『日日是好日』第一話『ボクとガクさん』 P3
「もっと飯を食え、軽すぎるぞ」
ボクを抱き上げたガクさんが部屋に運びながら言う。
もう耳にタコが出来るほど聞かされているその台詞に少し口を尖らせ、ボクは拗ねた顔を見られないようにガクさんの首に手を回してしがみついた。
ボクとガクさんはそんなに身長は変わらない。
けれど体重は十キロ以上も違う、腕の太さも足の太さも胸板の厚さも違う、ガクさんは十キロの米袋だって片手で持つし男のボクだって軽々持ち上げてしまうんだ。
確かにボクはそんなにご飯を食べないし痩せているし力もない、でもそれは嫌だと思ったことは一度もない。
だってガクさんがいつでもボクを心配してくれたりこんな風に抱き上げてくれるから、なんて打ち明けでもしたらきっとすごく怒るから絶対に言えないけど。
「グェッ」
いつの間にか力の入っていたボクの腕がどうやら首を絞めていたらしくガクさんの情けない声が聞こえた。
慌てて腕を解いたボクに「ありがと」とガクさんが囁く。
文字通り囁いた。
いつもは熱血体育教師みたいな大きい声のくせにこういう時は信じられないほど秘密めいた声なんだ。
その声と吐き出された息が首元に掛かったせいで、油断していたボクは朝にしては少し似つかわしい声を漏らした。
「カオル」
「ん?」
名前を呼ばれてストンと視界が下がった。
どうやらガクさんはボクを抱き上げたままリビングのソファに腰掛けたらしい、二人分の体重を受け止めたソファが軋みボクの体がフワリと揺れた。
熱の篭ったガクさんの瞳がボクを見つめた。
これから何が起こるのか分からないほどボクは子供じゃない、それなのにボクはいつだってガクさんがこんな瞳をするとドキドキが止まらない。
ここで二人暮らしを始めて三年が過ぎた。
ボクたちの間に倦怠期という言葉は存在しないんじゃないかって密かに思っている。
だって初めて体を繋げたあの日から今この瞬間までボクはいつだってガクさんにドキドキしっ放しだし、ガクさんも変わらずに熱っぽい視線でボクを射抜いてくれている。
――チュッ
ボクは堪らずに自分から唇を重ねた。
重ねるだけの子供がする様なキス、それでも心が満たされるから不思議だ。
すぐに唇を離したけれど今度はガクさんの唇が近づいて重なって同じようにすぐに離れた。
そんなことを互いに繰り返しながらボクたちは何往復目かのキスでお互いに唇を寄せた、わずかに開いた唇の隙間から差し出した舌を触れ合わせた。
――グゥゥゥゥゥッ
せっかくいい雰囲気でこれからという時にボクのお腹はまさにお邪魔虫だった。
あとちょっとで熱烈なキスになりそうなところでボクたちは唇を離し、一寸の間を置いてクスクス笑い始めた。
「だから、ちゃんと飯は食え」
「うん」
性欲と食欲と比べてしまったら、今はやはり食欲かもしれない。
ボクは苦笑いするしかなくすまなそうに頷くと少し濡れたガクさんの唇がチュッと音を立てて額にキスを落とした。
「すぐに用意してやるから待ってろ」
ガクさんはボクをソファに座らせると立ち上がった。
家具にはお金を惜しまないガクさんが家具屋さんで一目惚れしたソファは体重の軽いボクの体でさえも優しく包み込んだ。
ソファに体を埋めながらボクは手持ち無沙汰を防ぐため膝を抱えるとソファの上で体を丸くした。
「どれくらい食える?」
「一枚と一個」
「お腹空いてるんだろ?」
「うーん」
「フレンチトーストなら?」
「三枚」
「ハイハイ」
そんなやり取りをしてガクさんはキッチンへ消えていく。
カウンターキッチンでボクの座っている位置からもガクさんが見える、冷蔵庫を開けて卵や牛乳を出している様子を眺めながらグウグウ空腹を訴える音を聞いた。
ボクは食パンが嫌い、でも甘くてバターの香りのするフレンチトーストが好き。
こんなの朝食なもんか! なんて言っていたガクさんもそれならパン三枚を食べることに免じて作ってくれる。
ちなみに一個というのはゆで卵のこと。
カシャカシャと卵と牛乳をかき混ぜる音が聞きながら、大の男が狭いキッチンをあっちへ行ったりこっちへ行ったりするのを飽きもせず眺める。
だってそうしていると時々ボクを見るガクさんと目が合うんだ。
ガクさんはボクにとってお父さんでお兄さんで友達でもあるけれど、誰よりも何よりも大切なボクの恋人。
一緒に暮らし始めて四年目の春の朝、ボクたちは相変わらずフレンチトーストのような甘い朝を過ごしていた。
end
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