刻限はもう昼近くであろう。
日差しが高く照りつけていて、川の水が煌めいている。
〔わたくし、何を想ってこのようななりで、でかけたのかしら?〕
深い哀しみに胸はふさがれたが、涙は出なかった。
己の惨めさが、堪らなくおかしく、情けなかっただけである。
神田川の土手の方から、子供たちの無邪気な唄声が聞こえて来た。
橋から下を見ると、笹の枝を片手に笹舟を造り乍ら、七夕の唄を歌っている様子であった。
美凰は、ゆっくりと土手を下に降り乍ら、想い出の調べを童唄で久しぶりに聞き、寂しく微笑みつつ川べりに立ち尽くした。
〔もうすぐ七夕…。あの日は、星が煌めく、七夕祭りの夜だった…〕
八幡神社の境内の池の端で、大介に愛を告白されたことを今でも昨日のことのように覚えている。
『美凰さん。知ってるかい。こうやって笹舟をつくって、願い事を唱え乍らこちらから向こうへむけて流す。無事に向こう岸へたどり着いたら、願いは叶うと云う占い』
『存じていますわ。途中で沈んでしまったら、願いは絶対に叶わないということも』
『いやな事を云うなあ。そんな事を云う人の願いは叶わないと思うな』
『まあ、そんな意地悪を! いいんですのよ、別に…』
『ははっ、怒ったのかい? さ、流すぞ』
大介は笑いながら、美凰はふくれっ面で笹舟を流した。
『どんな願いをかけたんだい?』
『内緒ですわ。大介さまは?』
『内緒だよ』
そして美凰の舟は途中で水に呑まれてしまった。
『あっ! わたくしの舟が!』
美凰はたちまちの内に、べそかき顔になった。
大介の舟は、見事に向こう岸へ到着した。
『どうだい。俺の舟はちゃんとたどり着いたからね。美凰さんは信心が足りないから沈んだんだよ』
『まあ、わたくしだってちゃんと祈りましたわ。ひどい!』
『美凰さん。俺の願い事をきいてくれるかな?』
『……』
『美凰さんが、美凰さんが俺の妻になってくれるように…』
『大介さま! 本当に?』
『俺は美凰さんが好きだ。返事を訊かせてくれないか?』
『嬉しい!』
『本当に?』
『美凰だってお願いしましたわ。大介さまのお嫁さんになれるようにと。でも沈んでしまいました。だから…』
『大丈夫だよ。絶対に大丈夫だ!』
大介は、美凰を背中からそっと抱き締めた。
遠くから、夜祭にはしゃぐ子供たちの歌声が聞こえてきた。
『いや、羞かしい…』
はっとなった美凰は大介の腕を逃れ、新しい笹舟を造ってそっと水面に置くと無邪気な調べに合わせて唄い出した。大介も途中から共に唄い、やがて美凰を抱き締める。
『美凰も、美凰も大介さまが好き!』
『美凰さん!』
大介の口唇が、美凰の口唇を優しく吸った…。
美凰は小さな声で唄をくちずさみ乍ら前髪に挿している櫛を手にとり、そっと撫でた。
その櫛は、七年前に大介に買って貰ったものであった。
〔あれからですら、八年近い歳月が流れているというのに…〕
美凰が、懐かしい想い出に、哀しく溜息をついた刹那…。
「姉上…」
声をかけられて振り返ると、隼人がにっこり微笑んで立っていた。
淡い青色の単に深い藍色の袴はすらりとした体格によく似合い、若々しい。
「まあ、隼人さん! どうしてここに?」
「秋山の大先生の所からの帰りなんです。ぶらぶら歩いていたら、姉上がそこの火消しの家に入ってゆかれるのを見つけたものだから、出て来られるのを待っていたんです」
「まあ、そうですの」
「何かあったんですか? お顔の色が冴えないようだが?」
「いいえ、別に」
隼人はまじまじと美凰を見つめ、眩しそうに眼を細めた。
「でも、初めてだなあ。姉上のそのようにお粧しされたお姿は!」
「まあ、なにを仰しゃるの! お上手ね…」
「いや、本当です。とてもお奇麗だ!」
「嬉しいわ、隼人さん」
美凰は、隼人に促されて土手を上がり、橋のたもとまでついて歩いた。
人通りの多い所での男女の接近は、特に武家の身分では人々の注目の的である。
ましてや美男美女の連れ合いなので、行き交う人々の好奇の視線は、美凰たちに集中した。
そこへ、飛び出していった美凰のことが気掛かりだったのであろう。
尚隆とお新の非礼をひとしきり怒鳴ってから、さぶをお供に家を飛び出してきた辰五郎一家の小頭、鶴吉が走ってやって来、二人の連れ立っている姿を目撃した。
輝くばかりの二人づれである。
鶴吉はどうにも声をかけにくくなり、物陰に隠れた。
「ひゃあー! 滅法、男前のさむれえじゃござんせんか! ありゃ、うちの若様と『どちらが菖蒲か、杜若!』なーんて、あいてっ!」
鶴吉はさぶの頭を一発叩き、それから袖を引っ張った。
「莫迦、おめえは…。それは女を比べるときの表現だ。それよりも、そこへ隠れろ!」
「なんなんすかぁ? なんで俺たちが隠れなきゃならねえんですかい?」
「しっ! 黙ってろ!」
美凰と隼人は、気づかずに二人の隠れている物陰近くで立ち止まった。
「…。姉上、今日はお暇ですか?」
「? どうして?」
「江戸の鰻を味わってみたいのですが、一緒に行って頂けませんか?」
「鰻ですか…。そうね、参りましょうか。ここから少し行った神田須田町に、とても美味しいと評判の、蒲焼き屋がありますのよ。そこになさいます?」
隼人は微笑んだ。
「それもいいんですけどね、舟に乗って深川へ出かけませんか? 俺、昨日大先生に教えてもらったんですよ。鰻を食うなら深川だ。わしが教えてやるってね」
「まあ、おじい様ったら…」
美凰はくすっと笑った。
祖父の源兵衛は、評判の食通であった。
「で、鰻の美味い店をこんこんと教わったんです。大川端沿いにあるそうで、大先生のお名前を出せば桟敷を用意してくれると仰せでした。折角だから足を延ばして富岡八幡宮を詣でておこうかとも思って…。如何です?」
「でも、今からだと遅くなりますけれど…」
美凰はしりごんだ。
いくら弟のような者とはいえ、男女が二人っきりで夜遅くまでというのは、あまり感心されないことである。
「いいじゃありませんか。琴路だって帰りは遅くなるようだし」
「ええ、今日はわたくしの実家に泊まられますの」
「なら好都合だ。俺の江戸見物に付き合って下さいよ」
瞬時、ためらった美凰であったが、妹たちやお新と楽しそうに過ごしていた尚隆を思い起こした。
〔そうね、構いはしないわ。誰に文句を云われるわけではないし、折角隼人さんが江戸へお越しなんですもの。わたくしがご一緒したって…〕
美凰は頷いた。
「そうね。折角江戸へいらしたのですものね。お付き合い致しますわ」
「良かった! それじゃ両国橋まで歩きましょう」
二人は連れ立って歩き始めた。
美凰たちが橋を渡り、対岸を大川に向かって歩き始めた頃に、漸く鶴吉とさぶは潜んでいた場所から出てきた。
鶴吉は険しい表情で、遠ざかる二人を見送っていた。
「あの色男の若ざむれえは、さっき若様がお連れした琴路さんてえ娘さんの兄貴みたいですねえ」
「そのようだな」
「ひゃあ、やっぱり高嶺の花っすね。お師匠さんにはあんな立派な色男がついていた!」
「やめねえか、さぶ!」
おどけた口調のさぶを、鶴吉は窘めた。
「でも兄貴。今日日、鰻屋の桟敷に若い男女が二人っきり、なーんていったら、しっぽり濡れて、いきつくところにいっちまうってえのが普通でさ。お師匠様だって莫迦じゃねえんですから…」
「あのお人はそんなふしだらな女じゃねえ!」
「兄貴?」
「…、と俺は思う」
さぶは鶴吉の見幕に眼を丸くしたが、次の瞬間には信じられないという表情で眼を瞬かせた。
「あっ! ひょっとして兄貴!」
さぶの視線を避けるように、鶴吉はくるりと背中を向けた。
「帰えるぞ!」
そのまま鶴吉は走りだした。
「あっ! 兄貴! 待って下せえよ!」
さぶは、脱兎の如く駆け出していった鶴吉の後を追いかけた。
尚隆が、きらびやかに装った娘たちを連れて暖簾をくぐり、表に出た時、丁度向こうから鶴吉とさぶが帰ってきたのと鉢合わせた。
「あら、鶴吉だわ。帰って来た!」
お新が尚隆に向かって云ったが、尚隆は無視していた。
むっとし乍ら腕組みをして歩く鶴吉に、さぶがからかうようにまつわりついているという格好である。
「? なにしてんのかしら、さぶったら? お師匠さんには追いついたのかしら?」
お新は首を捻った。
「おい、そろそろ行くぞ! 文世殿も琴路殿お待ちかねだ」
尚隆がお新を促した。
「ちょっと待って下さいよ! んもう、だいたい若様もひどいじゃありませんか。お師匠さんとお知り合いだったなんてこと、あたしは一言も聞いてませんでしたよ。おまけに文世さんはお師匠さんのお妹さんだと仰しゃるし…。あたし、とんでもない失礼な態度をとっちゃって…。鶴吉に叱られるまで、気が付かなかっただなんて!」
尚隆は例の、人を小馬鹿にするような笑いをお新に向けた。
「心配しなくても、そんなこと気にするような奴じゃないさ」
お新はむっとして、尚隆にくってかかった。
「まあ! 妹さんを前にしてよくそんなものの云い方ができますね! お師匠さんを莫迦にしたら、あたしが承知しないから!」
お新を落ち着けようと、側から文世が尚隆を庇って云った。
「いいえ、本当に。姉はそんなこと気にするような人じゃありませんから…」
「でも…。あっ、鶴吉、さぶ!」
近づいてきた二人に、お新は声をかけた。
しかし、二人には聞こえていないようであった。
「ねっ! そうなんでやしょ?」
「うるせえ!」
「兄貴ってばぁ…、うえっ?」
さぶは、お新に襟首を掴まれて唸った。
「お待ち!」
「あっ、お嬢さん!」
さぶははっとなって立ち止まった。
「どうだった? お師匠さんには追いついたのかい?」
鶴吉は尚隆をじろりと見たが、それっきりものも云わずに奥へ入ってしまった。
「あっ、兄貴! 参ったなあ…」
普段から礼儀正しい鶴吉しか知らないお新は、その様子にいぶかしみ、困ったようにぼんのくぼをかいているさぶに囁いた。
「さぶ、どうしたんだい、鶴吉は?」
「いや、まあ、男には色々とござんして…。あっ、それからお師匠さんですがね、追いつくには追いついたんでげすが…」
「どうしたんだい? 怒ってらしたのかい?」
「へえ、別に怒っていらっしゃるようなご様子はござんせんでしたがねえ」
「そうかい。良かった。じゃ、明日にでもお詫びに伺うとして、若様、参りましょうか!」
お新はほっとした様子で、尚隆に声をかけた。
しかし今度は、尚隆の方が、なにか云い足り無さそうにしているさぶに声をかけた。
「なんだ? 他にもなにか云いたいことがありそうな顔だな?」
「いえ、そうじゃねえんで。えーと、あのう…」
さぶは琴路をちらりと見た。
「そちらのお嬢さんが、確か琴路様でしたよね?」
「はい? さようでございますけれど…」
琴路は、首を傾げてさぶを見た。
「あのう、お嬢様には、隼人って仰しゃるお兄様なんていらっしゃるでげしょ?」
「はい」
「ああ、やっぱりだ! なんていうか、お内裏様みてえに滅法、男前の若さむれえ!」
「まあ! ほほほっ。そんなにいい男ですかしら? あの、兄の隼人がなにか?」
「んもう、さぶ! あんたの云うことはよく判んないよ。どういうことなんだい?」
じれったくなったお新は、続きを促した。
「へえ、つまりこういうことでさあ。おいらたちがお師匠様に追いつくと、お師匠様は神田川の土手から、その隼人様ってえ方と共にあがって来られたんでげす」
無言のままの尚隆の眉が、ぴくりと動いた。
「おいらが声をかけようとすると、鶴吉兄貴が隠れろって云うもんですから、隠れてますと、その隼人様が、深川へ鰻を食べに行こうって、お師匠様を誘われたんでげす」
「まあ! 兄上が!」
琴路は、眼を丸くした叫んだ。
「へえ。最初、お師匠様はあまり遅くなってはと渋っていらしたんすけど、お嬢様が今日はお泊まりだというのお聞きなすった隼人様が、それじゃあ桟敷を用意させて、ゆっくり積もる話をしようって、お師匠さんを説得なすって、お師匠さんの方も、そいじゃあ参りましょうかってことんなっちまわれやしてね。そんでもって富岡八幡様に詣でたいとかも仰しゃってたなあ」
「まあ、素敵! でも桟敷なんて、お兄様、そんなに金子をもっていらっしゃるの?」
文世がすかさず、琴路に聞いた。
琴路は首を傾げ乍ら笑った。
「よくは判りませんが、京を出てくる時にはかなり持っていたようですので、それぐらいなら、なんということもないと思いますわ」
「まあ! お姉様が羨ましい!」
「うふふっ!」
娘たちはきゃあきゃあと笑い合った。
「羨ましがることはないぞ。そなたたちには俺が鰻を馳走してやろう」
尚隆は憤然とした心中を隠し乍ら、快活に笑った。
「まあ、本当ですか!」
三人は顔を見合わせた。
「浅草にも美味い蒲焼屋がある。さぶにも土産を包んでもらってきてやる。待っていろ。参るぞ!」
尚隆は先に立って歩きだした。
「尚隆様、待ってえー!」
「若様ぁー!」
娘たちは、小走りに尚隆の後を追いかけた。
浅草でも評判の鰻屋の表座敷に三人娘を連れて来た尚隆は、特上の鰻飯を三人前と自分は冷酒を注文した。
「わたくしの兄なんですけれど、どうやらお姉様に求婚しに来たみたいなんです」
鰻を食べ終えて茶を喫し乍ら、琴路は云った。
士官して、宮家から禄も貰えるようになったので、初恋の人を妻に迎えようとの出府であるらしいと、琴路は羞かみ乍ら微笑んだ。
「まあ、お師匠さんに!」
「お姉様に!」
文世とお新は同時に叫んだ。
尚隆は無言のまま、眉を顰めて冷酒を呑んでいた。
「失礼ですけれど、琴路さんのお兄様ってお幾つ?」
お新が興味深そうに尋ねた。
「今年で二十歳になります」
「まあ、四つも年が下ですわ!」
文世が、吃驚したように眼を丸めた。
「お姉様は兄の初恋の人なんです。わたくしたちがお姉様に初めてお会いしたのは、兄が十三、わたくしが九つ、お姉様が十七の時…」
「姉が京に行った頃ですものね」
「でも、どうして京へなんか?」
お新の問いに、文世は肩をすくめて答えた。
「許婚者の方が…、八丁堀の同心だったんですけど、不逞の浪人者に惨殺されて亡くなったんです。そのときの衝撃で、姉は心身を病んで暫くの静養ってことで、行ってたそうなんです。わたくしはまだ小さかったからよく知らないのですけれど、大層仲の睦まじい恋人同士だったそうですわ!」
尚隆は興味なさそうな顔をして、小女に銚子の追加を頼んだ。
「若様、少し過ぎてやしませんか? 身体に毒ですよ!」
お新が窘めたが、尚隆は無言で例の笑いを口元に浮かべた。
「んもう! あたしゃ、知りませんからね!」
「俺のことより、話をちゃんと聞いてないと仲間外れになっちまうぞ」
「判ってますよ。ちゃーんとこっちの耳で聞いてます」
二人のやりとりを外に、琴路と文世は話に夢中になっていた。
「まあ! お可哀想に…」
「それで、その方のことが忘れられずに、未だに独り身なんですの」
すかさずお新は、溜息をついて云った。
「お気の毒に…。でも女がいつまでも独り身というのもねえ。第一、次に文世さんがいらっしゃるのですもの。文世さんもお姉様を差し置いて、お嫁にいかれるわけには参りませんでしょう?」
「ええ、そうなんですの。ですから父もそのことを考えて、姉に道場の師範代との縁組を勧めているの。師範代と娶わせて、道場を継がせようと…」
「師範代の方?」
琴路は小首を傾げた。
「ええ。相良様と仰しゃる、役者ばりの美男なの。剣術もうちの父と同格ぐらいに使うの。歳は三十八と、随分に董が立ってらっしゃるのだけれど…」
「今度は十四も年上の方!」
お新が頓狂な声をあげた。
「そうなると後添えということですわね?」
琴路が注意深く聞いた。
「いいえ。それが、うちのお姉様と同じ。忘れられない女性がいらっしって、今まで独り身を通してたとか仰しゃるの」
「まあ! 三十八歳までも? 今時珍しい純情なお人なんですね」
お新の感心した眼差しに、文世は頷いた。
「父に説得されて、小さい頃から見知っているお姉様のことだし小さい乍らも道場は継げるし、決断なさったんだと思いますわ。一度、姉に勧めて断られたんですけど、うちのお父様は相良様との事、まだ諦めていないらしいんです。相良様も、気長に待つって笑っていましたわ」
「まあ! 師範代の方にまで求婚されているとは、うちのお兄様も前途多難だわ…。実はわたくし、昨日お富さんから聞いたんですけど、秋山の大先生の跡を継がれる周平様と仰しゃる方…」
お茶を啜っていた文世が、顔をあげた。
「周平兄様? あっ! まさか!」
「ええ、お姉様に求婚されていらっしゃるそうなんです」
俯き乍ら、酒を猪口に注ごうとしていた尚隆の手が止まり、顔があがった。
「秋山殿が?」
「尚隆様、ご存じですの?」
「ああ」
「何度か会ってらっしゃいますものね」
尚隆はなみなみと注いだ酒を、一息に飲み干した。
「失礼ですけど、その方はお幾つ?」
またお新が、同じ質問を繰り返した。
「確か今年、三十になられた筈ですわ」
「じゃ、年回りから云えば、その方が一番相応しいんじゃございませんか!」
「お新!」
琴路を気にして、尚隆はお新を窘めるように低く叱咤した。
「あらっ! すみません。悪気はなかったんですよ」
「いいえ、いいんです。あれ程美貌のお方なんですから、ほかに言い寄る殿方がいらっしゃらない方がおかしいんですもの」
琴路は溜息をついて項垂れた。
文世が、琴路を元気づけようと、冗談めかして云った。
「あーあ、それにしてもお姉様がお羨ましい。美男の相良様に、周平兄様。おまけに琴路様のお兄様にまで! わたくしなんか、まだなんのお話も舞い込んではきませんのよ」
文世はちらりと尚隆を見た。
お新は慌ててその視線を遮り、微笑み乍ら云った。
「心配なさらなくっても、そのうちにどっさりとやってきますよ!」
「そういえば、相良殿はどうしているのだ? 道場では近頃、見かけぬが?」
美凰の所には訪れないでいる尚隆はどうやら花總道場にはよく顔をだしているらしく、文世に問いかけた。
「今、お休みなんですの。なんでも野犬に腕を噛まれたとかで、妹さんと二人で湯治に出掛けているそうですわ」
「妹?」
「ええ、出戻りの方だとかで、随分と年の離れた、とても美しい方なんですって。可哀想に、唖だとかいう話を聞いたことがありますわ」
「……」
尚隆は眉根を寄せ、考え込むような表情になった。
その時、口よせの声が外で響いた。
軽業師が芸を見せるらしい。
「まあ、軽業ですって!」
文世が叫んだ。
尚隆は、紙入れから一朱銀を二枚取り出して、お新に渡した。
「おい、見て来いよ。俺はもう少しここで呑んでいるから…」
「こんなに! いいんですか?」
「小間物でもなんでも、欲しいものがあったら買え」
「まあ、有り難うございます! じゃ、文世様、琴路様、行きましょうか!」
「ええ!」
「ゆっくり見て来い。俺も暫くゆっくりするからな」
「はいっ! それじゃ…」
娘たちは、はしゃぎ乍ら外に出て行った。
独り残った尚隆は最後の銚子をあけると、そのまま行儀悪く手枕でごろんと畳の上にひっくり返った。
脳裡から消えないままの美凰の哀しげな、それでいて馥郁とした色香溢れる濡れた眼差しが鮮明に思い起こされた。
〔どうして、あんな風にしか言葉をかけてやれなかった? あの気性だ。俺の元を尋ねてくるには、余程の勇気がいったろうに…〕
突き上げてくる悔恨に、尚隆の気分は晴れなかった。
自分が冷たくあしらい、無視した為に美凰は今、戸田隼人と一刻を共に過ごしているのだ。
涼やかに品ある単に包まれた甘肌の香りが仄かに漂ったような気がして、尚隆はみぞおちの辺りで欲望が蛇のようにうねるのを感じた。
今の話では、美凰は相良以外に秋山周平、戸田隼人と二人もの男たちに求婚されているのだ。
その上、松平千太郎のこともあった。
〔意志の強い女だが、美凰の心は動揺している。狩野大介のことが忘れられずとも、このままではきっと誰かと一緒になってしまうだろう〕
はけ口のない嫉妬が、尚隆の胸を刺した。
その時、京訛りの女の声が尚隆の耳に響いてきた。
隣の座敷に入った二人連れらしかった。
先程から京の話を聞かされていたので、知らず知らずの内に耳が傾いた。
若い女と老人の声であった。
「…。そやかて、男はんは本質はそなんやおへんか? 自分は適当に女と遊んで、下手したら他所へ囲うて、いざほんまもんの嫁にいうたら汚れのない乙女やないといややて。それが男はんの本音なんでっしゃろ?」
「まあ、そういう奴もいるわな」
「女子の昔が、そんなに気になるもんでっしゃろか?」
「惚れていたら、問題はなかろうて」
その言葉に、尚隆はむくりと跳ね起きた。
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