「延王君っ! どうか、どうかお待ちを!」
鼻歌混じりにご機嫌な様子で「寿嬰堂」を後にした尚隆は、妓楼街で王名を呼ばわれてびくりとなった。
振り返ると、慶国の左軍将軍が自分に向かって駆け寄ってくる姿が見えた。
「おお桓タイ? 約束の時刻にはまだ間があるぞ? 『四海楼』で待てと伝えておいた筈だが?」
「延王君…」
息せき切って走ってきた桓タイは尚隆の前で膝を折り、叩頭しようとした。
尚隆は慌てて桓タイを押し留めた。
「待て、桓タイ! ここは関弓の街中だぞ。俺は忍びゆえ叩頭はやめろ。それから街中では俺の事は風漢と呼べ」
「ははっ…」
「火急の用件とやらで、しかも他言は無用ときた。お前の文に慌てて玄英宮を抜け出してきたのだぞ。一体どうした?」
「は…、それがそのう…」
どうにも煮え切らない態度である。
「祥瓊とは仲良くやっておるか? まあ、まだ二十日しかたっておらぬからお楽しみはこれからという所だろうがなぁ〜」
にやにやした尚隆のひやかしの言葉に、桓タイが溜息を漏らしたのは云うまでもない。
「なんだ? どうした?」
逞しい肩をがっくりと落とす様子に、尚隆は訝しげに声をかけた。
「くっ! 風漢様、俺は一体どうしたら…」
「は? おっ、おい! お前、泣いておるのか?」
今が一番幸せな時期の筈なのに悄然として男泣きする眼前の熊に、尚隆が呆然となったのは云うまでもないことであった。
街路を行き交う人々が、大きな図体の男二人を訝しげに見てはくすくすと笑いながら通り過ぎてゆく。ぐしぐし泣き呻いている男に尚隆は焦った。
「おいおい! 大の男がこんな処でめそめそ泣くな! 周りに勘違いされるではないか! 俺には龍陽の趣味はないぞ…。兎に角『四海楼』へ参るぞ。…、ついてこい!」
「ははっ…」
桓タイは逞しい腕で涙を拭いながら、とぼとぼと尚隆の後に続いた。
〔やれやれ…、一体なんだというのだ?!〕
折角のご機嫌に水を差された様な心持ちで、尚隆は緑柱街の中に歩みを進めた…。
その頃、北宮鴛鴦殿の四阿では、三人の主婦たちと一人の女王の賑やかなお茶会が繰り広げられていた。
香り高い紅茶を手ずから淹れ、昨夜作ったばかりのちょこれーとけーきを切り分けながら、美凰は祥瓊に向き直った。
「祥瓊、お怒りを買うことを承知の上で、ひとつだけお訊ねしてもよろしくて?」
「はい…」
「公主であられた事が、契りをお拒みになられる原因のひとつでは決してございませんわね?」
祥瓊はとんでもないという風に頸を振った。
「あたし、身分の事なんて、なんとも思ってません! 桓タイはあたしの何十倍も何百倍も立派な人です」
「祥瓊がそう思っていても、青将軍は祥瓊のご身分のことやご自身、半獣の身ゆえに拒まれているのではと感じておいでなのかも知れませんわ」
「そんな! そんな莫迦莫迦しいことを気にするくらいなら、最初から婚姻なんてしやしません!」
美凰はにっこり微笑んだ。
「よかった…。それなら話は解決したも同然ですもの。とても愛していらっしゃるのね?」
祥瓊は頬を染めて、それでもしっかりと肯いた。
「…、とても愛しています」
美凰は紅茶を一口含んでから祥瓊を見つめなおした。
「…。痛みは一時の事ですわ。なんとか我慢できませんかしら?」
「……」
「あたしもそう云ってるんですけど…」
鈴がおずおずと口添える。
「少しだけ御酒を召し上がってみるのは如何でしょう? ほんの一口だけでも随分違うと思いますけれど…」
祥瓊は、はあっと溜息をつくと視線を下に落とした。
「わたし…、自信がないんです」
「はい?」
祥瓊の沈んだ眼差しは、先程から美凰をちらちら見ては俯き、嘆息し続けているのだ。
「あの、先程からわたくしの衣服をご覧になっては溜息をおつきですけれど、どこか可笑しゅうございますかしら?」
美凰は自身の衣装に眼をやり、綻びや汚れがないか確認し始めた。
「いっ、いえ! そんなんじゃないんです! すみません…」
「もう、じれったいわねぇ…。いつもの祥瓊らしくないわよ! 云いたい事があるんならはっきり云いなさいよー!」
「まあまあ、そんなに怒らなくても…」
苛々した鈴の声を陽子が宥める。
ふいに、祥瓊の美しい双眸からぽろぽろと涙が零れた。
「わたし…、美凰さまみたいな胸に生まれたかった…」
「はい?」
思いもよらぬ言葉に美凰は双眸を瞬いた。
「あのう…、胸?…、でございますか?」
ふと陽子たちを見た美凰は、彼女達の視線に更に狼狽した。
今日の衣装は普段に比べて、身体の線がとても綺麗に見える衣装である。
昨夜から今朝方にかけての良人の激しい寵愛の名残が、美凰に自然とこの衣装を選択させてしまったのだ。
羅の大衫を肩から羽織っているものの、少しばかり大胆に開いた衿元からは肩から鎖骨にかけてのまろやかな線があでやかさを描き、その少し下にはふんわり豊かな胸の隆起がのぞいている。腰のくびれからお尻にかけての曲線も実に悩ましく、同じ年頃である筈の美凰の、大人の女性の艶気を感じさせるその姿に、陽子や鈴も思わず目が釘付けになってしまう。
三人の娘達にまじまじと見つめられ、美凰は顔が赫くなっていくのが自分でも解った。
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