小説 | ナノ

32





掃除も、した。
片付けも、した。
ついでに部屋のインテリアも少し変えてみた。
空を見上げると、相変わらずのどんより雲なので、余分に洗濯する気は起きない。
明日から仕事なので、今日出来ることはやっておきたかった。



後は。
後は、そう。
本でも読むか。



ダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、珈琲を片手に本を読む。
静かな部屋に芳醇な香り。
至福の時間だ。



本は良い。
行ったことのない世界。
見たことのない国。
本を開けばどこにでも行ける気がする。
文字を読み進めていく中で、自分自身の頭の中に広がるその物語の情景をクリアに感じたとき、何とも言えない幸福感にとらわれる。
これだから、本はやめられない。
狭い部屋の中が本棚で埋め尽くされても、きっとやめられないだろう。



清正も本が好きだった。
図書館で借りた漢字が沢山羅列されている昔の本を良く読んでいる。
まぁ、世界は違えど、清正自身が昔の人なので、昔の本を読むのは至極当然なことなのだが。



私は、清正と二人で本を読んでいる時間が一番好きだ。
勿論、清正が入れてくれた珈琲を片手に、読書だけではなくその香りも楽しんでいた。
静閑な部屋に本をめくる音だけが、時折どこか遠慮がちに響く。
不意に本の世界から戻ってきた時、こんな感じ良いなと思う。
私のこんな感じ良いなというのは、イコール幸せだなと言う意味になるのだ。



清正と一緒に過ごして、二週間。
彼と私との間にある大きな壁のお陰で、辛いこと、悲しいこと、沢山あった。
けれど、それ以上に、それを打ち消す位に感じる幸福感に勝るものはない。
そう。
私は全く後悔していない。
出会えたことに後悔など、していない。
そうだ。
私は幸せだったのだ。
彼と巡り会えて幸せだった。



可笑しい。
何だか今日は酷く物思いに耽ってしまう。
清正はまだこの世界に存在していると言うのに。
この曇り空のせいかな。



それにしても清正が帰ってこない。
買い物にしては遅い。
朝のテレビ番組の天気予報では午後から雨だった。
傘を持って行かなかったけれど、大丈夫だろうか。



本に一区切りがついた所で、何となくゲーム機に目がついた。
自分でも何故だかわからない。
だけど、最近電源を入れていない。
その事に気付いた。



本を閉じ、まるで吸い寄せられる様にゲーム機の前に座る。
人差し指を電源ボタンに伸ばしたのは、ほぼ無意識に近かった。



ウィーン。
電源の入る音がした後、突然スイッチをつけていないテレビの画面から強い風がビューッと吹いた。
目を開けていられないほどの風と驚きを感じながら、体をずりずりと後退させる。



少し風が緩んだ感じがして、目を開け、ゆるりと画面に視線を向ける。



ああ。
そっか。
何となく感じていたのかな、私。
だから、こんなに今朝からぐるぐると物思いに耽ってしまったのかもしれない。



ガチャリ、と玄関の方で音が聞こえた。



今日だったんだ。



今日、だった。


今日がお別れ。


最期のお別れ。



あなたと私の。
最期の日。




私はひとつ深呼吸して心を落ち着かせた後、立ち上がった。
清正の着替えは、押入。
武器は、置くところがないので部屋にインテリアの様に飾ってあるから大丈夫。
直ぐに持って行ける。
取りあえず押し入れから、着替えを。
かなり重いので、慎重に。
それを床の上に並べる。
忘れ物は、ないよね。



床の上に置いた着替えを見ると、急に胸にこみ上げてきた。
清正が来てからの色んな事が。
もう、何と表現して良いのかわからない。



目頭に溜まる熱いものがこぼれて仕舞わないように我慢しながら、彼の着物を撫でた。



もう、帰るんだな。
あっちの世界に帰るんだ。




「……萌」




後ろ背で私を呼ぶ声が聞こえる。
振り返り、見上げると、清正。
この状況に驚いたのか、買い物袋を手から落としていた。




「お帰りの時間ですよ。
王子様」




テレビを指差して、努めて冷静に明るく、笑顔で言う。



指の先には空間が歪んだような、モザイクの世界がふわふわとテレビの前に広がり、浮かんでいる。




何でそんなに複雑そうな顔するの?
もう帰れるのに。
そんな顔しないで。
気持ちが揺らぎそうになるから。




「ほら、早く着替えて!
また帰れなくなっちゃうかもしれないから」




暫く呆然と画面を見つめいた清正が私の言葉で我に帰った様だった。



着替えを見ないように、清正に背を向けて正座する。



僅かな間の後、意図をわかってくれたのか、清正が着替える音が背中から聞こえた。


ブラックホールのようにただくるくると回っている空間が目の前に広がる。


この中に入れば。
私も行くことが出来るのだろうか?

清正と一緒に。
ずっと一緒にいることが出来るのだろうか。


今度は私が異質な存在になる。
この異質な空間は異質な私を受け入れてくれるだろうか。



右手の指を伸ばす、指の先が向こうの空間に少しずつ吸い込まれていく感覚。



私を受け入れてくれますか?



もう少し伸ばそうとしている腕を突然ぐいと引かれる。
直ぐ近くに真剣な銀色の瞳があった。




「やめろ。
……やめておけ」

「……そうだね」




そう、だよね。
当たり前だよね。
やめておく方が良いね。
現代の私じゃ、戦国の世でとても暮らしてはいけない。
それは清正も、私もわかっていること。



この腕に感じる温もりは、現実であっても現実ではないのだ。






私は立ち上がった。
清正も立ち上がった。



清正の後ろ背に異空間が広がっている。
どんどん大きくなっている。



私の前には、清正ではなくて、戦国武将の加藤清正がいる。
堂々としていて、凜々しくて。
胸がいっぱいになって……少しでも気を緩めると堪えていた涙が溢れそうになる。




「今までありがとう。
凄く楽しかったし……。
凄く。
凄く……凄く……」




そう。
幸せだった。
凄く幸せだった。




「清正と出逢えて良かった……。
本当に、良かった」




少し眉毛を下げて優しく温かく微笑む清正。



そう。
あなたのその微笑みに、どんなに癒されたか……。
どんなに救われたか。




「……ありがとう。
本当に……今までありがとう」




私に沢山の幸せをくれてありがとう。
大きなことも小さなことも沢山ありがとう。




「早く行って!
帰れなくなっちゃうかもしれないから。
ほら、ね?」




ああ。
どうして。
抑えよう、抑えようとするのに胸に上がってくる熱いものがおさえされない。



馬鹿。
笑顔でいなきゃ。
笑顔でお別れしなきゃ。
出来るでしょ?
大人なんだから。




「萌……」




目に溜まりに溜まった涙のせいで、清正がまるで水の中にいるみたいにゆらゆらしている。
最期にこの目にしっかりと焼き付けておきたいのに。
それも出来ない。




「どうか、元気でね?
ずっと……。
ずっと……元気で……っ」




一筋涙が流れる感覚があった。



あぁ。
駄目だ。
どうして、我慢が利かないのよ。
ここまで、頑張ったのに何で泣いちゃうのよ。



急いで後ろを向く。
涙なんて見せたくなかった。


だって、情けないじゃない。
ここで泣いたら女が廃る。
格好良く送り出してあげたいのよ。
気持ちよく送り出してあげたいのよ。
それが最期の強がりなの。


行かないでって。
連れて行ってって。


そう、縋れない。
切ない、悲しい、無意味な強がり。



一度こぼれた涙はもう止まることを知らない。
意識とは関係なく次々溢れていく。




「早く行って?
お願い……」




両手で顔を覆っていると、刹那、ふわりと温もりに包まれる。




「……萌。
ありがとう。
今まで、ありがとう」




愛おしい人の香りに包まれる。
大好きな珈琲よりも好きな香り。




「お前と過ごした時。
これからずっと忘れない。
何があっても……。
ずっと……」




私も、忘れない。
清正と過ごした時間。
これから何があってもずっと。
忘れない。



そう、言いたいのに。
もうだめ。
嗚咽しか出ない。




「……俺は。
俺は……お前を……。
お前を……」




……私は。
私は、あなたを……。
誰よりも。
何よりも。



温もりが離れていく。
その瞬間、後ろ背から私を抱きしめていた清正の長い指がゆっくりと動いた。
指はもう殆ど透き通ってしまっていたけれど、彼の指が力強く指し示すその先には、美しい紅色の薔薇の花束が置いてあった。



綺麗。
とても綺麗。




愛してる。




瞬間。
耳元でそう、低い声が聞こえた。
温もりは消えてしまった。
耳に彼の声が残っている。




好きとか。
大好きとか。
そんな言葉じゃ足りない。
もっと深い。
もっと大切な言葉。




「……私も、愛してる。
清正……」




がくり、と体が崩れ落ちた。
彼は行ってしまった。



もう、我慢しなくて良い。
いっぱい泣いて良いんだ。
いっぱい泣いて良いんだよ。
萌。
大好きな人だったんだから。
しょうがない。
しょうがないさ。




「愛してる……っ……。
ふっ……うぅ……」




止めどなく流れる涙と一緒にいつの間にか降り出した雨の音が重なる。
紅色の薔薇が、彼の想いを代弁するようにいつまでも強く香っていた。

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