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『桜唇』前編

「そういえばー、和真のお家に大きな桜の木がありましたよね?」

「ああ。それがどうした」

 年度末で仕事が忙しく久しぶりの逢瀬になった週半ばの夜、いつになく濃密な時間を過ごした後のことだった。

 シャワーを浴びた後もまだ余韻の残る顔を見せるかのこが呟いた。

「あんな大きな桜の木だとすっごく綺麗なんだろうなぁ」

「まあな」

 もうかなりの老木のはずだが昔からの庭師の手入れのおかげで毎年綺麗な花を咲かせている。

 ここ数年は実際に目にしてはいないが、アメリカにいた頃は初乃から写真が送られて来ていたし、それにあの時の満開の桜が未だに瞼の裏に焼きついたままだ。

 俺の左手を枕に今にも瞼を完全に閉じてしまいそうなかのこが何か言いたそうに俺を見上げる。

「……見たいのか?」

「んーと……」

 ハッキリと返事はしないものの、その顔には見たいと書いてある。

 あんなことがあったのに、それでもそんな発想が出来るかのこの頭の中を一度開いてみたい。

 これから先も二人で一緒にいる道を選ぶのならば、俺の実家を避けて通ることは出来ないだろう。

 それでも俺は……少しでもかのこに嫌な思いをさせるものは取り除いてやりたいと思っている。

「桜なんてどこにでもあるだろう」

 どうして俺の気持ちを分からない。

 そんな思いからつい口から出た言葉は不機嫌さを隠し切れなかった。

「そ……なんだけど」

 今にも眠りに落ちそうなかのこが必死に瞼を持ち上げた。

 いつだって真っ直ぐ見上げてくるかのこの瞳が好きだ。

 口は素直じゃないけれどいつだって瞳は、俺だけを見て俺だけを好きだと言う。

「なんだ?」

 顔に掛かる髪を指で払ってやりながら続きを促した。

「俺の実家は行きたくないだろ?」

 夢うつつのかのこにそんなことを聞くなんて男らしくないな。

 自分の自嘲気味な声に口にしたことをすぐに後悔してしまう。

「ちょっと……怖い。でも、和真がず……と見て来た、桜……だもん。一緒に見れ……たら、嬉し……」

 かのこは俺の返事を待たずに意識を手放した。

「俺も怖いさ。お前が傷ついて、また……俺から離れていくのかと思うとな」

 小さな寝息を立て始めたかのこの額にキスを一つ落としてから呟いた独り言。

 そんな弱気な自分を差し引いても、かのこの喜ぶ顔を見てみたいと思ってしまう。

 俺はかのこの事になるとバカになるらしい。

 最初からペースを乱されっぱなしなのに、それさえも愛しいと思うのだから重症だ。

 明日になったら朝一で真尋に……いや、面白がられるだけか、それなら社長室に出向いて桜の開花時期とあの人のスケジュールを……。

 そんなことを考えているうちに寄り添うぬくもりに釣られて次第に意識が遠のいた。




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