まぼろし 1
 生まれて初めて…、女に心を奪われた…。
 彼女の名前は花總美凰。
 俺より六歳年下の、十八歳だった。

 甘い言葉で言うのなら、俺にとっての遅咲きの初恋というやつだ。
 最初はいつもと同じ、軽い遊びのつもりだった。
 彼女の類稀な美貌に心を奪われ、穢れを知らぬお嬢様然とした柔らかな身体を欲した。
 だが純情可憐な彼女に、俺の百戦錬磨の手練手管は全くと言っていい程に通じなかった。
 心を捧げねば、こちらの手の中に落ちる気はないのだという事を理解した俺は、相当に気が狂っていたに違いない。
 五年経った今なら、冷静にそう考える事が出来る。
 俺を捨てて男と消えたお袋に対して開き、傷つけられた心。
 頑なに閉じたその心を曝け出した瞬間、俺は再び裏切られたのだ。
 白薔薇の様に清純な乙女のふりをして、俺を天国から地獄へと叩き落した悪魔の様な女…。
 もうこれ以上、壊れる事はないと思っていた俺の心を粉々に打ち砕いた女…。
 狂気の淵に追いやられるであろうと判っているのに、求めずには居られなかった、まぼろしの女…。

〔五年経った今でも、お前はなぜ美しい? いや…、あの頃以上に美しい?! 何の穢れも知らぬ顔をして…〕

 情事の汚れを清めて身支度を整え終えた俺は、自分の手の中で柔らかな微笑を浮かべてこちらを見返す花顔をじっと見つめた…。



「…、随分…、念入りなシャワーだったわね?」
「……」

 背後から気怠そうな声が耳に飛び込んできた。
 俺はちっと軽く舌打ちしながら美凰の写真を背広の胸ポケットにさっとしまった。
 どうやら早々と目を覚ましたらしい。
 女が眠っている間に出て行くつもりだったのに…。

〔何の為にあれほど手間をかけたと思っている? この淫乱めが!〕

 苦々しく思っていると、ベッドから下りた女が未だ余韻の覚めやらぬ表情で俺の身体に裸体を押しつけ、たった今、締めたばかりのネクタイを緩めにかかった。

「よせ、瑠璃! これから予定があると言っただろう」

 うるさげにその手を振り払うと、葉山瑠璃は口の端を上げて妖艶に笑ってみせた。

「その科白は聞き飽きたわ。でも…、どうやら『今日の予定』は特別のようね?」
「特別? …、何がだ?」

 何気ない風を装って訊き返す。
 俺の心の内など知る筈のない女の口から漏れた、意味深な科白。

「…、Desireの香りが強すぎるもの。終わった後に身体中ボディーソープで磨き上げた上、オーデトワレまで…、そこまでしてあたしの痕跡を消そうとした事なんか、今までなかったじゃない…」
「……」


 確かに…。
 だが、今日は事情が違う。
 今日は俺にとって、大切な…。

〔大切?! 何を言っているんだ、俺は?! 俺は俺を取り戻す為に、あの女と再会する! そして、俺を裏切ったあの女への復讐を開始するのだ…〕

 その為の準備は完璧に整っている。
 親の借金塗れであるあの女に、俺から逃れる術は無い。
 俺の気の済むまで復讐を遂げさせて貰う、記念すべきスタートの日なのだ。
 そのスタートに、きちんとした禊をして何が悪い?!
 お前の淫らな残滓を纏ったまま、あの女の前に立つわけにはいかないのだ!

「夕方から大事な商談があるんでな。流石に女物の香水を染み込ませた身体のままでは体裁が悪いだろう?」

 取ってつけた様な理由をさらりと述べる。

「どうせ別の女とでも会うつもりなんでしょ?」

 即座に切り返され、言葉に詰まった。

「……」

 どうして『女』という生き物はこうも鋭いのか。
 この女の想像しているような内容は伴わなくとも、たしかにその科白に間違いはない。

〔たかだかニ、三ヶ月の間、関係を持っただけだというのに…、俺の事を我が物顔でこんな科白を口にするとはな! もう少し楽しませてくれる女だと思ったが、そろそろ切れ頃という事か…〕

「沢田万里子の事は知ってるのよ! いくら貴方が世界屈指の大金持ちでイイ男だからって、売れっ子モデルと売れっ子女優の二股かけるなんて随分じゃない?!」
「君がそれを言うのか?」

 我知らず、俺は皮肉な言葉を投げつけていた。
 僅かに瑠璃の美しい顔が歪む。
 だがそれはほんの一瞬。
 数秒後には、すぐにいつも通りの涼しげな顔を取り繕っていた。

「あの人と貴方とでは意味が違うわ!」
「何が違う? 金で買われている身は同じじゃないのか?」
「あの人とあたしはGive−and−takeの関係でしかないもの。モデルから女優への飛躍に必要な取り引きだったのよ! でなければ誰があんな狒々爺の相手なんかするものですか!」
「……」


 嘗て別れた妻も同じような事を言っていた。
 勝ち誇ったような女の物言いが滑稽に思える。
 瑠璃の言葉を借りれば俺達の関係こそ、まさにGive−and−takeでしかない。
 俺はこの女の身体を味わってみたくて声をかけた。
 無論、自分のセックスアピールには自信がある。
 その上、小松財閥の名を掲げれば、瑠璃が小松の傘下であるFテレビの重役と手を切って俺に靡くのは至極当然な事なのだ。
 俺はくつくつと笑った。

〔美凰も同じだ。女は皆同じだ…。所詮は金のある男に靡く。そして男と女にはSEXしか存在しない…〕

「生活を保証して貰い、野望を叶える為にその狒々爺や俺に喜んでその綺麗な脚を開いてきたんだろうが?! 君達は娼婦以上に金のかかる面倒臭い女達だ…」

 そう言い終わるや否や、乾いた音と同時に頬に痛みが走った。
 瑠璃は肩を震わせたまま下唇を噛み、俺を激しく睨みつけている。
 実の所、この程度のことで怒りなど全く湧いてこなかったが、俺はわざと冷徹な表情を作って瑠璃を見つめ返した。
 このまま女を怒らせた方が好都合の様な気がしたのだ。
 だが予想に反し、事は思惑通りにはいかなかった。

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