◎ 第076夜 選択への一歩
――もう…またか。
私は寝転んでいた草原から起き上がり、空を見上げる。
ティエドール元帥と行動して早3日だが、どうにも眠れない。長時間の移動で体が疲れ切っているはずなのに、どうしてか目を閉じても意識を預けることが出来ない。
体調が優れない日々が続く中で変わったことと言えば、神田の兄弟子であるマリというエクソシストと仲良くなったということぐらいだろうか。弥七と共に私の身体を心配してくれ、とても優しい奴だということがよく分かった。
そして同じ元帥の弟子でも、神田とは天と地程異なった存在であることを同時に実感した。
私は立ち上がり、皆が寝静まる場所を後にして歩く。
サラサラと風で足元の緑色が揺れている。
真上で、少し欠けた黄色い丸が足元を照らしている。
私は適当に歩いた少しばかりの高地で腰をストンと落とし、目を閉じて寝転がる。
『………アレン』
まぶたの中の暗闇で、真っ先に思い浮かんだのはアレンの顔だった。アジア支部に置き去りにししてきた、アレンの顔だ。
気にしたところでどうにもならないと認識してはいても、どうしても考えてしまう。アレンに会えば、安心して眠れるような気がするのだ。
思えば私がアレンの意思にそぐわず、単独の時間を過ごすのは初めてではないだろうか。
任務の時、私がいくら単独行動をとっても最終的にアレンは、いつでもついてきてくれた。何とか追いつこうと、一緒に行動しようと、いつも私の我が儘を聞いてくれた。
だが私の隣には今、誰もいない。私が追い払ってしまったも同然であるのに、寂しさのようなものを覚えてはならない。
やはり私は傲慢だ、そう思いながら私は自虐的な笑みを浮かべ、そっと目を開ける。
『わー…綺麗』
真上を向いた視線がとらえたのは、夜空一面に広がり瞬いている星達だ。言葉足らずな私には綺麗だとしか言いようがない。自然一帯の地であるからこそ、こんなに美しく星を捉えることが出来るのだろう。
そこで私は向こうの木々の隙間の暗闇をチラッと見、また視線を真上に戻す。
少し笑い、私は言う。
『…まるであの日の夜空みたいだね。あんたと初めて任務に行った時の、あの綺麗な夜空』
それから舌打ちを挟んだような間を開けて、向こうの草が踏まれる音が聞こえる。
「気づいてたのかよ」
『まぁね。殺気立ってはいなかったけど、神田の気配ならすぐに捉えられる』
「フン…」
神田は不服そうに鼻を鳴らし、私の隣に少しばかり距離を開けて腰かける。
「勝手に離れるな。元帥が騒ぐだろ」
『心配ないよ。私がいくら離れたところですぐに捕えられる範囲なら元帥は何も言わない』
尤も、神田とマリの力も換算して、ということだが。
1人ぐらいの追っ手ならば何とか撒くことは出来るだろう。だがそれに加えてエクソシスト×2は流石にきつい。
だからこの3日間、全くと言っていいほど逃げ出せなかったのだ。
私は自虐的に笑い、首を振る。
『…元帥はやっぱり凄いね。並大抵の力じゃ敵わない』
「………」
神田はしばし無言になり、一瞬こちらに視線を向けたかと思うと、またそらした。
そして数秒後に口を開く。
「思い知らせてやるんじゃなかったのか」
ビクッと私の身体が震えた。
思い知らせる。それはマテールで神田と別れる時に、私が言った言葉だ。
あの時は心の底から思って言った言葉だった。復讐を望み、それ以外の何も視野に入れず、ただ自分の道を踏み歩くこと。それをしていた私の揺るぎない言葉だった。
だが、今の私が心から言える言葉ではない。
私は変わってしまったのだ。
自分の肩が震えるのが分かる。
「どうした?」
神田が怪訝そうに聞いてくる。
私は見られまいと寝返りを打って背を向けるが、震えは止まらない。どうしても、止められない。
次第に息まで荒くなってくるのを感じ、私は自分の胸を押さえつける。
「おいっ」
流石に私の異変に気づいたのか、神田が私の肩に手を置いてくる。
だが、私は勢いよく振り払う。
『私は…逃げ出したんだ。教団から』
「…は?」
『私の思ってることが…バレたんだよ。数日間アジア市部に幽閉された。もう限界だった。だから…逃げ出したんだ』
言葉が足りていない部分もあるだろうが、私の大体の思惑を理解している神田ならば、このくらいの説明でも事足りることだろう。
説明する気など微塵もなかったが、思わず口走ってしまった。
もしかしたら黙っていることが辛かったのかもしれない。
それだけではなく、誰かにすがってしまいたかったのかもしれない。一人で抱えることが、怖かったのかもしれない。
やはり私は臆病者で、最低な裏切り者で、そして誰よりも卑怯者なのだ。
「だから何なんだよ」
『…え?』
私は顔を上げる。
珍しく目を合わせる神田の表情はいつもと変わらぬ、仏頂面だ。
「逃げ出したから何だって言ってんだ」
『何って…』
「そんなこと3日前にお前に会ってとうに分かってる。隠してたのはその程度のことか」
私は神田の物言いに思わず拍子抜けする。
私が逃げ出したことを、神田はとうに分かっていたというのか。それをその程度と思い、私がもっと別のことを隠していると思っていたのか。
「逃げ出したから何なんだ。縛られるのが嫌いなお前ならいつかはそうするつもりだっただろ」
『だけど、それは…』
「教団に思い知らせてからってか?それが出来なくなったから逃げ出したって?」
――…驚いた。
まさかそこまで思い至ることが出来ていたとは。
そこまで分かりやすい行動をしていたということだろうが、神田もそれだけ私のことを考えていたということにかなり驚いた。
『そうだよ。だから私は逃げた。今も、逃げてる』
「何で逃げる必要がある?」
『………は?』
「また追い回されたいのか?柄にもなくコソコソしやがって」
『だって…逃げないと幽閉されて…もしかしたら殺され…』
「お前はまだ何もやってないだろ」
神田は目つきを一層鋭くした。
「逃げられないのは、お前よくわかってるんじゃないのか?」
『………』
…逃げられない。
逃げることは出来ない。
神田の言うとおり、それはよく分かっている。分かっているのだ、私には。
この道だけは、外れることを誰も許してはくれないのだ。
『でも…だったら、どうしろっていうの!?』
私は拳を地に叩きつける。
『苦しいんだ。歩むことも、外れることも許されない…そんな中で生きるのは、本当に苦しいんだよ!今の私に何が出来るって言うんだ!!』
「何をするかはお前次第だろ」
神田は間髪いれずに続ける。
「俺が言いたいのは俺の目の前でチョロチョロ目障りに逃げ回るなってことだけだ。この3日間ずっとそうだったろ。いい加減、堂々としろ」
『でも…』
「選択しろ。逃げるか、戦うか」
神田はそう言い、立ち上がる。
「俺が知ったことじゃない。全部お前次第だ。自分で決めて、さっさと動き出す事だな」
『……何で、誘導してくれるの?何で放っておかないの?』
神田の視線がまっすぐに、私を捉えた。
初めて神田の瞳を深い、と感じた。情を寄せているような、私を嘆いているような、過去を省みているような、まるで蝶が春の花に群がるように、知らずと惹きつけられてしまうような瞳だった。
思わず見つめ返してしまう時間が続くこと数秒。
神田はハッとした表情を見せ、私から視線をそらす。
「知るかよ、そんなこと」
神田は放り投げるように言い捨て、元帥達の眠る向こうへと戻っていった。
――何だったんだろう。
あんな眼差し、過去に向けられたことなどない。
何故なら、あの眼差しは…
私は立ち上がる。近くにある湖の淵に移動し、ゆっくりと水面に自分の顔を写す。
『…同じだ。私と』
鏡で見るたびに苦笑を向けていたこの物寂しい眼差しは、先ほどの神田と同じだった。
私は水面の上の自分の顔に、そっと触れる。
『外れるか、歩んで選ぶか…』
私は口に出してみる。
“逃げる”か“戦うか”
私は今、逃げている。戦うことが怖くて、逃げ続けている。
怖くて仕方がない。怖いから、逃げているのだ。
『……でも』
私は水面から手を離し、その手で拳を握る。
――…もう、逃げたくない。
戦うのは確かに怖い。それでも、もう逃げるのは嫌だ。逃げずに、戦ってみたい。
『ねぇ…戦える?』
私は水面の自分に問うてみる。“私は何も恐れず、戦っていけるのか”と。
「戦えるよ」
突然背後から声をかけられる。
振り向くと、そこには優しい瞳で私を見つめる元帥、腕を組んでホッとするような顔を見せるマリ、人懐っこい笑みで笑う弥七、その腕に引っ張られるようにして掴まれる神田がいた。
「キミは強い。逃げるよりも戦うほうが合ってるよ」
『……何に対してか、分かってる?』
「分からないよ?だってキミが話さないんだから」
『………』
「でも、キミが何かから逃げてるってことは分かるよ。逃げ続けるよりも、試しに一回戦ってみた方がいい。何に対しても、ね」
「力になれるなら私達も一緒に戦う」
「フィーナ、それでお前が元気になるならオレは戦ったほうがいいと思うぜ」
弥七は座り込む私の前に来て、ポンっと頭に手を置いてくる。
「皆、お前が立ち上がるのを待ってんだ」
私は皆を見る。
ここにいる者だけじゃない。教団本部にいる皆も、アジア支部にいる皆も、そしてアレンも…
皆、私が戦うことを望んでいるのだ。逃げ出さず、戦うことを望んでいるのだ。
私はぐっと拳と目、そして足に力を入れる。
「いい表情だな」
弥七はニカッと笑い、私に手を出してくる。
「立ち上がって、歩け。戦えよ。いくらでも応援してやる」
『……生意気だ』
私は仏頂面をつくりながらもパシッと弥七の手を取る。
『戦ってやるよ。もう、逃げずに生きてみせる』
「おうよ」
弥七、そして皆が笑う。もちろん神田は笑わないが。
それでも皆が私の選択を認めてくれたことが、背中を押してくれたことが嬉しかった。
だが選ぶのはこれで最後ではない。まだ、残ってるのだ。
――歩くことはもう決めた。あとは、道を選ぶだけだ。
それは単純な二択だ。
“教団側の人間として生き続ける”か“断罪者として復讐を成し遂げる”か。
今は選べないでいることだが、決める日はいつか必ずやってくる。
今までは後者を選択する運命しか見据えていなかったが、どちらを選択するも私次第なのだ。
どちらかを選ぶに従って伴う問題ももちろん出てくるだろうが、それは今は考えないでおこう。今は、自分で選択することだけを考えなくてはならない。
そのために、選択するその日まで、同じ二つの道を歩むのだ。
『…皆、ありがとう』
私も笑った。目に確かな闘志を宿らせながら。逃げないことを自分の道に強く誓いながら。
戦うことを、歩くことを、道を選択することを、自分の運命に見据えながら。
第76夜end…
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