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「花さん……、花さん、起きてください。勝手に運びますよ?」
軽く肩をゆすられて、花は目を開ける。
人の寝顔を覗き込んでいた青年と視線が合い――反射的にパンチを繰り出した。
予想していたのかアッサリ避けた綾は、苦笑して、まだ寝ぼけている花の頭を撫でる。
「着きましたよ。いい子ですから自分で歩いてください」
なんだその言い草は。ひとをお子ちゃまみたいに。
寝ぼけた頭で言い返そうとして、ハタと気付く。
――着いたってどこに。
差し出された手に掴まって車から降りると、どこかの建物の中にある駐車場にいるようだった。
「綾さん、ここどこ?」
「隠れ家です」
答えを聞いてもハテナだった。
荷物を持った綾は、花を手招きしてエレベーターへと向かう。
問いかけの視線にもニッコリするだけで、綾は何も言わない。
数階上がったところで、エレベーターから出ると、花にもそこがどこだかわかった。
マンションだ。
それも、マンスリーとかウィークリーとか言う手軽なヤツ。
きょろきょるする花を背後に、綾は角の一室に鍵を差し入れた。
「綾さん、ここ何?」
中に招き入れられた花は、もう一度さっきの問いを口にする。
入ってすぐ右手にキッチン。左にはユニットバスがあるよようだ。玄関から見える奥の部屋には小さなカラーボックスと、ローテーブルにノートパソコン、クッションがいくつか。
必要最小限のものだけ置いている様子で、しかしよそよそしい感じはしない。
それは窓際の植物や、キッチンのわずかな空間に活けられた小さな花のせいかもしれない。
「だから、僕の隠れ家ですよ。あるいは秘密基地」
悪戯っぽく笑った綾は、キッチンでお茶を沸かしだした。手持ち無沙汰な花に、楽にしていていいですよ、と言い置き。
花はぐるりと部屋を見回した。
「家では常に誰かの気配がありますからね。ときどき一人になりたいときなんかに、ここに来るんです」
「隠れ家ってことは、妙先生もおば様もここのこと知らないの?」
綾が意外な器用さで手早く作ったアイスティーを受け取りながら、花が首を傾げる。
「そう。花さんだけです、教えたのは」
意味深に微笑まれて彼女は目を逸らした。
寝ぼけたままきてしまったが、もしやこれはヤバくはなかろうか。
誰も知らない部屋。
相手の男は変人奇人。
とりあえず婚約関係。
自分からついてきてしまった。
ナニがあっても文句を言えない状況だ。
「――ありがとうございます、花さん」
ぶつぶつと考え込んでいた花は、唐突とも思える彼の言葉に顔を上げる。
穏やかな瞳が彼女を見つめていた。
「花さんが僕の提案に付き合って下さったお陰で、おばあさまも安心して手術を受けることができました。感謝しています」
どくりと心臓が跳ねる。
――そう。
そもそも二人の関係は、彼の祖母の不安材料を取り除くための、偽り。
必要なくなったあとには、消えてしまうものだったのだ。
今日、妙の手術は無事終わった。
だから、もう偽装は必要がない。
と、いうことは綾とこんな風に会う必要もないということで――
茫然としてしまった自分に、花は愕然とした。
――最大級にヤバイ。
気づいてはいけないことに、気づいてしまった。
つまりなんだ、このショックはまさかよもやアレなのか。
変人奇人なのに!
アイスティーのグラスを持っていなければ、花はその場で頭を抱えて転げ回っていただろう。
――男の趣味ヘン過ぎ!!
花が自分で自分をそう罵っているのを知らず、綾はやわらかく彼女の名を呼んだ。
その声音に、花は眉を下げる。
昔から、弱いのだ。
彼が自分を呼ぶ、その響きに。
いつの間にか縮められていた距離にたじろぐ隙もなく、唇が触れる。
「……僕とこういうことするのは嫌ですか?」
余裕の笑みを向けて、そんなことを言う目の前の男を、花はぶん殴りたくなった。
殴る代わりに、睨み付ける。
否定の言葉が返ってこないとわかっていて、訊ねるなんてどこまで根性が悪いのだ。
クスクス笑いながら綾は彼女の手の中にあるグラスを取り上げ、テーブルに置く。その間も、啄むような口づけは続けられ――花が息を継いだ瞬間、深いものに変わった。