逃亡 4
 夢の中で、美凰は異臭を放つ毛むくじゃらの外国人二人に組み敷かれていた。
 身悶え、弱々しい抵抗を続ける美凰を、冷たい眼が蔑む様に見下ろしている。

『罪には罰を…。その男どもは手始めだ。まだまだ行列をなして順番を待つ船乗りはいる。全員に一巡の楽しみを与えきるまでは、ヤり殺されずに精々頑張るがいい』
『やめてっ! 触らないでっ!』
『ディーノ様を殺し、恭弥様を狂気に追い込み、母娘して春香お嬢様を苦しめた魔女め! もし船乗り達に散々抱かれてもなお生きながらえている様なら、八つ裂きにして鮫の餌にしてやろう。亡きディーノ様への捧げ物としてな!』
『いやっ! 恭弥さまっ! 恭弥さま助けてっ! 後生ですっ! 誰かっ!』
『心配せずとも、恭弥様とてお前が孕んでしまった子どもをどうやって流させようか、日夜お苦しみのご様子だ。実際、お前を抱いて流産させることを執事の草壁と相談していたし、お知り合いの華族様から独逸製の堕胎薬を貰っていらしていることも知っている…』
『! そっ! そんなっ!』
『所詮お前は器だけの存在なのだ。卑しい女の腹から産まれる子どもなど、高貴な御方が希まれる筈もなかろう。お前は恭弥様のお身体をお慰めするだけの存在なのに、それすら満足に務められぬ上、いらぬ罪の子を孕んでしまうとはな…』
『!!!』



 ロマーリオだと思っていた冷たい声音と顔が、いつしか己の愛する人の美麗な顔立ちに変わっていた。
 黒曜石の様に煌く瞳が冷たい輝きを放って美凰を見下している。

『ロマーリオの言う通りだよ。君は身体だけの存在。君の心なんかいらないし、ましてや子どもなんか! 第一それ、僕の子どもなの?」
『…、恭弥さま…』
『笑っちゃうよね? 君、母上の言いつけを守って堕胎薬嚥んでたんでしょ? なのに何故? 子どもが出来れば僕の心が変わるとでも思って言いつけに逆らったの? 莫迦だねぇ。本当に君って莫迦な女だねぇ…』
『恭弥さまっ!』
『そんなことしたって、僕の心は変わらないのに…』
『あっ…』
『だって僕は元々…、君なんか好きでも何でもなかったんだからね』
『……』

 美しい若君のにこやかな微笑と冷たい声…。
 美凰の頬を絶望の涙が零れ落ちる…。





「やっ…、ゃああぁぁぁっ!」
「お美凰様っ!」

 悲痛な叫び声をあげて美凰はかっと眸を見開いた。

「あっ!」
「お美凰様、しっかりなさってくださいましっ! もう大丈夫でございますよっ!」
「……」

 呆然とした様子で眠りから覚めた美凰に、千鳥が必死になって呼びかけている。
 美凰は何度か瞬きをし、頸を巡らせて千鳥を視界に確認した。

「ち、千鳥…、さま?」
「紗江ちゃん! 隣室でお待ちの恭弥様と黒田先生をお呼びしてきておくれっ!」
「は、はいっ!」

 千鳥の声に、安堵のせいかメイドの紗江が泣き笑いの表情で寝室を出て行って程なく、乱暴にドアが開かれて蒼白の顔をした雲雀が美凰の横たわるベッドに駆け込んできた。

「美凰っ!」
「……」

 夢の中の冷たい美貌が嘘の様に、雲雀は随分と憔悴した様子だった。
 いつも綺麗に整えられている黒髪は乱れ、タイの解けた衿元の釦は開襟されて綺麗な鎖骨が覗いていた。

「大丈夫かい? どこか…、痛む所や苦しい所は、ない?」
「き、恭弥さま…」

 その必死の目つきが美凰を混乱に戸惑わせる。
 何が夢で何が現なのか、それすらも霧に包まれている様な心持だった。

「恭弥様、恐れ入りますがまずは黒田先生のご診察から…」
「…、うん…」

 千鳥に促され、雲雀は自分の後ろからつき従っていた美凰の主治医に一旦その場を明け渡した。





 医師の診察が終った後、千鳥の手を借りて簡単に湯を使って身を清め、真新しい寝間着に着替えた美凰は雲雀がじっと見守る中、終始無言のままベッドの中でいつもの薬湯を口に含んだ。

「千鳥、さがって…。美凰に話があるんだ」
「恭弥さま、六道伯爵様を客間でずっとお待たせしております」
「礼は言ったよ。そして話は改めてと言った。今日は引き取って欲しいともね」
「ですが…」

 千鳥が困ったという風に溜息をついた瞬間、寝室の扉がノックされ、返事を待たずにドアが開扉された。

「やあやあ! お加減は如何ですか?」
「あっ…」

 許可なく女性の寝室に入り、つかつかとベッドに歩み寄ってくる六道骸伯爵に、美凰は居住まいを正して襟元に手をやった。
 美凰を救ってくれた時に外してあった黒い眼帯が右目にかけられ、今は蒼い隻眼しか窺えない。
 一方、ベッドの中程に腰掛けていた雲雀は怒りを露に立ち上がった。

「六道っ! 君…」
「まあまあ、そう怒らないでくださいよ! 折角お見舞いに寄らせて戴きましたのに、まあ、色々なことが起こって…。君の家は見ていて本当に飽きませんね?」
「なっ!」

 骸は雲雀を無視し、くつくつ笑いながら彼の立ち位置とは反対側の方に廻って美凰の傍近くに立った。

「ご無礼は幾重にもお詫びします。ご気分はどうですか?」
「あ…、さ、先程は…、お助け戴きまして、あ、有難う、ございます…」

 美凰は頬を染めた。
 目の前にいる骸は、雲雀のものであろう上着やシャツに着替えを終えている。
 ただ、仄かに漂う香りだけが…、雲雀がいつも焚き染めさせている古来から香と違って甘やかな藤の香りがした。
 この時代にはまだ新しい、西洋香水の様だった。

「そ、それに…、まことに、申し訳なく…。わたくし…、伯爵さまのお召し物を…」

 不逞の輩から救われた上、吐瀉物で喉を詰まらせている所を助けて貰い、あまつさえ最高級のものであろう彼の上着を汚してしまったことに身も竦む程の羞恥を覚える。
 そんな美凰の様子に骸は口角をあげて微笑んだ。

「そんなこと気にする必要はありません。貴女がご無事であった。それだけが大事なのですから」

 そう言うと骸はその場に片足をつき、美凰の白い繊手をそっと取って高貴な姫君にでも捧げる様なくちづけをその甲につけた。

「あっ…」
「六道っ! 何をするのっ! その手を離しなよ!」

 美凰の驚愕と雲雀の激怒を他所に、骸はもう一度、彼女の手を握り締める。
 掌に感じる感触に美凰の眼が揺らめくと、骸は視線で彼女の動きを封じた。
 一方、嫉妬で動転していた雲雀には二人の所作に気づく余裕がなかった。

「六道っ! いい加減にしないと…」

 焦れた雲雀が骸の手に包まれていた美凰の手を乱暴に引き取った瞬間、骸は優雅な所作で立ち上がり、再び彼女に対して最上の礼を執った。

「貴女は自分を卑下してはならない。僕の知る限り、貴女は誰よりも美しく気高い魂を持つ女性です」
「…、は、伯爵さま?」
「どうかご自愛の程を。雲雀君もあまりこのか弱い御婦人をいたぶらぬ様に…」
「君…」

 雲雀の怒りを他所に、骸は「では…」と述べると、そのまま振り返りもせず寝室から出て行ってしまった。



 まったくもって、神出鬼没な男である。
 先程から無言でおろおろしていた千鳥が、慌てて骸の見送りに付き従う。
 そして寝室内は、雲雀と美凰の二人っきりとなってしまった…。

_68/78
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