かさぶた希望


 家について、鍵を差し込もうとして、施錠されていないことに気がついた。
 ドアを開けてみると、見覚えのあるローファーが爪先をこちらに向けていた。
 珍しい、あの人が私より先に帰るなんて。思って、スクールバックを持つ手の反対の腕に提げた買い物袋を見下ろした。そういえば私は買い物に行っていて、いつもより帰宅が遅いのだった。
 靴を脱ぎ、ふた回りほどサイズの大きい靴に揃える。重い買い物袋を台所まで運び、中身を冷蔵庫の中に入れた。汗が首筋をつたう。今は真夏だった。
 置き勉とは無縁の私の鞄はまんぱんの買い物袋より重たい。持つ腕をだらりと下げて、二階の自室へ向かった。
 階段をのぼりきった手前に私の部屋がある。その隣が一緒に暮らしているほぼ同世代の男の人の部屋で、さらにその隣が両親の寝室になっている。
 私は汗だくの顔をぽかんとさせた。隣の部屋の扉が大きく開いていた。ベッドとほとんど物の置かれていない学習机が覗くそこはあの人の部屋だった。他人の干渉を好まない彼は、不在のときはもちろん自分が中にいるときも部屋のドアを開けっ放しになどしない。
 こっそりと中を覗いてみる。留められていないカーテンを脇に垂らした窓からこぼれる夕方の日差しの中、部屋の中に主の姿はない。ただ真ん中にぽつんと、肩下げの黒い鞄があった。それに置き去りにされたような印象を得る。
 帰っているみたいだ。でも、いない。出かけた? ローファー以外にも彼の靴はあるから、それを履いて行ったのかもしれない。でもメモも何も残っていなかった。彼は黙って出て行ったりはしない。
 居候という意識を何年も抱き続ける彼が無言でどこかへ行くなんて、ありえない。
 でも、彼はいない。部屋のドアを開けっ放しにして、いなくなっている。どうして、と思いながら無意識に部屋の中へ視線を這わせる。まっさらな何もかかっていない壁。寝起きの痕跡を消した整えられたベッド。ゴミ箱と先の鞄以外なにも置かれていない青の絨毯敷きの床。いつもどおり汚れひとつない、整頓されているというより物が少なくて味気ないこの部屋は心に深い空洞を抱える彼の精神を表わしているようだった。乱れひとつなく、平坦でまったいらな――いや。待て。
 いつもどおりじゃない。塗りたくったような無機質さが満ちるこの部屋の中で常にはない乱れを私は見つけた。
 教科書とペン立て、スタンドライトのみ置かれた学習机。その引き出しがかすかに開いていた。文房具を入れている二段目の引き出しだ。几帳面ではないが神経質なところがある彼は中途半端な状態を嫌う。部屋のドアが開け放たれていること以上に目についた。
 ある予感が過ぎる。気づけば鞄を放って階段を駆け下りていた。最後の一段でつまずいて転びそうになったが堪えて洗面所へ向かう。
 引き戸式のドアを開く。洗濯物の詰まれたカゴが目に入る。そのそばに紺色の靴下が転がっているのを見て、予感は確信になる。額から顎の下まで血の気が引いて喉が詰まるような思いで奥の浴室を開け放った。
「むくろさまッ!」
 彼の姿は、あった。制服姿のままふたをした浴槽に浅く腰掛けて彼はそこにいた。うろんとして下げられた視線の先にはカッターを握る右手と袖をまくった血まみれの左腕がある。
 靴下が濡れるのも構わず飛び込んだ。彼の前にひざまずいて目を合わせようとした。私の乱入に気づいてか、目の光がはっきりとする。
「ああ、おかえりなさい」
 普段と変わらない笑みで言う。
「今日は買いだしの日だったんですか? 帰ったらいないから不思議でした。言ってくれたら僕が行ったのに」
 驚いた。無数に傷つけた腕からつたってこぼれるほど血を流しながら、彼は日常的な言葉を吐く。
「……骸さま。血」
 私は言うべき言葉が見つからず、それでも何か言おうとした。もともとししゃべるのが得意ではないから、出てきたのは目の前にあるものを単語にしただけのつたないそれ。
 骸様は目を伏せた。ぽた、ぽた、と床を赤く染める自分の血溜まりをぼうっと見ながら、ふいにカッターを持つ手を左腕に近づけた。
「だ、だめっ」
 また切りつけるつもりかと思い、私は両手で掴んで止めた。指先のガチガチに硬直した手では掴むというよりも両の手のひらではさんだようなもので簡単に振り払われそうな、それはもろい拘束だった。
 けれど骸様は振り払うことはせずただ困ったように笑って、カッターを風呂場の隅へと放った。
「今日ね」
 震える私の両手を右手だけで包みこむ。低温の乾いた肌だった。
「道徳の授業でテレビを見せられたんですよ。急増する若者のリストカットをテーマにした番組だったんですけど、自傷をしない生き方がわからないという僕と同い年の少女が出てきて。まあその他にも色々なリストカット経験者がインタビューされてたんですが、その少女含む彼ら、そして専門家いわくあれは死にたいからやる行為ではなくて生きるための行為なのだそうです」
 広がり続ける小さな血の池にスカートと膝が浸かる。
 流されたばかりの人の体液には生っぽい暖かさがあった。
「血を見ると生きている実感がわく。痛みで自分の生を確かめることができる。でもそんなふうにしか自分を認められない自分が嫌で、自己嫌悪に陥り、また、切る。クフフ、悪循環ですね」
「骸さま。骸様、血」
「しかし生きたいという意志があるなら、まだ救いがあると思うんですよ。救いを求めることは決して楽ではないし、優しい誰かがひとりでもいなければ孤独の闇に堕ちていくだけでしょうけれど、それでもきっと誰かがいる……」
「骸さま血を、血、とめなきゃ」
 血まみれの中でも傷口の形はうっすら見えた。長い傷が最低でも五つあった。あふれる血はとまらない。私は泣きそうになった。骸様は健康的な人というわけではない。こんなに血を流してしまったら貧血を起こして倒れてもおかしくない。
 うちに来たばかりのときはよく貧血を起こして倒れた。しょっちゅう切っていた、から。
「僕にとっての優しい誰かは君ですね。クフ、そう心配しないでください。腕がこんなに血だらけなのは切ったあとに腕を振ったり回したりしたからです。見た目ほど大したことはないんです」
 穏やかに微笑む。私はあふれる涙をこらえきれなくて、泣いた。


「僕は優しい誰かがそばにいても、生きたいと思えないんです」


 泣きに喘ぎながら、洗面所の棚から引っ張り出したタオルを彼の左腕にあてた。白いそれがみるみるうちに真っ赤な色を浮かび上がらせるのを見つめ、それから彼の顔を見上げた。彼は背後――風呂場の窓へ目を向けていた。それは、自分でつけた傷などないかのような淡々とした無表情だった。
 グッとタオルをさらに強く骨張った細い腕に押しつける。そうしながら、彼の心の傷を思った。
 どんなガーゼをあてても何をしても、彼の心につけられた傷は血を止めないのだろう。
 きっと私の心をあてがったって、止められないのだ。
 そのことがたまらなく悲しかった。



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世界観はACCENT。。
あの異世界骸は原作より脆い。


20150620


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