白衣の人 1
 翌日の土曜日は要の定期健診の日だった。
 熱の下がりきっていない身体にも係らず、美凰は弟を伴ってかかりつけの大学病院に向かった。
 梅雨も明けた都心は蒸し蒸しした暑さに満ちている。

「姉さま、はやくはやくっ!」

 要は美凰の手を引っ張って電車を降りると、彼女を急かしながらどんどん進んでゆく。
 心臓に持病を抱えているというのに、大好きな主治医の許を訪ねる時は特に元気なのだ。
 本当に病を抱えているのか疑問に思う一時である。

「待って、要…。そんなにはしゃいだら、また発作が…」
「大丈夫だよ…、あっ」

 要は黒々とした瞳で姉を見上げた。

「姉さま、やっぱり苦しいの? なんだかとても辛そうだよ?」

 美凰は大学病院の入口に漸くたどり着くと、日傘を畳みながら弟を見おろし、にっこり微笑んだ。

「いいえ、大丈夫よ。少し…、暑いだけ…」
「ほんとに? だって昨日遅かったんでしょ? ばあやがおかんむりだったもの。それに朝ごはんだって食べてないよ? やっぱり具合が悪いんだ…」

 要の心配そうな問いかけに、美凰は静かに頸を振った。
 結局、尚隆に送られて12時前に帰宅した美凰は、心配して待っていた春に散々叱られた。
 早く独りになりたかった彼女は勢い込んで問い詰めてくる乳母を適当にあしらい、そそくさと浴室を使った後に、もう一度解熱剤を嚥むと、既に夢の中の弟の隣に身を横たえた。
 熱と下腹部の痛み、そして、ひき裂かれるような心の痛みに一晩中涙を流し続け、そうしていつの間にか、眠りに落ちていたのである。



「ふぅ…。要、少しだけ、涼ませてね…」
「うん。休んで、休んで!」

 美凰は広々とした美しい待合ロビーの椅子に腰を下ろし、心地様い空調の風に一息つきながら吹き出る汗をハンカチで拭った。

「あらぁ〜 要ちゃんじゃないの〜!!!」

 そこへ、嬉しそうに声をかけてきたのは、第一外科の看護婦たちだった。
 要は頬を染めると、仲良しの美人看護婦達に挨拶をした。

「こんにちは!」
「こんにちは〜!!! そっか〜 定期健診だったね?! 今からなの?」
「はい!」

 三人の看護婦達はそれぞれ美凰に会釈し、そっと溜息をつくと、要を取り囲んで大騒ぎになった。
 彼女達は愛らしい要の大ファンなのだ。

「先生、お待ちかねよ! 要ちゃんの事も勿論だけど…、ねっ!」

 三人の看護婦達は目配せしながら美凰を見て、それぞれ羨ましそうに笑っていた。

「あ〜っと、残念! あたしたち、今からお昼なんだ〜 それじゃ、また後でね〜!!!」

 美凰と要が連れ立って歩き去ると、看護婦たちははぁ〜っと溜息をついてその後ろ姿を見送った。

「ありゃ〜 先生が夢中になるのも解るわよね〜 尋常な美人じゃないもん…」
「ほーんと。姉弟揃って超美人よねぇ〜」
「要ちゃんを美人ってのも、言葉の使い方間違ってない〜?!」
「ん〜 そーなんだけどねぇ〜」

 女達はきゃぴきゃぴ騒ぎながらランチに向かった。



 大学病院内でも心臓疾患治療の優秀な人材が揃う第一外科内で、最優秀の実力を誇る乍助教授が与えられている特別室を、美凰がノックしたのはそれから程なくである。

「どうぞ…」
「乍先生! こんにちは…」
「やあ、いらっしゃい!」

 ブランド物のワイシャツにネクタイ、その上から白衣をきっちり着こなして、一部の隙もない姿の助教授乍驍宗は、重厚な机から顔を上げ、扉を開けて入ってくる姉弟に向かってにっこり微笑んだ。
 韓国人の高名な医師を両親に持つ乍は、彫りの深い凛々しく秀麗な顔立ちで、看護婦達に人気があるのも頷ける。

「こんにちは。要君。今日は随分と元気そうだね?」
「はい。ぼくは元気です。今日はぼくより姉さまの方がお辛そうで…」

 乍は訝しげに、そして眩しげに美凰を見つめた。

「? どこか加減でも悪いのですか?」
「いいえ…」
「顔色がよくないな。だからですか? 昨日…、オリエンタルホテルに来てませんでしたね?」

 美凰は吃驚した様に美しい双眸を見開いた。

「乍先生、おいでになっていらっしゃいましたの?」
「ええ。貴女のピアノが聴けると思って、友人を誘って…」

 美凰は申し訳なさそうに項垂れた。

「それは大変申し訳ない事を…。昨日は会社が忙しくて残業が少し…。それに少し熱があって、臥せってしまいましたの」
「それはいけない! とにかく、おかけなさい」

 驍宗はそういうと美凰の手をとってソファーに座らせ、インターフォンで美凰と要にアイスティーとフレッシュジュースを持ってくるように頼んだ。

「まあ…。申し訳ありません」
「そうなの? 姉さま、お熱があるの?」

 美凰は慌てて要を見つめた。

「大丈夫よ。もう治ったもの…」

 美凰が弟に心配をかけまいとして無理をしているという事が、驍宗には解った。

「美凰さん、熱だけじゃなく背筋と腰椎の傷も痛むのでは?」

 流石に医者の眼はごまかせない。
 美凰はそっと頷いた。

「熱のせいですかしら? 少しだけ…」
「痛み止めは?」
「解熱剤は嚥みましたわ」

 驍宗はやれやれという顔をして、些か厳しい顔つきで彼女を見つめた。

「わたしは解熱剤の事は訊いていない。処方している痛み止めの事を言ってるんです」
「……」

 痛み止めにはあまり頼りたくないという事もあったが、処方されている薬はとても高い。
 美凰としては我慢すれば治まる痛みなのだから、要の医療費の事を考えれば自分の薬の為に無駄なお金を使いたくなかったのだ。
 黙って俯いている美凰の眼前に、錠剤と水が置かれた。
 高価な錠剤に狼狽した美凰が驍宗を見上げると、彼は腕組みをして溜息をついていた。
 美凰が倹約して痛みに堪えている事は、承知していると言わんばかりの様子である。

「自分は我慢すればいいなんて莫迦な考えは捨てる事だ。先日、第二外科で貴女のレントゲンを見せてもらったが、あれは酷い。貴女の身体はそれほど耐性には出来ていない筈だ。痛み出せば悶絶する程に苦しいだろうに…」

 美凰は驚いて驍宗を見つめた。

「わたくしのレントゲンを? 心臓外科ご担当の先生がどうして?」
「医者の特権というやつですよ。こそこそとストーカーまがいの事をしているわけではないからご心配なく…」

 そういうと驍宗はふっと笑った。
 成程、看護婦達が騒ぐ筈である。
 凛々しい笑みに美凰は顔を赤くした。

「……」
「兎に角、薬を嚥んだら要君の診察が終わるまで、ここでゆっくり休んでなさい」
「そうだよ、姉さま。ぼく頑張って診察早くすませちゃうから…。早く帰って横になって! だって早く治らないと、夏休みの計画が駄目になっちゃうもの!」

 美凰は呆れたように弟を見て微笑んだ。

「まあ、もう夏休みの心配なの? 大丈夫よ、今年は絶対に計画を実行するから…」

 驍宗は微笑ましい姉弟の様子を、特に可愛い弟の言いなりになって頷いている花の様な美貌の面差しを繁々と見つめていた。

「帰りは私の車で送ろう。それまでに気分が回復したらどこかで食事でもして…。どうだい? 要君?」
「乍先生とごはん? 本当に? うわーい。ぼくとっても嬉しいです!」

 美凰はいたたまれずに頸を振った。

「そんな…、先日も…」

 食事となると驍宗はいつも、高級ホテルのレストランに美凰たちを連れ出す。
 要のマナーは完璧なのでそういう気遣いはないのだが、いつもご馳走になってばかりの美凰としては身の竦む思いだったのだ。

「独りで食べるのは味気ないものだ。是非ご一緒して貰えたら有難いのだが…」

 遠慮している美凰に驍宗はさらりと言った。
 そんな風に言われると断りきれるものでない。

「いつも申し訳ありません…」
「では、後程…」

 驍宗は美凰が薬を嚥下するのを見届けると、要と連れ立って部屋を出て行った。

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