『いつかの夏へ』
1

「ありがとうございます」

 十年前からは想像もつかない真摯な声が八畳間の和室に響いた。

 言い終わり深々と頭を下げた雅樹は濃紺のシングルスーツに身を包み、その言葉の重さをこの場にいる誰よりも噛みしめている。

(ようやくだよな……)

 短いとはいえない月日を乗り越えて、たった一人の愛する人の元へと戻れた喜びは言葉で言い表すことは難しい。

 顔を上げた雅樹が横から向けられた視線に気付くと、緊張で強張っていた頬を緩ませて小さく頷いて見せた。

 二人の視線はすぐに絡み合い、互いの瞳に映る自分の姿を見て目を細める。

 誰よりもありがとうと伝えたい真子の表情がフワァッと緩むのを見て、雅樹は抱きしめたい衝動に駆られたがここでは……と我慢した。

 薄いピンク色のアンサンブルを着た真子は小さく頷き返してから正面に座る両親に視線を移した。

(年……取ったよね)

 真子は白髪の目立つようになった両親に時の流れを感じた。

 あの頃は頑なまでに厳しい態度を取った両親も今では穏やかな笑みを絶やすことはない。

「真子、幸せになりなさいね」

 涙を浮べる母に声を掛けられて真子の瞳にも涙が滲んだ。

 両親の姿が滲んで見えにくくなり瞬きを一度すると、溜まった涙が頬を伝い膝の上で重ねた手の上に落ちる。

「……真子」

 優しい声と一緒に横から差し出されたのはグレーのハンカチ。

 綺麗にアイロンの掛かったハンカチは涙で濡れた手の甲にソッと置かれ、その上から包み込むように雅樹の手が優しく握り締める。

 ずっと待っていたぬくもりがすぐ側にあることに真子の涙腺はさらに緩んだ。

 閉じた瞼の間から大粒の涙が零れ落ちる。

「泣くなよ」

「だって……」

 雅樹は声を掛けるが鼻をズズッと啜る真子が泣き止む気配はない。

「あらあら、今から泣いてたら結婚式はどうなることやら」

 真子の母の声にさっきまで張りつめていた部屋の空気が和らいだ。

 隣に座っていた真子の父はコホンと咳払いをすると、居ずまいを正してから真子の横に寄り添う雅樹を見る。

「瀬戸……いや、雅樹君」

「はい」

 雅樹の声に再び緊張の色が交じる。

 俯き涙を流していた真子も目元にハンカチを当てながら顔を上げた。

「アメリカ帰りだと……やはり洋酒が好きかね?」

「はい?」

 投げ掛けられた質問の意図が分からず、雅樹が間の抜けた返事をすると泣いていたはずの真子がプッと吹き出した。

 ハンカチで目の辺りを押さえながらクスクスと声を出す。

「お父さんね……大の焼酎好きなのよ」

「こ、こら……真子」

「あぁ……大丈夫です。酒なら何でもいける口ですし、是非お勧めの焼酎の話を聞かせて頂きたいです」

「そうか、そうか! 実は色々揃えていてね」

 真子に続いて母も声を上げて笑い、父が自慢の焼酎を披露するために部屋を出て行くと雅樹も続いた。

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