保険室独特の薬品の匂いが鼻をつく。保健室に着くまでの間、門田の背中で程よく眠っていたらしい。
「どたちん、お腹すいた」
丁度よく視界に入った門田に向かって手を伸ばし、臨也は何となくそう告げてみる。
元々面倒見の良いタイプである門田は案の定臨也に付き添ってくれたらしい。窓辺に置かれた椅子に凭れて文庫を捲っていた。
「おま……飯食ってねえの?」
門田は臨也に手を伸ばし、額にそっと触れた。熱は無いな、と呟き、ごそごそとポケットを漁る。
「うん。まともなのは一週間くらい」
「阿呆、冗談言ってんじゃねえ。持ってきてるか?」
「嘘じゃないのに……買ってきてない」
門田はポケットから桃味のタブレットを取出してこんなもんしかねーな、とごちながら臨也の口に一粒忍び込ませた。臨也の口の中に桃の甘酸っぱい香りが広がる。口に入れられて生臭くないものは久しぶりだった。
「美味し」
「ん、良かったな」
心の底から美味しいと感じて臨也が満足げに言うと、門田は父性を感じさせる落ち着きでふわりと笑った。
「飯食えるか」
こくり、と頷く。正直な所、本当に胃が固形物を受け入れるかどうかはわからなかったが、いい加減まともな食事を摂らないと脳細胞が死滅してしまうような気がした。そしてふと視線を逡巡させ、臨也は尋ねる。
「新羅は?」
「さっきメール着た。すぐ来るってよ。よかったな」
「うん」
新羅ならばとりあえず信用できる。
他人に全く興味を示さず、ただ自分の欲の赴くままに他人を利用する方が却って気分がいい。他人の為と偽善者面して滅私奉公、死んでしまえ。反吐が出る。
医学知識のある新羅が来てくれるのならば、あの男が打った自称ビタミン剤の正体もわかるかもしれない。臨也はほっと安堵の溜息を吐いた。
「つかお前痩せすぎだ。親父さんとお袋さんがいなくてもちゃんと食ってるか」
歳に似合わぬ雰囲気を醸し出しながら門田は保健室まで一緒に持ってきた自分の学生鞄を漁る。
門田は同年代に比べても、やや熟年した空気を持っていた。長時間門田と過ごしていればそれなりに歳相応の所も垣間見えるのだが、それは門田元来のものなのか、それともどこかで培われた物なのか、臨也にはわからない。人を愛し、知りたいと思う臨也でもわからない事はこの世に溢れかえっている。
(あいつが何考えてんのかも俺にはわかんないしね)
臨也は蘇ってくる精液の味に顔を顰めた。
「どうした?」
突然表情を崩した臨也を案じたのか門田が尋ねる。
「この世で一番不味いものを思い出しただけだよ」
臨也はふるふると首を横に振った。そして舌ベロをべえっと出し、眉間にぎゅっと皺を寄せる。
その子供じみた行動に門田も眉間に皺を寄せた。
「おい、そんなに俺ん家の飯が不味いってのか」
「ドタチンん家のご飯の事じゃないよ。俺ドタチンのお母さんのご飯、だいすき」
臨也は上半身を起こし、弁当を膝に乗せている門田に向かって口を開けた。まるで雛鳥が親鳥に餌を求める時のような行動に、門田は呆れながらも卵焼きを一切れ臨也の口に放り込む。
桃のタブレットとは違う食物のむわっとした匂いに、臨也の胃から酸っぱい液がせり上がってくる。臨也はそれをぐっと飲み込み、必要以上に卵焼きを咀嚼した。
「食欲無いなら無理すんな。ゼリーとかなら食えるか?」
表情に出したつもりは無かったのだが、持ち前の察しの良さで状況を感じ取った門田に背中を擦られる。やはり一週間ぶりの固形物は胃に悪かったらしい。門田に渡されたミネラルウォーターを煽り、臨也は胸やけに似た胃のむかつきを必死に耐えた。
案じる門田に微笑み、臨也は噛み締めるように呟く。
「ドタチン、ほんとにお父さんみたい……」
「お前みたいなでかい子供を持った覚えは無えよ」
温かい門田の手に支えられながら、臨也は目を閉じた。助けてなんて言葉はとうの昔に捨ててしまった。
臨也の携帯が音をたてて震える。振動音が長く続かないのはメールを受信したからだ。送信者は見なくてもわかった。
(今すぐこのメールを俺じゃなくドタチンに見せたらきっと俺は解放される。でも、そしたら)
この携帯はあの男が臨也に買い与えたものだ。あの男が臨也に触り始めた頃から、ずっと持たされている。
無力な子供ではない今なら、すぐに証拠隠滅して捨ててしまえると思うのだが、奴は臨也の自宅を知っている。それに、妹達を庇うわけではないが、必要以上にあの家にあの男を近寄らせたくなかった。ただ単純に携帯だけを捨てても携帯に付けられた防犯システムやら何やらで、すぐにあの男に連絡が行くようになっている筈だ。
一人でなら何処へだって逃げられる。自慢ではないが自分は人よりも周到で賢い。足がつかないように携帯を捨てるのだって容易い事だ。でもしない。
あえて、臨也はしない。しないのだ。あえて。何故かはわからない。
必要以上に実家に近づかせたくないという理由は勿論ある。次に、ただ単に面倒で厄介だという理由、最後にやる気が出ない。男が怖い訳ではない。でも殺してやりたいほど憎いとは思わない。
最近連絡を取り合うようになった粟楠会に掛け合えば、あの男ごと社会的に抹殺できるのかもしれない。だがしかし、それも面倒くさい。
「どたちん、」
「ん?」
「新羅、来る?」
門田の制服の裾を掴み、たどたどしい口調で尋ねた。門田が一瞬頬を緩める。
「待ってろ」
そうしてゆっくりと合された視線に安堵して臨也は呟く。
「どたちん、俺、明日多分、学校行けない」
「ああ?」
門田が驚いて声をあげた瞬間、保健室の扉がカラリと開いた。そして間延びした声が響く。
「臨也ー? 門田くーん、来たよー」
聞きなれた新羅の声に、臨也は内心でほっと息を吐いた。とりあえずは安心である。医学の知識に明るい新羅がいればなんとかなるはずだ。大丈夫。臨也は自分に言い聞かせ、門田の制服の裾を離した。



◆◇◆◇


状況は変わらない。
結局、好転させようと努力もしてない。男に注射された薬の正体は結局わからなかった。なんでも尿検査やら血液検査やらをしなくちゃならないらしい。さすがの新羅でも学校にまでそんな専門的なキットは持ってきていないのだという。
新羅とは後日改めて検査するという約束を取り付けたが、恐らく、またしばらく学校には行けないだろうな、と臨也は感じていた。




校門を出た瞬間、嫌な予感がした。携帯が震えてああ、いるだろうな、と溜息を吐く。学校を出て数十メートル離れた先に、見慣れた車が停車していた。臨也はまっすぐそれに近づいていく。
後部座席に乗り込むと、男が笑いながら臨也の頭を撫でた。
「いい子いい子」
反吐が出る。頭を撫でられながら臨也は顔を背けた。男に顎を掴まれる。
ぬるりと生臭い息が唇を撫でて、ずるずると舌でそれを舐められる。男の手が股間を揉みしだき、臨也は呻いた。ズボンと下着の間から冷たい手がしゅるしゅると侵入し、にゅくにゅくとそれを揉んだ。絶妙な力加減に臨也の腰が抜ける。鼻に抜けたような声も漏れる。限界だ、限界だと追い上げ、追い詰められて臨也は達した。それでも男は臨也の敏感なそこを揉み続けた。臨也は泣く。「お兄ちゃんやめて」無力な子供みたいに泣いた。もう限界、限界なんだと訴える。それでも愛撫はやまない。男の手が胸に触れた。性器を揉みながら、突起を弄られる。はふはふと乱れる呼吸が鼻にかかって、心底嫌気がさした。ひくひくと震えながら二度目の射精が近づき、臨也は悲鳴を上げた。肛門に手がのばされる。臨
也自身が放った精のせいでぬるぬるになったそれがくにくにとそこを弄りながら入り込んできた。気持ち悪い、嫌だ、なりふり構わず頭を振るとシートに上半身を押し付けられた。抵抗も出来ずに固まっていると、男がコートのポケットから注射器を取り出す。
「や、やだ」
「大丈夫だよ、怖くないよ」
出来る限り大暴れしてやろうと身体を動かしても、痩せ細った身体ではびくともしない。こわくないこわくないと耳元で囁かれながら、耳の後ろにチクリと痛みが走った。それからすぐに無条件反射でびくびくと身体が震える。男の指が穴の中を縦横無尽に暴れまわり、それだけで達した。ひくひくと過呼吸になりながら、涙腺が決壊したようにぼろぼろと涙がとめどなく溢れる。くすりのせいだ、やっぱりあれはビタミンざいなんかじゃなかった、臨也はわあわあと喚きながら腰を振った。

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