『いつかの夏へ』
2

 雅樹の前を歩く父が足を止めずに声を掛けた。

「息子と酒を飲むのが夢だったんだ。退屈させるかもしれないが、時々付き合ってくれるかね」

「は、はい……喜んで……」

(しまった……二枚持ってくるんだったな)

 真子にハンカチを渡したままのことを後悔しながら雅樹は天を仰いだ。

 十年前は歓迎されないことに腹を立てたこともあった、あの頃は親なんて関係ないと思っていた。

 昨夜、実家に顔を出し結婚の承諾を貰いに行くと話す俺に「大人になったな……」と笑った父のことを思い出す。

 笑いながら「親父は老けたな」と返すと「不肖の息子がいたからな」とやり返され苦笑いだった。

 だが月日は考えを改める時間を与え、変わるチャンスをくれた。

 傲慢だった父と息子の姿はなく、十年の月日を埋めさらにこれからの月日を築くため、互いの言葉に耳を傾けるようになった。

 ぎこちない父子のやり取りはくすぐったいがありがたい。

 いつかは自分も父になるかもしれないと、そう遠くない未来に思いを馳せ感じるのは幸せと責任。

 だがその責任さえも今の自分にとっては心地良いと雅樹は感じていた。

「良かったわね……真子」

 父と雅樹が出て行った部屋で真子の母はニッコリ微笑んだ。

 一点の曇りのない笑顔で頷いた真子はハンカチを握り締めている左手に視線を落とした。

 薬指に光る真新しい指輪。

 指の周りをクルクル回るほどサイズの大きいその指輪を填めてくれた時の雅樹を思い出してクスッと小さな笑いを漏らす。

 こんなはずじゃなかったと指輪を取り返そうとする雅樹の慌て振りに驚いてしまったけれど真子は首を横に振った。

 たとえサイズが合わなくても構わない。

 そう言って譲らない真子とサイズ直しすると言う雅樹、先に折れたのは雅樹の方だった。

 右手の人差し指で指輪に触れてから真子は立ち上がった。

「今まで……ありがとう」

 真子は母の横に座ると母の体を抱きしめた。

 自分のことで母が胸を痛めていたことを知っている。

 決して親孝行な娘ではなかったと思う、どれほどの気苦労をかけて来たのか真子には想像も出来なかった。

「あなたが幸せならそれでいいのよ……」

 母は優しい声でそう呟きながら抱きしめる真子の腕に手を置きポンポンと叩いた。

(お母さん……)

 その優しい仕草に緩みっぱなしの真子の涙腺は涙を堪え切れなかった。

 頬を伝う涙は母の肩を濡らす。

「本当に泣き虫ね。これでは先が思いやられるわよ?」

「だって、だって……」

(ずっと涙は封印してきたもの……)

 泣くと余計に辛くなってしまうからといつしか泣く事を我慢するようになった。

 泣きたくても笑って、悲しい気持ちを閉じ込めてきた。

「これは嬉しい涙だから……いっぱい流すの!」

 悲しい涙じゃない嬉しい涙、過去を振り返るのはでなく未来を願う。

 十年振りの再会を果たした数日後、二人は共に歩くための一歩を踏み出した。

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