「イラキセ? 応答しろ、イラキセッ! ……っ、くそ!」
モニタールームに暴走EIが突入。テラコが侵入者を排除するべく動き、イラキセはテラコを呼び止めた。が、遅く、自身に何かが起きてしまった。
おそらく攻撃を受けたのだろう。情報からして、推測はだいたい間違っていないはずだ。
あの叫び方は尋常じゃなかった。
命、というのかはわからないが、無事であってほしい。
「マスターの仇ぃいいいい! 人間、止まれ、止まれ!」
背後でも破壊音。
私めがけて振った女のハンマーが、壁に当たったのだ。ひび割れ、崩れ落ちる音が遠くに消えていく。
こちらもいよいよ距離が縮まりつつあり、非常に危険な状態だった。
イラキセの身を案じている場合ではない。とにかく走らなければ。
そう思った時、暗がりの先で浮かび続ける通路が、直線という形を変えて出現した。
「勘弁、してくれ」
なんと先は十字路だった。
左、直進、右。選択肢は三つ、正解は、イラキセが指示を出していたことを考えると一つだ。
この選択を間違えると、きっと良くないことが起きる。直感が危険信号を発していた。
迷っている暇はない。
少しでも選ぶことを躊躇すれば、私は女の餌食だ。
同時に私の思考は凍りついた。
この半生で初めて、命に関わるような重要な選択を迫られていた。
私は今まで、選択することをしてこなかったのだ。両親の元に産まれてから、ただの一度も、将来について考えなかったし、進路には常にレールがあった。今の職に就いたのも親と学校が薦めたから、上司の言うことを忠実に実行してきたのも指示を疑わなかったから。
こうあるべきだ、こうしたい、という考えが、根本から欠落していた。
だから私はこの任務をあてがわれたし、それを受け止めた。
さらに、思考を停止してーー人間であるにもかかわらず、ただ遂行するだけの機械と成り果ててしまっていたのだ。
迫るタイムリミット。
私は選ばなければならない。
誰にも頼らずこの状況を打開しなければならない。
どっと冷や汗が噴き出る。
まばたきを忘れ、呼吸が不規則になる。
記憶の深層から沸き立つ罵詈雑言が脳を埋め尽くした。
ーーそれでも、私は。
「死ぬのはごめんだ……っ」
私は意識を総動員して、重心を右に傾けた。
奥の壁すれすれに接近し、急な方向転換で足がもつれ、滑る。
その勢いを利用し、横回りで左肩から地面に当て、転がった。
スピードを殺さないように、床に着いた膝を経由して立ち上がり、走りだす。
私は右に曲がった。
減速を最小限に抑え、女との距離を保ったまま、体勢を立て直すことに成功した。
私は、選択をしたのだ。
あとはこの選択が正解であることを祈るばかりだった。
背後の女は叫びはじめ、金切り声が耳を焼く。
精神的にも体力的にも、限界を超えていた。
もう、数分も走り続けることはできないだろう。
このまま逃げ続けていても何も変わらない。
何かしなければいけないのか、いや、私は、イラキセを信じる。
もしこのルートで合っているならば、イラキセの考えであれば、すぐにでも状況に決着がつくはずだ。
扉が見えた。
長かった。
息も絶え絶えになりながら、身体を投げるようにして部屋に転がり込む。
すると、なんとそこはあのゲートホールだった。
碧白い空間に二十八番まで並ぶ、金属探知機能がついたゲートの群れ。
十八番が左手に見えた。
けたたましい警告音が後方でわめく。
EIの女だ。
私はつまづき、崩れる体勢で、なんとか相手が見えるように身体を回して倒れる。
見上げたとき、十四番のゲートを背景に、女が目前でヴンッと凶器を振り上げた。
視界がハンマーに塗りつぶされる。
私は死を覚悟し、目蓋を強く閉ざした。
「でぇえええぇええええいっ!!」
しかし、はっと目を見開く。
少年の雄叫びと鈍い衝撃音、女の呻き。
ハジメが、女の横頬を拳で殴り抜いていた。
吹き飛びながらも女は、空中で身体を捻って両足を着地させる。
ハジメは私に歯を見せて笑いかけた。
「待たせたなおっさん!」
「逃げたんじゃなかったのか」
「そんなことしねーよ。イラキセに嫌われるだろっ」
言いながら、極度の緊張と疲労によろける足腰を立たせた。
彼の後ろで、女に対峙する。
上下する肩に、酸欠で焦点の合わない視界。
極彩色に霞む景色の中で、女はあらぬ方向に曲がった首をゴキリと鳴らして、静かに肩を震わせていた。
「この……コ、ノ……」
不自由な首が軋む嫌な音を立てながら、ぬらりとこちらを見て、金属が露出した左頬を透明な涙で濡らした痛々しい顔を晒す。声の反響が変わったのか、合成のようなロボットボイスが耳に痛い。
次の瞬間、女はハンマーを両手で持って右下段に構え、タイルがえぐれる脚力で走り出した。
「こノ、人殺シガぁああああァアアアアアア!!!」
激情に歪んだ形相は、怒りが愛が悲しみが同居していた。
慟哭から守るように、ハジメが私の前に出る。
両者を止める間も、どかす間も無い。
作戦など何も考えつかない。
このままでは、ハジメが私の代わりに砕かれて、死んでしまう。
ーー女が走ってくる。
全ての動きがスローモーションのように見えた。
早鐘を打つ私の鼓動と女の地を蹴る音が重なり、体内で響き合う。
ハジメが頭だけで振り返り「おっさん逃げろ」と叱咤している。
ああ、なぜこいつは怒っているのだろうか。
昨日初めて知った、ただそれだけの仲だというのに。
これでは他人ごとではないか。
彼が女に向き直り、私に「早く」と促す。
そのときには既に、女は攻撃態勢に入っていた。
女の血走った視線が交錯する。
女の瞳は、底の見えない虚無を語っているようだった。
黒光りするスレッジハンマーの射程まで、あと、
三歩、
二歩、
一歩。
ーーああ、駄目だ。
私は、動けない。
「おっさんッ!!」
女は、力の限りに裁きの鉄槌を振るった。
「BDnC-EIJ1-1439-HuGP_ELYSIA、シャットダウン」
金属を叩き潰すひしゃげた音と、散らばる破片、碧白い煌きを放つ飛沫。
ハジメは放心して、至近距離の光景を眺めていた。
それは刹那で完結していた。
右方向で警告音が啼き、流星の如く現れた小さな影が女とハジメの間を遮り、同時に、聞き覚えのある少女の声がコードを正確に読み上げた。
女はハンマーを振り切った直後、糸が切れた操り人形のように、その場にくずおれた。
静寂。
「イラキセ……」
私の呟きは、やけに大きく聞こえた。
七番ゲート付近の人型。金属探知機が反応しない位置で、イラキセがひとりで佇んでいた。
羽織った白衣の左腕の部分、肩から下の部分が不自然な空洞を作っている。モニタールームの騒動で飛ばされたのだろう。
表情が抜け落ちた彼女から、腕を消失した痛みや疲労を読み取ることはできない。
イラキセは、私たちと停止した女、壁に叩きつけられた残骸を感慨無く眺めてから、ふいと裾を翻して七番ゲートの扉に消えていった。
後を追おうかと思ったが、そういえば、あの小さな影はなんだったのだろうと考え、残骸の側に寄る。
「こ、れは」
私のせいで、という自己嫌悪と、見なければ良かった、という後悔と、何とも言いがたい感情が渦を巻いて言葉に詰まった。
残骸は、テラコだった。
あまりの衝撃に、胸部より上が破壊されて跡形も無い。断面から覗く複雑な回線は、人体に例えるなら内臓か。
ちぎれたコードの端々で、火花が命の残り香のようにちらついていた。
辺りにばら撒かれた液体照明は最後の光を灯して蒸発していく。これらはきっと、テラコの体内でエネルギーを生成して、いわば血液のような役割を果たしていたのだろう。身体に開いた穴やひび割れからも、じわじわと漏れ出しては空気に溶けていった。
なぜか違和感があった。それは裸体であったことに由来していた。離れたところに黒いチョーカーベルトが落ちていて、汚れのない純白のワンピースが広がっている。テラコが着ていた服だ。
そうか、ベルトは服を生成していたのか、と気づいたが、そんなことはどうでもよくなり、それよりも新たに視界の端に留まったものから目が離せなくなる。
ちかり、とテラコの小さな亡骸の中で何かが光ったのだ。
そっと近づいてしゃがみ込み、壊れ物を扱うかのように両手ですくい上げる。
それは、モノクロの大地で無くした、つるりとしたフォルムのあの懐中時計だった。
泥に沈んでいただろうに、綺麗に磨かれ、手入れされている。
本体と同色の細い銀のチェーンが繋がったボタンを押して開けば、中では華奢な黒い針が一秒、また一秒と時を刻んでいた。
今ではどこにもない、アナログの暖かさ。涙腺が緩む。
この子は私に、時間という贈り物をくれたのだ。
「テラコはちゃんと、自分で選んだよ」
ぽんと肩を叩かれ振り返ると、ハジメが泣き笑いのような顔で言った。
「イラキセのあの機体にしか、声紋マスターキープログラムが入ってないんだ。庭師を止めるには、製造番号を調べて言葉に出すだけの時間が必要だった。……必要なことだったんだよ。じゃなきゃ、イラキセはテラコのほうを止めてる」
「……イラキセは」
「うん?」
唇を引き締め、考える。
まともに考えればとうに分かっていたことで、今更のような気がするのだ。
それでも、いままで勝手に別種のものと決めつけていたから、感じられなかった。
だからこそ、認識を改めるために、言葉に出して整理をつけたかった。
本人にはとても言えることではない。
だから、私は、昨日出会った友人に、ポツリとこぼした。
「イラキセは……。正真正銘、人間なんだな」
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後書き的なモノ:
逃走編、そして、第二章は、これで終わりです。
クトゥルフ神話TRPGだったら、間違いなく何度もSANチェックしてますね。
2016.10/12
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