人肌に下心を潜める
幼いころ、まだ本当の父と母がわたしの傍にいてくれていたころ、わたしは年相応に月刊の少女漫画を読んでいた。 それほど熱心に読んでいたわけじゃない。ただ、主人公の女の子が好きな人と結ばれる過程のストーリーがおもしろかったから暇つぶしに読んでた。 ほしいものが手に入らなくて涙が流すのも、ほしくてほしくて仕方なくて必死になる気持ちは理解できた。 でもその“ほしいもの”というのが同い年の男の子というのは共感できなかった。 どうしてこの漫画の女の子は、相手の男の子が泣くほど好きなのかなと読みながら疑問に思っていた。どうして男の子が他の人と話しているだけで、怒ったり苦しんだりするのかと。 「クローム」 いつの間にかぼうっとしていたようだ。 わたしは顔を上げて、それから声が飛んできたほうを見た。 すぐ近くにいたその人は呆れたような顔でわたしを見ていた。 「まったくお前は」 はぁ、と苦笑の溜め息をつかれた。 「僕が来なかったらどうするつもりだったのですか」 骸様の足元で、彼と同じ学生服を着た何人もの男子生徒がごろごろと転がっていた。わたしは静かに瞬いて、それからようやく叱られているのだと気づき「ごめんなさい」と言った。 「素直に謝れば済むとでも?」 骸様の笑みが深くなる。少し、怒っているようだった。めずらしい。この人はよく犬に手を上げているけれど、本心ではあまり怒らない。 骸様の鋭い視線を真っ向から受け止める度胸なんてわたしにはないから、うつむいて目を逸らす。すると骸様の手が見えた。白くて細い手。でもわたしの手とは明らかに違う、男の人の手だ。手のひらは大きいし、指がすらっと長い。わたしに絡んできた男子生徒たちの顔面を思いっきり殴ったからか、右手の指やその付け根に赤い血がかすかについていた。 わたしの視線の行き先に気づいた骸様は自分の手を見て面倒そうに息をつくと「行きましょう」と歩き出した。 その斜め後ろをついて歩きながらわたしは尋ねた。 「あの、骸様。わたしはどうするべきでしたか」 「はい?」 「わたしはあの人たちに何かしなければいけなかったんでしょうか」 歩き始めたばかりなのに骸様は足を止めた。身体ごとわたしに見返る。 とてもきれいに笑っている。「少し怒っている」から、さらに上の段階に進んだ「けっこう怒っている」状態だ。あ、どうしようと思ったけれど、彼の機嫌を悪化させる効果があったらしい疑問はすでに口から出してしまったあとだ。 「……逆に聞きますが、お前はあの場であの男どもにどのようにされても何もしなかったのですか?」 どのようにって、どのように? わたしが不可解そうな顔をすると、骸様はわたしの目の前までやってきたかと思うと突然鞄を抱きかかえていた手のうち片方を掴み上げた。 とても唐突だったから驚いてしまって、無意識に手に力が入って強く振って揺らした。つもりだったが、掴まれた手は石の輪に嵌まってしまったみたいに動かすことができなかった。 「いいですか、クローム。基本的に女性は力で男に劣ります。特にお前はか細くて腕力も握力も貧弱だ」 ぐい、と手を引かれてよろめく。鞄が地面に音を立ててわたしと骸様のあいだに落ちた。 「もし僕が助けに来なければ、お前は今ごろあのオオカミどもに食われていたことでしょうね 。ねえ、何をされてもお前は何の抵抗もせずに黙って受け入れるのですか」 「……」 「ねえ?」 何をされても、か。 殴られて辱しめられても、ということだろうか。 「……わたしは」 わたしの手を握る骸様の手は先ほど見たとおり骨張ってて硬かった。振り払えない強い男の人の手だ。 「わたしは、好きじゃない男の人に触られたく、ない……です」 この答えは骸様の機嫌をなおすことができるだろうか。 嘘をついたり誤魔化したりすることは苦手だから、本心を言った。もしまた怒らせてしまったらどうしようと思っていたのだけれど、パッとあっさり手を離された。 「それでいい」 骸様は身を翻してまた歩き出す。わたしはしばらくぽかんとその背中を眺め、それから慌てて鞄を拾って彼の後を追った。 急に何も言わなくなった骸様を心配に思う。ひょっとしてまだ怒っているのだろうか。 ふと先ほど骸様に掴まれた左手を見ると血がついていた。不良を殴った手で掴まれたからだ。 「……むくろ、さま」 赤いアクセントが浮かぶ手のひらを見つめながら彼の名前を呼んだ。前を歩いていた骸様はつぶやくような呼びかけに反応し、顔だけこちらに向けてきた。 わたしは歩く速度を早めて骸様の右横に並んだ。そしてぶらぶらと揺れていた骸様の右手の指先に触れた。驚いたのかぴく、と震えた。 「……好きではない男には触られたくなかったのでは?」 「骸様のことを嫌いだなんてわたし言ってない」 指先をやんわりと握った。冷たい温度だった。 「嫌いではない相手だとしても、お前は人との触れあいを苦手としていると思っていましたよ。案外、そんなことはなかったのですね」 特徴的な笑い声を立てて骸様は笑った。もう機嫌は悪くないみたいだった。 あなただから、いいの。 そう言いたくて、でも言えなかった。 骸様の冷えた体温に触れた指が焼け落ちそうに熱い。 心臓が速く脈を打っている。 いつかの幼き頃に読んだ、少女漫画を思い出す。ある日転校してきた同級生の男の子に顔を赤らめて「心臓が痛くて仕方ない」と言った主人公の女の子。 ほんとうだ、心臓が痛い。顔が熱い。 あなたが好きなの。 言葉にできないから、どうかこの指の先から彼に伝わってくれないか。いや、やっぱり伝わらないで。 わたしの体温が移った骸様の指先はほんのり温度を上げていた。
執筆20140313 掲載20140912
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