下界は、爽やかな秋晴れであろうとある日。
年中穏やかな春景色である玄英宮の正寝の執務室で、不機嫌極まりない延王尚隆は、椅子の上に胡坐をかき、だらしなく姿勢を崩して決裁書に眼を通していた。
机の左右は秋官長と地官長に固められ、厠に行くと云って抜け出す事すら侭ならない状態である。
「主上がさぼり過ぎた結果でございます。どうぞ観念なさって心静かに政務に励まれませ」
「然様、然様! ぐだぐだ云わんとさっさと溜まっている書簡に眼を通して貰おうかっ!」
「……」
気乗りせずに執務を取っているせいで、すぐに決裁出来るものすらだらだらと扱われている。
「六太はどうした? あいつはさぼっておらんのか? 様子を見に行った方がいいのではないか?」
「台輔は珍しく、早朝からさっさとご自分の決裁は済ませておいでです。今頃は大学の楽俊殿の所でしょう」
〔くっそう! あいつめっ!〕
尚隆の顔が唸り声と共に、ますます苦虫を噛み潰したようになった。
時刻は午前の十刻に近い。
〔そろそろだな…〕
尚隆は筆を手にしたまま、そわそわと落ち着かず、扉の方ばかりをしきりに気にし始めた。
「主上っ! ぼんやりなさって何を考えておられるのですっ! さっさとご署名なされませっ!」
「うううっ…」
と、その時。
廊下が俄かにざわめきだした。
いつもの光景に朱衡と帷湍は慌てて扉の前に立つと、姿勢を正して出迎えの礼を執る。
自分に対する態度とのあまりの落差に、尚隆は奮然となった。
「うっ?! おっ、お前ら…」
「ご機嫌よろしゅう…。よい朝ですね…。朱衡どの、帷湍どの…」
甘やかに優しい声が聞こえたかと思うと、眼の覚める様に美しく麗しい延の后妃が扉を開けて執務室に入ってきた。
ふわりと漂う白梅香の香りが艶冶であった。
「本日もご機嫌お麗しく…、美凰様…」
朱衡と帷湍は口を揃え、うっとりと后妃に見入って朝の挨拶を口にした。
美凰はにっこりと微笑み、ぼーっとして内の顔に眺め入っている尚隆に花顔を向けた。
「陛下…。お疲れ様にございます。十刻のお茶をお持ちいたしましたのですけれど…。執務は滞りなくお進みでございますか?」
「あっ? あっ、ああ…。うむ。この様な小山はちょろいものだぞ! うんっ!」
尚隆の返事に、美凰は困った様に頸を傾げた。
「まあ…、いけませんわ。全国から集まった大切な調書や決裁書でございましょう? しっかりお眼通しの上、陛下のご英断を心待ちにしている民の為になるお答えが出せますように、何卒全力をお注ぎくださいませ…」
美凰の励ましに、流石の尚隆も姿勢を正して座りなおし、うんうんと頷いた。
「勿論だとも! そなたのいう通りだぞ。俺も性根を入れて頑張ろうと思っていた処なのだ! 大丈夫だ! しっかり眼を通して決裁したら、午餐までには片付くぞっ! 午後からは暇も出来るだろうから、そなたと一緒に過ごしたいぞ…」
朱衡と帷湍の冷たい眼をものともせず、内にいい処を見せようと必死の尚隆は、先程うっちゃったなりの書簡を手に取り直した。
美凰は休息のお茶を淹れながら、嬉しそうににっこり微笑んだ。
「まあ! 嬉しい! 実は六太に聞いたのですけれど、本日から関弓の街に冬物の反物市がたつそうですから、買い求めに参りたいと存じておりましたの。午後からご一緒してくださいます?」
尚隆の眼がぱっと輝き、官吏達の顔がやれやれという表情になった。
「いいとも! 行くともっ! なんなら帰りに『桃林園』に寄ってもいいぞっ!」
『桃林園』とは二人が時折、関弓に外出した時に休息に使う高級な常宿である。
「まあ、陛下ったら…」
良人の色っぽい眼差しに美凰は花の様な美貌の顔を赫らめ、茶杯を尚隆に捧げ渡すと、朱衡や帷湍の分に取り掛かった。
茶を注ぐその艶めいた仕草や背姿に、尚隆はうっとりと見入ってしまう。
「えっへん! えへんっ!」
帷湍のわざとらしい咳払いに、尚隆はむっとなった。
〔折角、愛しい美凰の姿を眺めて、眼の保養を楽しんでいるというのに…〕
「主上、さっさとお済ませになりませぬと、街へはいけませんよ!」
と云うのは朱衡…。
「然様、然様! とっとと目通し願いますぞっ! 后妃のお美しいお姿は毎日毎晩ご覧になられているというに…。とにかく早く済ませないと、本当に午餐までなど、とてもではないが間に合わんぞ!」
と云うのは帷湍…。
「うっ! 喧しいぞ! ちゃんとやっておるではないかっ! うっとおしいことをほざくなっ!」
三人は極上の花茶を啜りながら、美凰に聞こえぬよう、小声で言葉の押収を繰り広げていた。
「まあ、墨が…」
茶器を片付けた後、尚隆の傍に来た美凰は硯が乾いているのに気づいた。
「陛下、美凰が墨を磨りますわ。さあ、引き続き書簡にお目通しを…」
そう云うと美凰は硯に水を差し、良人の為に懸命に墨を磨り始めた。
曲がって磨る尚隆と違って姿勢正しく、均等に磨り続ける姿がまたうっとりとする程に美しい。
尚隆は左手に書簡、右手に筆を持ったまま、呆けたように愛しい美凰の一挙手一投足を見つめ続け、ろくに執務に身が入らない様子であった。
もう何度、この光景を見たことだろう。
もう何年、この光景を見続けたことだろう。
〔やれやれ! まただな…。しかしこればっかりは仕方があるまい…。なあ、朱衡?〕
〔とにかく、急ぎのものだけ優先させましょう。美凰様は反物市に眼がない御方ですからね。本当に、こればっかりは仕方がありませんよ。ねえ、帷湍…〕
幾星霜、雁州国を繁栄に導く中枢である鴛鴦夫婦の熱い風情に、朱衡と帷湍は呆れてものも言えない様子で互いの顔を見合わせ、やがて静かに笑いだした。
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