白衣の人 3
「おいし〜い!」

 要は大阪城を目前に見おろす高級ホテルのランチに満足した様子で、デザートのアイスクリームを頬張っていた。

「本当に申し訳ありません…。要ったら相変わらずお肉もお魚も少ししか食べれなくて…」
「まあ、その分野菜が大好きなのだから、よしとしましょう。まったく食べる事が出来ないわけでもなし…。今は要君より貴女が心配だな。ムニエルを少しとスープしか口にしていないじゃありませんか。やはり、真っ直ぐ送った方が良かったかな?」

 驍宗の後悔している声に、美凰は慌ててデザートのショートケーキにフォークを入れた。

「いいえ…。ここのショートケーキ、わたくしの好物ですの」

 そう言いながら、美凰は紅茶に少しだけ砂糖とクリームを入れ、スプーンでかき混ぜた。

「珍しいですね。砂糖を入れるなんて…」

 ブラックのままコーヒーカップに口をつける驍宗に声を掛けられ、美凰ははっとなった。

「少し…、甘いものを口にしたくて…」
「ケーキの追加を言いましょうか? ここのケーキはなかなかだと看護婦たちが言ってたが…」

 美凰は驚いて頸を振った。

「いいえ! そんな! ひとつで充分ですわ…」

 慌てた様子の美凰に、驍宗はくくっと笑った。

「別におねだりされてるとは思ってませんよ。例えケーキですら…。貴女はそういう意味ではわたしをかなり失望させてくれる、とても珍しい女性ですからね」

 美凰の顔が、驍宗の言葉の意味が解らないという色を刷く。
 この様子にももう慣れた。
 驍宗は口許を緩めて微笑んだ。
 大学病院第一外科随一の医者として、公私共に充実した生活を送る驍宗が唯一望んでいる女性が眼前の清楚な美女なのだ。
 彼女は未亡人だが、身持ちが固い。
 いや、とても結婚していた様な雰囲気すらない。
 ごく普通の乙女に見えるのだ。
 最初は見たこともない花の様なその美貌に心魅かれ、未亡人と聞いて一旦引いたものの、弟の疾患に係っている内にいつの間にか本気になってしまっていた。
 しかしいざモーションをかけてみても、美凰は驍宗を弟の主治医以上の存在にはなかなか見てくれず、彼としては余裕の仮面の下で悶々とした日々を過ごしていた。
 聞けば彼女は、皇族の血を引く日本でも高名な画家の令嬢だったが、亡くなった父親の多額の借金の為に家屋敷や財産を処分したものの、まだ負の遺産が残っているのだという。
 弟が心臓に持病を持ち、自らももう一度手術を受けるべき傷を背負っている上、彼女は…。
 二、三千万程度の事なら、自分にも今すぐ何とかしてやれる…。
 だが金を餌に結婚を迫るような事はしたくない…。
 驍宗はそう考えていた。



「やあ! 奇遇だな? 花總君」

 要が驍宗のデザートのチョコレートケーキを貰い、美凰がショートケーキをやっと半分食べた時、背後から声を掛けられた。
 振り返ると、カジュアルだがとても高価そうな服装をした尚隆が雑誌のグラビアモデルの様な素晴らしい美女と腕を組んで立っていた。

「あっ!」

 どうして彼がここに居るのだろう?
 しかもあの女優の様に美しい女性は誰?

「あの…」
「今、ゴルフの帰りなんだ。そちらは? デートかね?」

 美凰は立ち上がり、尚隆と連れの女性に向かって丁寧に頭を下げた。

「あの、こちらは弟の主治医でいらっしゃいますの。乍先生、こちらは…」

 尚隆は驍宗に向かって軽く会釈をした。

「小松尚隆…、花總君には秘書をしてもらってます」

 秘書? いつからそういう事になったのだろう。
 月曜日からの職場とは、尚隆の秘書という事なのだろうか?
 驍宗は礼儀正しく、椅子を引いて立ち上がった。

「乍驍宗です」

 尚隆の片眉が上がった。

「間違っていたら失礼。阪大医学部のドクターですか? 心臓疾患の世界的名医でいらっしゃる?」
「名医かどうかは…」
「いや、これは驚いた! うちの秘書がこんな有名なドクターを主治医にしているとは…」

 美凰を莫迦にしたようなニュアンスにも取れる、些か尊大な物言いに驍宗の眉根が寄った。

「尚隆、早く行きましょうよ。お食事時間、終わっちゃうわ」
「焦るな万里子。レストランが駄目ならルームサービスがあるだろう?!」

 尚隆の腕にぶら下がっている美女は、驍宗に艶冶な流し目を呉れながら甘い声で催促している。

「では失礼。花總君、昨夜は具合が悪そうな様子だったんだから、デートも程々にな。遊びすぎて月曜日に会社を休むなんて言語道断だぞ?!」

 尚隆の口許は笑っていたが、双眸はどす黒い光に満ち満ちていた。
 二人が去った後、美凰はぐったりと椅子に腰を下ろした。

「随分と失礼な人ですね。あの人が美凰さんの上司なんですか? 小松尚隆…、どこかで聞いたことがある名前だな…」
「乍先生…、わたくし少し気分が…。ちょっとだけ要を…」
「あっ、姉さま!」

 そう言うと美凰は、バッグを持って慌しく化粧室に向かった。
 胸がむかむかし、頭痛もし始めている。
 美凰は洗面台で激しく嘔吐した。
 嫉妬で胸が痛い…。

〔あの人は昨日わたくしを抱いておきながら、今日は違う女性と過ごしている…〕

 哀しくて苦しくて、涙が零れた。

〔嫉妬なんかしたって仕方ないのに…。愛してないと言われたのよ。いい加減に眼を醒まして現実を見なければ駄目…〕

 美凰は口を漱ぎ、化粧を簡単に直すと、ほっと息をついて化粧室を出た。
 途端に観葉植物の間から伸びてきた腕に掴まえられ、美凰は悲鳴をあげる前にテレフォンボックスの窪みに引っ張り込まれた。

「随分いい男だな? 弟の主治医とやらは?」
「いっ…、痛いわ…」

 腕を捩り上げているのは尚隆だった。

「やけに親密そうな素振りだったじゃないか? えっ? あいつとはもう寝たのか?」

 美凰は真っ赤になって身もがきした。

「なにを仰っていらっしゃるの? 変な事を考えないでください。そんな事する筈がないじゃありませんか! あの方は弟の…」
「あの男の眼はお前が欲しくて仕方がないという眼だ! 解らんのか!?」
「離してくださいっ! お連れの女性が、あなたを探していらっしゃるでしょうに…」
「万里子なら上のスイートだ。今頃はシャワーを浴びて俺が来るのを待ち焦がれているだろうさ」

 美凰の身体がわなわな慄える様子が面白いらしく、尚隆はくつくつ笑った。

「ほう? 嫉妬か?!」
「あっ、あなたは昨日わたくしを…、それなのに今日は他の女性と…」
「悪いか? 俺は自他共に認める女好きだ。毎日抱かないと気がすまんのでな。第一、君は昨夜から使用禁止だろう? だったら他の女で用を足すしかないじゃないか!」

 なんて恐ろしい事を口にするのだろう。
 羞かしさの余り、美凰は気が遠くなりそうだった。

「……」
「それとも、抱いて欲しいと言うのなら考えてやってもいいが? 俺としては別に…、君の具合の事は気にせんぞ」
「やめてっ! 変な事を仰らないで!」

 美凰は尚隆の手を振り切った。

「それにしても相変わらずだな。肝心な時に月経になるなんて…。5年前のあの時も案外、俺に結婚を迫らせるためにわざと薬を飲み忘れたんじゃないのか?!」
「ひどい…。なんて事を…」

 もう限界だった。
 あの日の真心まで疑われ、莫迦にされたのだ。
 これ以上我慢する事も、泣き寝入りするいわれもない。
 確かに尚隆を裏切って他の男性と結婚した。
 仕方ない事情といえばそれまでだったが、彼だって美凰の事情を何一つ理解してくれなかったではないか。
 美凰はあの日、海外勤務の許可がおりてニューヨーク転勤が決まった尚隆と駆け落ちする為に成田空港へ向かおうとした矢先、引きとめようともみ合った両親を巻き込んで交通事故にあい、重傷を負ったのだ。
 10日間、死線を彷徨った末、漸く意識が戻った時は、両親の死亡と自らは恐ろしい傷を身体におっている事実を知った。
 哀しみと悔恨の中、動けるようになって美凰が最初にしたことは尚隆へ連絡を取る事だった。
 事情を話せば彼はきっと解ってくれる…。
 その想いが報われる事はついになかった。
 待ち合わせの場所に来ず、何度携帯に電話しても繋がらない美凰に裏切られたと思い込んだ尚隆は単身、ニューヨークに旅立った挙句、現地で知り合って間もない女性と結婚したと言うのだ。
 乳母の春からそう聞かされ、何度死んでしまいたいと思った事だろう。
 動かない手で必死になって手紙を書き、何度も春に投函を頼んだ。
 その手紙にさえ、返事は一通たりともなかったのだ…。
 やがて美凰は、尚隆に捨てられた事実を受け入れた。
 現実社会の苦労がお嬢様育ちの美凰を次々と襲い、突然家長になってしまった責任と弟妹を護ってやらなければならない状況に、感傷に浸っている余裕などなかったのである。
 父が連帯保証人となっていた莫大な借金、家屋敷と遺産の殆どを差し押さえられ、借金返済の為にことごとく売り払った美術品、芸術品の売買金の半分以上は仲介人に持ち逃げされた。
 彼は長年、父に仕えていた、とても信頼していた男だった…。
 幸い借金の債権者は父とじっこんの間柄だった美凰もよく知る老美術商だったので、切り詰めた生活を送り、何年かかろうが日々こつこつ返せばなんとかなりそうであった。
 心はともかく、少しずつ健康を取り戻した美凰は、乳母に大反対されつつ慣れないながらも、職業安定所で紹介された小さな会社の事務員として働き始めた。
 その矢先、要の心臓疾患が判明したのだ。
 両親の保険金は殆ど使い果たし、僅かな蓄えも底を尽きかけている。
 切羽詰った美凰には、もう自分の身体と『雪月花』しか残っていなかった。
 父の遺作でもあり、尚隆を愛していると高らかに宣言した頃の、輝くばかりの姿が描かれた『雪月花』。
 愛する人に誤解され、捨てられてもなお未練がましく、尚隆を愛し続けている自分が情けなかったが、『雪月花』だけはどうしても手離せずにいた。
 元々、この絵は彼に贈るつもりでいたのだから…。
 やがて、美凰の苦労を見かねた彼女の雇い主が、結婚を申し出た。
 妻に先立たれた寂しく優しく、そして心穏やかな男性だったが、彼は癌で余命が一年あまりと宣告されていたのだ。
 彼の条件は唯一つ。彼の血を引く子供を産む事。
 それが叶うなら、遺産は総て美凰と子供に遺すと…。
 美凰にしてみれば、尚隆との恋が終わった以上、誰と結婚しても一緒だった。
 ただ…。
 結婚したものの、夫の希望は叶う事なく美凰は彼の死を懸命に看取ってやる事しか出来なかったのだ…。

_19/95
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