逃亡 5
 雲雀に掴まれていた手をそっと振り払うと、美凰は再び襟元に手を当てた。

「わ、わたくしのことよりも…、草壁さんの…、草壁さんの…、ご様子は…」
「背中一面の火傷。上着越しだったからまだましだけどね。とにかく…、処置は終わって今は自室で休ませているよ」
「そう…、ですか…。わたくしなどをお庇い戴いて…、本当に申し訳ないことを…」
「君が火傷を負うことに比べれば、なんということはない。哲も…、本望だと思うよ」
「……」

 美しい花顔を苦痛に歪ませ、俯いた美凰の様子に、雲雀は再びベッドの中程に腰掛けて掛け布団を握り締めている襟元に置かれたのとは反対側の手に自分の手を重ねた。

「母のこと…、すまなかった」
「いいえ…」
「もう二度と、君を傷つけることはないよ。母には…、軽井沢の別荘に蟄居を命じたからね」

 その言葉に美凰は俯けていた顔をはっと上げた。

「そ、そんな! お、大奥様は…」
「いいんだよ。僕の大切な美凰を傷つける者は…、たとえ母であっても容赦しない」
「……」

 美凰は戸惑った様子で瞬きをし、なにか言おうとして唇を顫わせたが、うまく言葉がでてこないのか、再び下を向いてしまった。
 二度目の沈黙が二人を包み込む。
 白い繊手を握っていた雲雀の手に力がこもった。

「何故、あの離れにいたの?」
「……」

 雲雀はごくりと喉を鳴らした。

「記憶…、戻ったんだね? だから…、足が向いたんだね?」

 その言葉に美凰はこっくりと頷いた。

「…、どこまで?」
「…、なにもかも…」

 か細く呟かれたその言葉に、雲雀の心臓は冷やりとしたものに鷲掴まれる。

「…、長い間…、御前さまを筆頭に皆様には本当にご迷惑をおかけしまして…、心底申し訳なく…、あっ!」

 握られている自分の手を引き抜こうとしている美凰を雲雀は許さず、強張っている彼女の身体を引き寄せてぎゅっと抱きしめた。

「そんなことどうだっていいよ!」
「……」
「お願いだよ! 顔を上げて、こっちを見て!」
「……」
「僕を見て!」

 だが雲雀の言葉に美凰は応えることなく俯いたままである。

「…、これ以上、御前さまのご不興を買いたくはございません…。どうぞお許しくださいまし…」

 美凰が何を言っているのか解らず、雲雀は混乱した。

「…、何を言ってるの?」
「今すぐ…、今すぐわたくしを…、わたくしをお傍から去らせてくださいませ」
「美凰…」

 腕の中の美凰はぶるぶると身を顫わせていた。

「お願いでございます! 今まで…、今までどんなに酷いお仕打ちにも黙って耐えて参りました。でもこればかりは…、こればかりは…」
「だから何を言っているの?」

 腕の中から逃れようと身を捩る美凰を、より一層強く抱き竦めた雲雀の耳に搾り出す様な声音が響いた。

「お腹の御子を取り上げられるくらいなら、今すぐ死んでしまった方がましでございます! どうかお慈悲を…。堕胎だけは…、何卒お許しくださいまし…」
「!」

 自身の下腹部を庇いつつ、美凰は悲痛な声をあげて嗚咽し始めた…。



「…、どうして…、どうしてそんなことを言うの?」
「ロマーリオさんが…、御前さまが御子のことで懊悩なさっておられると…」
「……」
「それに…、西洋の堕胎薬をもうご準備なさっておられると…」
「……」
「卑しい身であるわたくしのお腹から産まれたとしても…、御子にはなんの罪もございません…。お認め戴かなくてもいいのです。せめて…、せめて御子だけでもひっそりとどこかで生きていけるだけのご処遇を…」
「そして…、君の命を縮めろというの?」
「…、御前さま…」

 両手で花顔を覆い、歔欷いていた美凰の手頸を掴んだ雲雀は無理矢理彼女の顔を仰のけさせた。

「堕胎薬なんか用意してない。薬は…、薬は君の肺の病を治す為のものなんだよ!」
「……」
「解らないのかい?! 独逸製の最新薬を嚥む為には身孕っているわけにはいかないんだ。副作用を招いて…、子どもに影響を及ぼす。だから…」
「……」

 美凰の双眸からぽろぽろ流れ落ちる涙に、雲雀は唇を寄せた。
 優しい愛撫であるにもかかわらず、美凰の心は頑なに閉ざされようとしていた。
 記憶が蘇ったばかりで夢と現が混同し、雲雀の心情を量りかねている今の美凰にとって、どんなに優しい言葉も所作も受け入れ難いものであったのだ。

「薬さえ嚥めば…、君の生存率は飛躍的に伸びる。完治は叶わなくとも、少しでも長く僕と共に年月を過ごすことが出来るんだよ? 僕の妻として…」
「…、その為に…、宿った命を屠るのですか? わたくしに…、二度も子殺しをしろと?」
「美凰…」

 張り裂けんばかりに眼を見開いた美凰は、縋りつく様にして雲雀に懇願した。

「もう、なにもかもご存知でいらっしゃるのでしょう? わたくしは…、わたくしはディーノ様の…」
「それ以上言うな!」
「ならばお願いです。どうか御子に生きる術を…」
「……」
「この御子は…、あなたさまの…、あなたさまの…」
「僕は…、希んでいないよ」
「! ご、御前…、さま…」



 冷たく言い放たれたその言葉に、美凰の中の何かが音を立てて崩れ落ちた。
 この感覚には覚えがある。
 あの座敷牢の格子越しに、雲雀に心を引き裂かれた時と同じものであった。

「僕が心底希んでいるのは君だけだ…。君の命を縮める僕の子どもなんか…、いらない」
「……」



“いらない”

 美凰は呆然とした眼差しを俯けた。

「僕には…、僕には君だけなんだよ。美凰…」
「……」
「愛しているんだ…」
「…、塵芥(ごみ)の様な女なのに?」
「? 美凰?」
「あの時、あなたさまは仰しゃいましたわ。僕は君なんか愛していない。君の愛なんか塵芥も同然だと。ディーノ様のものにされた時、死んで愛を貫かなかったわたくしは…、あなたさまの愛には値しない、と…」
「ちが…」
「心のどこかではずっと解っていた筈なのに…。わたくしは最初の最初から…、身体だけの存在だったのですもの…。それなのに莫迦なわたくしは、あなたの根底にある冷酷なお心から顔を背け、偽りのお心のかけらを傾けて戴けたことに小躍りし続けていた。生涯日陰の身であっても、あなたが気まぐれに投げ与えたひとかけらがわたくしのすべてだった。それだけをよすがに生きてきた…。でも…、あなたが欲していたのはわたくしの心ではなく、わたくしの身体による快楽だけだった…。だから…、だからディーノ様の許にいたわたくしを救いに来てはくださらなかった…」

 青白い頬を滂沱の涙が零れ落ちる。
 美しい花顔が絶望に歪んだ。

「…、美凰…」

 美凰は顔を上げ、きっと雲雀を見つめた。
 そんな意志強い眼で見つめられたのはあの格子越しの時以来、二度目だった。

「あなただけが…、わたくしのすべてだったのに…。それなのに…、わたくしがディーノ様に無体を強いられていた二年間、あなたは何人もの女性をお囲いにあそばされていらした…」

 初めて見せる美凰のむき出しの本心に、そして表情に、雲雀の胸は抉られた。

「……」
「夢の中のあなたはこう仰いましたの。君は身体だけの存在。君の心なんかいらないし、ましてや子どもなんか! 第一それ、僕の子どもなの?」
「やめなよ…」
「笑っちゃうよね? 君、母上の言いつけを守って堕胎薬嚥んでたんでしょ? なのに何故? 子どもが出来れば僕の心が変わるとでも思って言いつけに逆らったの? 莫迦だねぇ。本当に君って莫迦な女だねぇ…」
「やめるんだ、美凰!」
「そんなことしたって、僕の心は変わらないのに…。だって僕は元々…、君なんか好きでも何でもなかったんだから…」
「いい加減にしろっ!」

 気がつくと雲雀は美凰の頬を平手で殴っていた。
 そして彼女は…、そのままそこに突っ伏して泣き咽んだ。



「何が真実で何が虚構なのかまるで解らない! どうして…、どうしてあのままお捨て置きくださらなかったの? 骸は野犬にお与えくださいと書き遺した筈ですのに…。それが…、それが莫迦な女に相応しい末路でございましたのに…」
「美凰…」
「自害し損ね、業病を患い、授かった命まで“いらない”と言われて…、いったいわたくしに…、どうして生きてゆけと仰るの?」

 雲雀はぐっと顎を反らし、奥歯を噛み締めた。

「僕がいるじゃないか」
「……」
「僕には君が必要なんだよ…」
「……」

 そう言うと、雲雀は上着の胸ポケットにしまっていつも持ち歩いているものを取り出した。

「これを…、覚えているよね?」

 提示されたものを虚ろに見つめた美凰の眼が呆然となる。
 それは自らが書いた遺書と、嘗て枕屏風に封じ込めた雲雀からの恋文にも等しい美凰の宝であった。

「ここに書いてある詩は紛れもない僕の本心だよ。僕は初めて出逢った時から君に恋していた。無理矢理君を自分のものにしたのは、君を他の誰にも奪われたくなかったからだ。君をディーノに渡してしまったのは、僕の生涯最大の過ちだった。父上の言葉を鵜呑みにしてしまった僕に、言い訳は出来ない。けど解ってほしい。僕にはずっと君だけだった」
「……」
「君を取り戻した時、僕は再び過ちを犯してしまった。捻れたものを元通りにして、そこからやり直すことも可能だったのに、僕のつまらない嫉妬心と復讐心がそれを妨げてしまった。君は僕のことを愛していると…、身体は穢れても心は僕のものだったと、ずっと言い続けてくれたのに…」
「……」
「君を信じることが出来なかった僕が莫迦だった…。どうか許してほしい。そして…、僕の傍で僕を愛し、一緒に生きると誓ってほしい…」
「恭弥さま…」
「僕は美凰を愛している。それだけが真実だよ」
「……」



 凡そ三年ぶりに垣間見るそのものの書簡の文字を、美凰はそっと指でなぞった。

 美凰へ

“曾て滄海を経(ふ)るも水と為し難く、巫山を除却(のぞい)ては是れ雲ならず”

     紫雲


『とても難しそうな詩ですのね? どういう意味ですの?』
『大海を見た者にとって、そこらの水は水とは云えない。伝説に名高い巫山の雲を見た者にとって、そこらの雲は雲とは云えない。同じ様に…、この世に女は沢山いるが、僕が“妻”と呼ぶ女はたった一人だ…』
『まあ…』
『僕にとっての、君のことだよ、美凰…』
『……』

 君のことだよ、美凰…。



〔ああ、けれど…〕

 美凰の態度が軟化した様に見えたのは雲雀の願望なのか。
 彼は彼女の身体をそっと起こし、自分の胸の中に抱き込んだ。
 相変わらず美凰の身体は強張っていたが、それでもさしたる抗いを見せずに雲雀の腕の中に納まった。

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