての男になりたい、と――。
 面白い。
 誰かを欲しいと思うなんて、若者のような衝動に、久しぶりに心が踊る。
 最近まで付き合っていた女性とは、どこか性質が似ていることもあって性愛よりも友愛、もしくは共犯めいた信頼が勝る関係を築いていた。彼女が優れた部下だったことも原因で、甘やかな恋人には到底なれなかったのだ。
 しかし、今、目の前にいる娘に覚えるのは確かな欲望。そして庇護欲。
 彼女がまだ年若だろうと、慣れていなかろうと、関係ない。
 この花を、手折ろうか咲かそうか、企む気持ちで、彼女の、夢を見ているような横顔に彼が目を向けた時。
 店の入り口から、場をわきまえず声高に会話をしつつ、若いカップルがやって来るのが見えた。
「――ったく、飲むんなら別に部屋でも構わねぇじゃん……」
「だってぇ、このホテルのバー、友達の間でも有名なんだもん、自慢したいの! いいでしょお、先輩?」
 場にふさわしくない、と言うのはああいうオトナコドモに言えることで。入店制限でも設けてやろうかと彼は半ば本気で考える。
 鬱陶しげに彼らを視界の端に収め――美桜子の様子がおかしいことに気付いた。
 じっと握りしめたグラスに目を当て、しかし焦点は結んでいない。顔色は白く、震えた唇が小さく「まなちゃん、せんぱい」、と虚ろに呟くのが聞き取れる。
 チラリとカップルの方へ目をやると、女のほうが何かを探すように首を巡らせており、俯く美桜子を見付け、口の端を歪めていやらしい笑みを浮かべる。
 見下すような。してやったり、とでもいうような。
 一瞬で全ての事が読み取れた。
 女は彼女の友人、連れのほうは、彼女を振った、という男――。宿泊客ということは、そういった仲なのだろうと察せられる。
 何のつもりなのか。友人を騙して一人にしたあげく、友人の元恋人と懇意な様子を見せつけて。
 それとなく美桜子が目に入るように、女が男に働きかけるのが分かった。
 その、一歩先を打つ。
「美桜子」
「……? ン……っふ、ぅ……」
《本気》の声で長い髪に隠された面を上げさせ、唇を奪った。僅かに開いた隙間から舌を割り込ませ、深い、くちづけを。
 見せ付けるように。
 驚きに見張られた彼女の瞳が次第に溶ける。もう、彼しか感じられなくなった身体が、クタリと腕の中に納まった。
「ぁ……古賀さ、ん……?」
くちづけに潤んだ瞳で、薔薇色の頬で、濡れた唇で男を誘う、彼女の頬を手のひらで包み、彼は耳元でささやいた。

「私に、誘惑されてみるかい?」

 呆れ顔の早良を無視して彼は席を立つ。
 どうする? と瞳で問いかけ、美桜子に手を差し延べて。
 彼女は熱に浮かされた表情のまま、ゆっくり席を立って、躊躇いがちに、彼の手を取った。
 キュッと握ってくる細い指の意外な強さに彼は笑みを漏らし、よろめいた華奢な肢体を腕に抱き、店から出る――他の客も、馬鹿なカップルも気に留めず、ただ二人しかいないように振る舞って、その場をあとにした。



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