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越知目線

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「……は?」

いきなりの事に、俺は目を見開いて固まってしまった。出かかっていたあくびがみるみる内に喉の奥へ引っ込んで、代わりに混沌が自分を埋め尽くした。

「いや、だから……これ!」

目の前の友人は、切羽詰まったような面持ちで、1冊の本を机に置いた。表紙を読みやすいようこちらに下側を向けて、ずいっとそれを近付けくる。B5サイズのコピー用紙より一回り小さいかそれくらいの書籍。俺は瞳が乾燥するのも忘れて、目の前の本を凝視してしまった。
状況が飲み込めない。一先ず本を手にとって中身をペラペラめくってみたが、俺には関係のない物事の対処法しか書かれていなかった。……“ドメスティックバイオレンスへの対応法”、それがタイトルだった。

「お前……DV受けてるんだろ?」

友人が……川嶋が、口元で指を組んでうつ向いた。

「……急に呼び出されて何事かと思ったら。そんな事実はないぞ。」

俺は、今の正直な感情をそのまま言葉に出した。
最初は、初めて見た難しい数式をすぐに解けと言われるよりも思考が追い付いていなかったが、固く結ばれた糸が少し緩んだように、頭の中は少し整理された。

「いや、急に呼んだのは悪かったけどさ……。な、正直に話してくれ。」

いささか、ぽかんとした俺とは対照的に、川嶋は緊迫した雰囲気を漂わせている。視線を下げて黙りこくっているからか、いつの間にか部屋には重たい空気が充満していた。暗いその雰囲気に釣られて、俺もごくりと唾を飲み込んだ。

「誤魔化さなくていい。知ってるんだ、お前が彼氏に暴力行為を受けてる事を。」

一瞬、頭がぐらりと揺れた気がした。

「……何だと?」

小さかったが、反射的に声が出てしまった。
……こいつは今、何と言った?
俺が?寿三郎に?DVを??
呆れてしまうほどつまらない冗談だった。自慢のように聞こえるかもしれないが、俺と寿三郎は超がいくつついても足りないくらいにはお互いを好いている。

「……それは」

すぐさま否定をしようとした時、目の前の男は身を乗り出して俺の口元に立てた人差し指をかざした。

「俺には本当の事を言ってくれて良いから……な?男同士のカップルって事もあって周りに相談しにくいんだろ?」

彼は静かに目で訴えてきた。その瞳に、俺は少し押されてしまった。
確かに、俺が同性と交際をしている事は基本秘密で、言ったとしてもゲイの仲間だけだ。クローゼットであるから、必要以上に他人に言い回ったり自分のセクシュアリティをさらけ出したりはしない。だから、俺がゲイである事と同性とおつきあいをしている事は、目の前のこいつを含めて数人ほどしかいない。
ゆえに、川嶋は俺の事を余計に心配しているのだろうか。俺が、こういった悩みを話せるような友人をあまり持っていないとを知っているからか?いや……だとしても早とちりだ。俺はDVなど受けた事がないし、それにまつわる事実などは一切無い。

「……川嶋。」

「何だよ?」

「…………いや。」

否定しようとして、やめた。
こいつの目は真剣だ。きっと俺が何を言っても聞く耳を持たないだろう。悪い意味ではないのだが、こいつは真面目になればなるほどに一途になる。だから、「俺は被害を受けていない」と言い張って、話を拗れさせる必要はない。こんがらがって長くなる話し合いは好かないし。
だが、何故急にこんな話を持ち出してきたのか、それは気になった。火の無いところに煙は立たぬ、という言葉があるように、物事には必ず元になった何かが存在する。俺自身は、そんな態度をとった覚えはないのだが、どうしてこいつはありもしない心配をしているのかが少し気になった。

「何故お前は、俺がDVの被害を受けていると言うんだ?」

本を触っていた手で、頬杖をついた。その瞬間、彼は目の色を変えた。
ガタン!

「っ……?!」

あっと思う間もなく、少しの窒息感が襲った。続いて視界がぐるりと回った。どさりと音がして、背面に衝撃が伝わる。目に入ったのはアイボリーの天井と、スイッチの入っていない蛍光灯だった。
背中に冷たいフローリングの固さを感じて、自分が彼にはっ倒されたのだとようやく気が付いた。挟んでいたテーブルをいつの間に乗り越えてきたのかは知らない。後頭部が床にこすれて痛い。むくりと首から上だけを起こして、彼の顔を見た。怒りとも悲しみともとれないような表情をしていた。そして表情筋を崩さぬまま、俺の襟元をぐいっと開けさせて、静かに怒鳴った。

「この傷だよこの傷!……痣!切り傷!火傷の痕!腕とか足にちょこっとならまだしも背中や腹にまで痕があるんだ、これで何もないって言えんのか?!」

目の前すれすれに、彼の顔があった。そんなに引っ張られてはシャツの襟が伸びてしまいそうだ。

「……おい、そんなに引っ張るな。俺の首に何かあるのか。」

ぴくりと、中心に寄っていた眉が動いた。
「呑気な事いってんじゃねえよ」
彼は目でそう訴えてきた。
顔と顔の間に、仕切りが入った。いや、正確に言えば仕切りではない。鏡だ。くもりの無い鏡は、普段あまり使われていないという事を表している。その真新しい面には、俺の口元と首と、それからうっ血の痕が映っていた。
自分の白い肌にぼんやりと残った、赤紫の線。ぐるりと一周するように入った痕は、首を絞められた時のものだ。指で圧迫された時の、形容しがたい幸福感を思い出した。しかしもう少し経てばこの愛の証拠も消えてしまいそうで、……ああ、あの温かい手で、もう一度首を絞めて欲しい。現実を反射する小さな窓から、自分の嬉しげな目がこちらを覗いていた。
それとは反対に、彼の顔は変わらない。パタンと鏡を折り畳んで静かに机に置くと、襟からするりと手を離した。

「俺はなぁ……お前を心配してるんだよ。マジで。」

溜め息が聞こえた。圧力がなくなり、彼は俺から離れた。
床に手をついて、上体を起こす。乱れてしまった首元を直すと、後頭部を粗っぽく掻いた。

「それはこの行動を見れば分かる。だが、心配しすぎだ。」

わざわざ、はっ倒してまで証拠を見つけ出そうとせずとも良いのに。やはりこいつは熱中すると、それ以外は何も目に入らなくなるのだろう。

「……俺なら、お前を傷付けずに愛してやるのにな。」

彼が不意に放った一言が、俺の耳に届いた。

「……はい?」

「なあ、この際俺に乗り換えないか?俺ならお前を幸せにできる。」

両肩を強く掴まれて、前後に揺さぶられた。またもや俺の意思はおいてけぼりらしい。
また顔と顔との距離が近くなる。近すぎて、相手の表情以外に見られるものがなくなってしまった。自分より頭2個分下にある容姿をちらりと見やった。
彼の赤茶の癖っ毛は、恋人を連想させた。毛先は長くないものの、色が似ていればどうしても重ねざるを得ない。寿三郎が髪を切ったらこうなるのだろうか、などと、やはり浮かぶのは己の恋人ばかりだ。目の前のこいつと寿三郎は、言わずもがな全くの別人。力の入る掌をパシリと払いのけて、前髪の奥から少し睨んだ。

「……断る。」

やや強引に手を外された川嶋は、不服そうな視線を俺に向けた。

「不満なんかねーから、な?」

にっこりと穏やかな笑顔が、不気味に思えた。
そして次の瞬間、彼は勢いをつけてまた俺を押し倒した。肩甲骨と後頭部を、軽くだが床に打ち付けてしまい、僅かに呻いた。
一瞬のダメージで怯んだところを付け込まれてしまった。太ももの辺りに重さを感じたかと思ったら、素早く両手を頭上で拘束された。思いの外力が強くて、振りほどこうにも敵わない。
ずるり。Tシャツを鎖骨の辺りまで捲られた。次いで、イヤらしく腹筋の辺りをなぞられて、背筋に痺れが走るような感覚に襲われた。

「おいっ、何をするっ!」

手首をほどこうとして身を暴れさせるが、完璧に押さえ付けられてしまっていてどうにもならない。

「何って……見たまんまだよ。」

含み笑いをしながら、彼は脇腹の痣を優しく触る。
ああ、俺は襲われそうになっているのか。生々しく気持ち悪い肌の感触にゾッとしながら、奥歯をぎりりと噛み締めた。
はっきり言って、やめて欲しい。俺は寿三郎だけのものだ。だから、俺の体に他人の痕を残そうなどとしないで欲しい。

「やめろ!」

自分が犯される様を、俺は見ている事しか出来ないらしい。
彼の乾いた唇が、痣の上から皮膚を吸う。ただならぬ不快感が感情を支配した。途端に吐き気が込み上げてくる。気持ち良さなどは一切無い、ただの拷問のようだった。好きでもない人に抱かれるほど苦痛なものはない。
足をバタバタさせても、爪先が虚しく空を蹴るだけで、何にも効果はない。こんなに力の差があっただろうか?いや、そんなにはなかった筈だ。
気持ち悪い感触が、段々と胸元の方まで上がってくる。じりじりと、1つ残らず傷を上書きするような、憎たらしいやり口だった。
みぞおちの辺りまで来たとき、俺は我慢の限界に達した。これ以上汚されてたまるかという怒りが爆発したのだ。

「ふざけるのも大概にしろ!!」

耐えきれない状況に、普段は絶対にしない粗雑な行動をとった。それだけ追い込まれていたのだから致し方ないのだろう。
俺は思い切り反動をつけて、額で彼の頭を殴った。ゴツッ!という鈍い音が脳内に反響した。

「がっ……?!」

頭同士が接触した瞬間、彼は短い悲鳴を上げてのけぞった。かなり痛かったようで、中途半端に開いた口からは小さな呻きが断続的に漏れている。その隙をついて、俺は手首の拘束を解いた。そのすぐ後にすっと立ち上がると、痛がる彼の顔を見下ろした。そして、しまったという表情を浮かべる彼のみぞおちに、1発蹴りを入れてやると、服装を直して己のデコをさすった。自慢じゃないが頭突きは強い。
まだ、ぶたれた箇所を痛がっている彼を、渾身の眼力で睨み付けた。
びくりと背を震わせた彼は、腹を押さえて動けずにいた。体の自由を取り戻せる事ができれば、俺が有利だ。ビビってそのままで居ろ、という感情を駄々漏らしにしながら、俺はまた睨んでやった。

「……もう、お前を友と呼ぶつもりはない。次、俺に絡んできたら、お前にとっての快適なクローゼットは無いと思え。」

こんな奴と友好関係を築いていたのかと思うと、虫酸が走る思いだった。もう、金輪際関わらないと決めて、俺は行動を進めた。

「おい、越知……待ってくれ!」

さっさと手荷物をまとめて、玄関に向かう。DVの本など貰いもしなければ目もくれずに、靴を履いて扉を開け放った。この家にはもう来ないという言葉を吐き捨てると、早足で自宅へと向かった。



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