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早暁の海

 働くようになってからのんびり空を見上げることもなくなった。

 だからこんな風に朝の空が表情を変えていく様がとても新鮮で目が離せない。

 でもこんなに綺麗な空よりも俺の視線を釘付けにするのは真っ直ぐ海を見つめるカオルの横顔だ。

 イラストレーターの仕事をしているカオルは自然の景色や植物を眺めるのが好きで何時間でも飽きずに眺めている。

 今日はこの前カオルが漏らした一言を叶えるために日も昇らないうちに出発してまだ誰も居ない海へと来た。

 カオルは「海に行きたい」とか「海を見たい」とは言わなかった。

 ――海の音が聴きたい。

 海の音という表現を俺は理解出来なかったけれど、こうして空の色の移り変わりを眺め波の音に耳を傾けていると何となく理解出来た。

 ひと言で波の音といっても波が寄せる時の砂の音と波が返っていく時の音は違う、合間には海の家が早朝から仕度に取り掛かる音、潮風を運んでくる風の音が交る。

 そして微かに聞こえる紙と鉛筆が触れ合う音。

 こんな風に景色をデッサンするカオルを見たことは数えるほどしかない、小さなスケッチブックに鉛筆一本で陰影を付けながら出来上る早朝の海。

 まだ熱を持たない潮風が柔らかいカオルの髪を撫で、スッとした顔のラインが見えるたびに「綺麗だ」と目が離せなくなる。

「あ……ごめん。ガクさん、退屈だよね?」

 ぼんやり眺めていた俺はカオルが見ていたことに気付かなかった。

 今まで一度だってカオルと一緒に居て退屈なんて思ったことないのに、こんな風に不安そうな顔を見せるカオルが可愛くてすごく愛おしい。

「カオルに見惚れてたよ」

「ボク、なんか、そんな……」

 恥ずかしそうにスケッチブックを抱えたまま小さくなるカオル。

「一人占め出来る俺は幸せだな」

 小さくなったままのカオルを後ろから抱きしめる。

 細いカオルの体は膝を立てて座っているのに俺の腕の中にすっぽりと収まる、潮の匂いに交ってカオルの髪から甘い香りがして柔らかい髪に鼻先を埋めた。

 ジッとしていたカオルは俺に身を委ねるように体から力を抜くのが分かった。

「ボクはいつだって、ガクさんのもの……なのに」

「俺のことも一人占めしてくれるか?」

「うん。ガクさんがイヤって言うまで……ずっと」

「そうか。じゃあ死ぬまでだな、余所見すんなよ?」

「しないよ。だって……ボク、ガクさんと出逢えてホントに良かったって、思うんだ」

 腕の中のカオルの顔が蕩ける笑顔に変わる。

 思わず手を伸ばして顎を掴んで触れるだけのキスをするとカオルは驚いたように目を見開いた。

「見られちゃうよ」

「開店準備に忙しくてそれどころじゃないよ」

 カオルは心配そうに少し離れた所にある海の家を振り返った。

 まだ開店前の海の家では二十代前半の派手目の男達が準備をしている様子が見えた。

 視線を戻したカオルが俺の顔を見上げて「ほんとだ」と安心したように微笑んでそれから少し考え事をするように目を伏せた。

「もう一回、いい?」

 可愛いおねだりに今度は俺が目を見開いた。

 返事は決まっている。

 波が寄せて返す音を二回半聞きながら重ねた唇、ようやく顔を上げた俺達は夏の日差しを受けて輝く水面に目を奪われる。

 今日も暑い一日になりそうだと青く色付いた空を見上げた。

end


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