『姫の王子様』ある夏の一日'09 P10
ようやく珠子の顔にほわぁっとした笑顔が戻る。
「庸ちゃん」
「って……何話してんだか。ほら、もっと沖まで行くか? 足が着かないとこまで……ってもう着いてないか?」
「浮き輪があるから平気だもんっ!」
「ははぁ……やっぱり今も着いてないんだな?」
湿っぽい空気は一瞬で吹き飛んだ。
いつものようにからかってやれば、珠子もいつものように唇を尖らせながら反撃をする。
傍から見れば恋人同士には程遠い雰囲気だけれど今はそれで十分だ。
庸介と珠子はバシャバシャと水を掛け合っていたが、珠子が急に手を止めて遠くを見つめたまま動かなくなった。
「タマ、どうした?」
「あのね……何か近付いてくるよ」
そう言って珠子が指差した方を見た。
確かに何かが近付いてくる。
海に付きもののお馴染みのテーマ曲と共に現れるアレではない。
それは陸の方からこっち向かっていて、白い飛沫を激しく立てながらもの凄い勢いで近付いてくる。
「なんだ、あれ……」
「もしかして……お兄ちゃん、とか?」
「まさか……」
そんなわけないだろうと思いながら、いや……拓朗ならありえるなと訂正した。
どんどん近付いてくる白い飛沫は間違いなく人間が泳いでいる。
拓朗かどうか確認出来ないまま二人でそれを見つめていると白い飛沫は二人の二メートルほど手前で止まった。
二人は顔を見合わせて、その人物が海から顔を上げるのを待った。
泳いできた人物は海から顔を上げると、濡れた髪を両手でかき上げてニッと白い歯を見せて笑った。
「よぉっ! おっ、おっ……岡山、偶然だな……っ!」
明かに偶然ではなく、あまりに不自然な芝居は庸介の顔を引き攣らせた。
珠子は急に目の前に現れた同じクラスの佐藤太一にポカンとして、口を開けたまましばらく固まっていたがようやく口を動かした。
「佐……藤、君?」
「よ、よぉっ! 偶然だな!」
「どう見ても……偶然じゃねぇだろ」
二回目の同じセリフに庸介が白々しいと吐き捨てた。
余計なことを言うなと太一は庸介を睨み付けながらゆっくりと二人に近付いた。
「どうして……」
「お、おぅ……、祐二や篠田達と一緒に来てんだよ! んで……お、泳いでたら、岡山の姿が見えたからさー」
太一はアハハハと笑いながら説明をした。
海であんな全力で泳ぐ人など見たことはない。
珠子は戸惑いながらも「そうなんだ」と返事をして、庸介の顔をチラッと見て機嫌が悪くないか確認した。
「よ、庸ちゃん……」
「タマ、俺の背中にしっかり掴まれよ」
「え?」
不安げな珠子に庸介は小さな声で囁いた。
意味が分からないと聞き返そうとする珠子から浮き輪を取ると、珠子の体を背中に回らせておんぶするように促した。
「あのさ……良かったら、俺達と一緒に……」
「お前はこれで遊んでろっ」
庸介は大きな浮き輪を太一めがけて、まるで投げ輪のように放り投げると一目散にその場から離れ始めた。
「よ、庸ちゃ……っ」
「口閉じてねぇと水飲むぞ!」
確かに波がくるたびに海水が口の中に流れ込んで来る。
珠子は言われた通りギュッと口を閉じると庸介の首にしがみついた。
そして二人の後方では浮き輪に掴まって思うように身動きの取れない太一が追いかける。
「ま、待てぇぇぇ」
太一の情けない声に珠子は振り返った。
その間もストライドの広い庸介の足は海の中なのにどんどん太一から離れて行く。
「佐藤くーーーん! 浮き輪ー学校始まったら返してねー! ごめんねぇー!」
今にも浮き輪を捨てて泳ぎだそうとしていた太一は珠子の言葉に慌てて浮き輪を掴まえて頭からズボッと被った。
庸介は珠子の無邪気な冷酷な言葉に吹き出したが、決して足を緩めることなく海を横断していくことに全力を注いだ。
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