すれ違う心 4
 一刻の後。
 羽織を包んだ風呂敷と夏野菜数品を手提げ籠に入れ、美凰は明神下の辰五郎の家を尋ねていた。
 結いたての高島田に薄い浅黄色のてがらをかけ、薄紫地に萩の花を散らした単をしっとりと着こなし、黒地に銀糸で萩の葉をあしらった粋な帯を固く締めた姿は大柄の美凰によく似合い、全体的には地味な装いだが妙に仇な、それでいてなまめかしい風情を醸し出していた。

「あのう、ごめんくださいまし」

 美凰は、玄関先の道で水まきをしていた若い衆におずおずと声をかけた。

「へい、なんでやんしょう?」

 若い衆は顔をあげ、ふわっと眼を見開いた。
 美凰の美しさに瞠目している様子であった。

「お忙しい所を恐れ入ります。わたくし、神保町の住まいます花總美凰と申しますが…」
「ああ、うちのお嬢さんのお師匠さんですね! こりゃあどうも! お世話になってやす」
「いいえ、こちらこそ…」
「どうぞお入りになっておくんなさい。お嬢さんに御用なんでやしょ? 今ちょっと取り込んでやすが、いらっしゃいますぜ。ささっ…」
「あっ、あのう、そうではないのです。こちらに小松家のご次男、尚隆さまがいらっしゃると聞き及びまして参りました。本日、ご在宅でいらっしゃいましょうか?」
「へえ? 若様にですかい? 失礼ですがお師匠さん、おめえさん、若様とはどういう?」

 若い衆の眼が、警戒するような光りを帯びている。

「はあ?」
「妙なお付き合いだったら、うちのお嬢さんの神経にまたまた触りますんでねえ。これ以上、お通しするわけにゃ、めえらねえんです!」

 どうやら、神田小町と謳われるお新も、尚隆に想いを寄せているらしい。
 美凰は溜息をついた。
 すると若い衆は声を顰め、困ったような表情で云った。

「今もお三人、若様に会いに来ている美人が奥にいるんですよ」
「えっ?」

〔どなたなのかしら?〕

 美凰はどきりとした。

「一人は、年の頃二十一、二歳ぐらいの、一目でたてひいているって判る粋な中年増で『尚様のお忘れ物を届けに参りました、お帰りになっていらっしゃいません? あら、おかしいわねえ、今朝早くに、帰るって起き出されたんですのよ。あたしもこういう商売だから、朝は弱くって…。それに寝かせてくれないんですもの、尚様ったら…、あら、いやだ! ほほほほっ!』なーんてもう、艶っぽいのなんのって!」

 胸に、針が刺さったような痛みがわいた。
 しかし、女好きな尚隆の事。
 自分の知らない数多の美女と色々なお付き合いがあってもおかしくはないし、何の関係もない自分がそれに腹を立てるというのも変だった。
 美凰の動揺を知るよしもなく、若者はしゃべり続けた。

「そんでもって、うちのお嬢さんが角だしてきんきん声になっていたら、お屋敷からのお使いとかで、うちのお嬢さんと同じくらいの年頃のおひい様とその御付きってな感じの方が居丈高にお越しで。こちらは何回目かなんですけどね、奇麗なんだが、随分と高慢ちきな女どもでねえ…」

 それは、綾と梶だろうと美凰は思った。
 だったら余計に、顔を合わせたくはなかった。

「然様でございますか。実を申しますと、わたくしの伯母が小松さまの乳母をしていたことがございますの。今日はわたくし、こちらの佐久間町に用事がございまして、その伯母に頼まれて若さま宛に夏野菜をお持ちしたのです」
「なあんだ、そうですかい! ならいいんでさあ。若様ねえ、今居ないんすけどその内帰ってめえりやすよ。もう三日も外泊されてんですから、そろそろ顔を見せると思いやす。ささっ、どうぞお入り下せえ」
「いいえ、わたくしはここで…」

 しかし美凰は無理やり、中へ引き入れられてしまった。

「お乳母様のお使いとありゃ、このままお返しするわけにゃいきません。おーい鶴吉兄い!またまた若様にお客様ですぜ」

 その声に、奥から小頭の半纏をまとった鶴吉と呼ばれるいなせな男が、二、三人の若者を先導にやって来た。
 歳のころは尚隆と同じくらいであろう。粋な江戸前の男っぷりであった。

「なんでえ、さぶ。奥は今、大変な、おっ!」

 若者たちは美凰の美しさに瞠目し、一瞬、言葉がとまってしまったが、たちまち好奇心を剥き出しにして美凰を見つめた。

「こりゃどうも! 今日はあまたの美人到来だが、一番最後の美人がすこぶるつきだね!」
「おおよ! すげえ別嬪じゃねえか! しかも若様好みの生弁天様とくらぁ!」
「ちげえねえやな!」

 男の視線に困った美凰は、鶴吉に向かって会釈した
 鶴吉の方も、吃驚した様子で美凰を見つめていた。

「あのう、小頭さまでいらっしゃいますか? 今もこちらの方に申し上げておりましたがわたくし、昔、小松さまの乳母を務めておりましたおはると申す者の姪で、神保町に住まいます花總美凰と申します。小松さまは…」
「へい、そのう、只今、留守でござんして。それに…」
「はい。お客様と伺いました。わたくしの方はたいした用件ではございませんので、お届けものさえおことづかりくだされば、このまま帰ります」
「お逢いにならなくって、宜しいんですかい?」
「はい。あの、かけても宜しゅうございますか?」
「こりゃあ、気づかねえことを! おい、誰かお茶をお持ちしねえか! ああ、それより座布団だ! いや、やっぱり座敷にあがって頂きやしょうか!」

 鶴吉はあたふたと若衆たちに命じ、一人で慌てていた。

「あのう…、ここで結構でございます」
「そっ、そうですかい。そいじゃあ…」

 さぶと呼ばれた若者が、置いた座布団の上に座ると、美凰は手提げ籠を置いた。
 中には、茄子だの胡瓜だの美味そうな旬の野菜がどっさり入っていた。

「ほうっ! こりゃ美味そうだ! さぞ重たかったでござんしょう!」
「どうぞ、皆様でお召し上がり下さいまし。それから、こちらは…」

 美凰は風呂敷包みを開け、仕立て直した羽織と詫びのつもりで縫った白絣の単を取り出した。

「故あって、わたくしが小松様のお羽織を駄目にしてしまいましたので、早急に仕立て上げてお持ち致しました。代わりという程に良い品物ではないのでございますが、どうぞお納め下さいませとお伝え頂けませんでしょうか」

 鶴吉は着物と羽織をしげしげ見つめ、いぶかしそうに云った。

「これは…、お逢いになられて直に渡された方が宜しいんじゃありやせんかね?」

 美凰は風呂敷を包み直し、鶴吉の方に押しやった。

「いいえ、宜しいんですの。おことづけ致し…」

 そこへ娘たちの金切り声が奥の方から聞こえてきて、ばたばたと足音が響いてきた。
 暖簾をくぐって、表玄関に出て来たのは綾と梶だった。
 上がり框に座っている美凰の姿を見て、綾は頬の辺りをぴくりと慄わせ、鷹揚に睨みつけてきた。
 ほっそりとした身体全体から、蔑みの色を放っている。
 だが、高貴な身分がはしたない真似だけはするまいといった雰囲気が見られた。
 侍女頭の梶の視線は、もっと凄まじかった。
 お嬢様の恋路を邪魔する者は、容赦しないといった風情である。
 しかし美凰には、そこまで感情剥き出しに睨みつけられる覚えがなかった。

〔なんという凄まじい視線! どうしてわたくしに? 尚隆様はわたくしのことなど蔑み、嫌っていらっしゃるのだから、何の心配もありはしないのに…〕

 戸惑い乍らもお辞儀をして挨拶しようとしたが、二人はつんとしたまま美凰を無視して履物を履いた。

「それでは若様のこと、くれぐれもお頼み申しますぞえ。尚隆様はこの綾様の大切な大切なお方なのですから。あまりお遊びなさらぬようにとお諌めするのもそなたたちのお務めですよ! 宜しいですね」

 梶は高慢ちきに、周りの者に云った。

「さあお嬢様、参りましょう。五日後に、屋敷で催される七夕祭りのお支度にかからねば。尚隆様もご出席あそばされてお嬢様とのお話、ご本家からのご意向が正式にお伝えされるのでございますからね。更にお美しい装いで、尚隆様をお迎え致さねば…」
「……」

 更に暖簾をくぐって、粋で仇な美貌の艶年増とお新が何事か言い争い乍ら現れて、全員の視線がそこへ釘付けになってしまった。
 神田小町と謳われるだけあって、お新の美貌は流石に優れたものであった。
 言い合っている相手は、一目で売れっ子芸者と判る、垢抜けて粋で華やかな雰囲気の女であった。

「きゃんきゃんうるさいお嬢さんだねえ、まったく…」
「なんだって! なにさ、とっととお帰りよ!」
「云われなくったって帰りますよ。尚様がいらっしゃらないんだったら、居座ったってしょうがないんだからね! ふん、なんだい! ああ、明神下の頭はあっぱれいい男さ。けど娘の方は、ものの道理ってもんがわかっちゃいないね!」
「二度と若様を、あんたんとこになんか行かさないから!」
「なに知った顔してんだい! ふん、お生憎様! 尚様はあたしに夢中なんだからね。おまいさんがいくら力んだって、所詮、男と女のことはなあーんにもわかんない箱入りじゃないか! ああ駄目さ、駄目さ! 尚様はね、もう小娘の尻を追っかけるような遊びはなさらないんだよ!」
「なんだって!」

 眦を吊り上げ、袂を振り上げたお新を慌ててとどめ乍ら鶴吉が云った。

「お嬢さん! いい加減になせえ。神保町のお師匠さんがお見えなんでござんすよ!」
「えっ!」

 美凰はおずおずと会釈をした。
 お新は美凰を見つめ、真っ赤になった。

「まあ、お師匠さん! どうしよう! こんな姿を見られちまって…」

 女の方も毒気をそがれたように瞬時、美凰を見つめていたが、やがて髪に手をやり衿元を正した。
 自分の美貌に自信のある女というものは、直感的にそれよりも上の女が現れるとどうにも対抗心を燃やすらしい。
 しかし美凰の優雅な美貌には、流石に驚きを隠せないまま敗北を噛み締めた様子であった。

「じゃ、あたしはこれで失礼致しますよ。鶴さん、尚様に宜しく! ごめんなさいましよ!」
 下駄をつっかけた女は、周りの男たちに艶然とした商売用の微笑みを投げかけると、女達にはつんとそっぽを向けたまま艶っぽくからころと音をたてて去っていった。
「梶、日本橋へ参りましょう。『山城屋』に新しい反物が入っていると思います。綾はそれが見たいわ」

 綾の透き通るように鷹揚な声に、梶ははっとなったらしい。

「はい、参りましょう。お嬢様…」

 気を取り直したように、綾と梶もつんと立ち去っていった。
 お新はその二人にも、向かっ腹らしい。
「三次、おもてに卯の花まいておきな!」と命じると、漸くほっとした様子でにこやかに美凰に挨拶をした。

「すみません、お師匠さん。お恥ずかしい所をお見せしちまって…」
「あっ、いいえ…」
「さっ、どうぞ奥へ。お前たちなにしてんだい? お師っ匠さんをこんな表先に座らせて。気が利かないったらありゃしない!」
「いいえ、わたくしがここでよいと云ったのです。どうぞお構いなく…」
「まあっ? それで、今日は一体?」
「あのう…」

 美凰が云いかけた時、表に塩を撒いていた三次がわあっと素っ頓狂な声を上げた。

「吃驚するじゃねえか! おっ、なあんだ、さぶけぇ…」
「なあんだはねえでやしょう! うわっぷ! しょっぺえっ! ひでえや、兄貴!」
「すまん、すまん。おめえがいきなり入ってくるとは思わなかったんでい。勘弁しな!」
「あーあ、漬物になっちまった。あっ! それよりも、騒ぎは収まりましたかい?」
「おうよ。今、お嬢さんに頼まれて、卯の花撒き散らしている所だ」
「良かった。若様ぁー! もう宜しゅうござんすぜぇー!」

 さぶは、ぶっかけられた塩を払い乍ら、斜向かいの店に手を振った。
 美凰はどきりとした。
 先程の女たちのやりとりから、ますます心は乱れた。
 逢わずにすむものなら、逢いたくなかったのに…。





「お師っ匠さん、ちょいと失礼しますよ!」

 お新は美凰の気も知らず、上がり框を飛び降りた。

「若様、帰って来なすったのかえ?」
「へえ、ほんのちょっと前にでげす。お屋敷のおひい様が帰ろうとなすった頃、おいら水撒きに戻ったら、向こうからご機嫌麗しく、ぶらぶらと…」
「もうっ! 人の気も知らないで!」
「呑気な若様だなあ…」

 三次は感心したように顎を撫でた。

「いや参った、参った! いま入ってこられちゃ、えれえ血みどろになるんじゃねえかと思って、そこの汁粉屋で暫く時間を潰して頂いてたんでやすよ」

 お新と三次は眼を丸くした。

「おめえも気が利くじゃねえか! しかし汁粉屋たぁ…」
「それが丁度、娘さん二人とご一緒でしたんで入ってもらいやすかったんでげす」
「なんですって!」

 お新の眦がきっと上がった。

「! また娘っ子かい? いい加減にして欲しいぜ、まったく!」

 三次は苦笑した。

「へえ、これがまた奇麗どころで可愛ゆらしい、十五、六ってえ所のお嬢様でして。あっ、おいでなすった!」
「はっはははは!」
「まあ、ほほほほっ! 面白いこと! ねえっ!」と笑い声が近づいて来た。

 お新は表に飛び出し、中に入ろうとしていた尚隆に食ってかかっている様子であった。

「…。そなたたちは中で待っていろ」
「はいっ!」

 きゃあきゃあ明るい笑い声と共に表から入って来たのは、浅草の縁日に出掛けた筈の文世と琴路であった。

「ふみさん! 琴路さん!」

 美凰は思わず立ち上がった。

「あら? お姉様! どうしてここに?」
「伯母様の名代ですよ。貴女こそ、どうして?」
「そこでばったりお逢いしたんです。琴路様の紹介をして、縁日に行くと申しあげましたらご一緒してくださるって! ねえっ!」
「ええ、そうなんですの。お汁粉まで御馳走してくださって!」

 二人ともすっかりはしゃいでいた。
 表からお新の喧々囂々の声が響いてきた。

「申し訳ありやせん。お師匠さん…。うちのお嬢さんはこう生一本で、鉄火娘だもんで、見境ってもんがねえんです」

 側にいた鶴吉が、ぺこりと頭を下げた。

「いいえ……」

 美凰は羨ましいと思った。

「そこで玉奴という芸者に逢いませんでした?」
「玉奴が? 来ていたのか?」
「とぼけて! えーえ! 来ていましたよ。忘れ物を届けにと、それもつまんない物!」
「忘れ物なんかしたかな? まあいい、今日は暑いな。冷たい瓜でもないかな?」

 かまわずにお新は続けた。

「では綾様には逢いませんでしたか?」
「綾も来ていたのか?」
「またまたおとぼけ! ええ。お着替えなんか持って来て『いつもお世話をかけますが、宜しく頼みおくぞえ』とまるで女房気取り…」
「お嬢さん、お屋敷じゃ奥方って云うんですぜ」

 横から三次が、すかさずちゃちゃを入れた。

「お黙り! 余計なことを云うんじゃないよ! ねえ、尚隆様!」
「相変わらず厄介な奴だ。まあいい、放っておけ」
「あーあ、もてもての若様が羨ましい!」

 三次とさぶの揶揄を笑い乍ら、中へ入って来た尚隆は素早く美凰の姿を認めた。
 立ち上がって深々とお辞儀をし、挨拶をしようとしたのだが冷たくじろりと一瞥をくれられた後は無視され、そっぽを向かれてしまった。
 美凰は、冷水を浴びせられた様な気がした。

「さぶ、すすぎの水を持ってきてくれぬか?」
「へいっ!」

 さぶは勢いよく駆け込んでいって盥に水を張り、抱えて戻って来ると尚隆の足を洗いだした。

「ねえお姉様。明日ね、尚隆様が市村座のお芝居に連れていって下さるんですって。それから上野の料亭で美味しいものを御馳走してくださるって!」

 美凰ははっとなって、笑顔を造った。

「そう、良かったわね…」
「だからお支度とかもあるし、琴路様、今宵うちにお泊まりしてもらっても宜しいでしょ?」
「ええ、構いませんよ。楽しんでいらっしゃい」
「良かった!」

 文世と琴路は、笑って顔を見合わせた。
 向こうでは尚隆が、お新に二人の紹介をしていた。

「このお嬢さんは俺の乳母の姪にあたる文世殿、こちらはその知り合いで京から来られた琴路殿だ。奥で休ませてやってもらえぬか。縁日に参ることになってな。お新、お前も一緒に行くだろう?」
「勿論ですよ。そいじゃ支度しなきゃあ! あっ、そうだ若様、外は暑かったでしょう。麦湯を冷やしてあるんですよ。召し上がりなさいまし!」
「そうしよう。おい、二人とも上がらぬか? 一服してから縁日に行こう」
「はいっ! それじゃ、お姉様…」
「そいじゃ、あたしは支度を! 三次、奥へご案内を。それからお峰に云って、麦湯をお持ちして差し上げて!」
「へいっ! そいじゃ、お嬢様方…」

 二人は板の間にあがり、奥に導かれていった。
 お新もいそいそと奥へ入っていった。

「あっ、お嬢さん!」

 おいてけぼりのつんぼ桟敷にされてしまっている美凰の為に鶴吉が声をかけたが、お新は尚隆と出かけることと他の二人よりも美しく装うことで頭が一杯になっているようで、美凰のことなどすっかり忘れてしまっている様子であった。
 鶴吉は、後を追って奥に入ろうとしている尚隆に向かって声をかけた。

「若様っ!」
「なんだ? 鶴さん」
「こちらの方が、若様に御用がおありだとかで、ずっと待っておいでだったんですぜ!」

 尚隆は美凰をちらりと見た。

「なんだ?」

 冷たい眼だった。
 その視線に美凰は狼狽し、しどろもどろになってしまった。

「あの、あの、わたくし…、あなたさまのお羽織を…」
「あの羽織は捨てたものだ。もういらぬ。そちらで適当に処分してくれればよい。気の利かぬ事をするな!」

 切り捨てるような、冷たい云い方であった。
 美凰は二の句が告げずに俯いた。

「若様! そんな仰しゃりようはないでやしょう! こちらの方は…」

 尚隆は鶴吉を無視し、苛々した口調で美凰を促した。

「まだ何かあるのか?」
「…。いいえ、失礼致しました…」

 慄える手が風呂敷包みを掴んだ。

「妹たちのこと、宜しくお願い…」
「あっ、若様! お待ちなせえ!」

 鶴吉の声に顔をあげると、尚隆はもう奥へ入ってしまっていた。
 挨拶も聞いていなかったらしい。

「……」

 呆然としている美凰に、鶴吉は首を傾げ乍ら謝った。

「お師匠さん、すまねえ。一体全体どうなさっちまったのか、いつもはあんな態度を見せる方じゃあねえんだが…。それにうちのお嬢さんまで、大変失礼な態度を…」
「…。いいえ、かまいませんのよ。もう、宜しいんですの。どうもすみませんでした。お野菜は皆様で召し上がってください。失礼致します…」
「あっ、お師匠さん! お待ちくだせえ!」

 引き止めようとする鶴吉に精一杯の笑みを浮かべて挨拶をした後、風呂敷包みを持って辰五郎の家を飛び出した美凰は表通りを小走りに走り、気が付くと佐久間町の河岸まで来ていた。

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