アヤカシあかし | ナノ


▼ その妖は赤く、星を降らす。

日本の美を堪能しよう。そんな軽い気持ちで紅葉を見に来たのが間違いだった。人気(ひとけ)の無い雑木林をひた走りながら、私は自分の軽率な行動を後悔する。後悔はしても振り返らない。走って、走って、林を一目散に駆け抜ける。

「久々ノ獲物ダ!食ワセロォオォ!」
「悪霊退散!はぁ…はぁ…たいさーん!」

妖怪。それはこの世に確かに存在している異形の一つ。見えない人間が多いだけで、それは無数の形で生を形成している。その証拠に、私は現在進行形で邪気を持った妖に追われていた。
黒くて大きな靄に目を付けた形相で、風の様に移動するそれは今にも私を食おうとしている。どうしてこうなった。


一体どれだけ走っただろう。観光の為電車を乗り継いでここまで来た紅葉スポットは広くて迷子になりそうだ。ああ、やっぱりどこかの小さい公園とかにしておけば良かった。自然が織りなす赤い芸術を見てやろうなんて息巻いてこんなところに来たから、私はこうして妖怪に追いかけられて林の中を彷徨う事になったのだ。段々と遠のく黒い靄を視界に入れつつ足をひたすら動かして、私はようやく妖怪を撒くことに成功した。

足を止め、膝に手をついて息を整える。足元の落ち葉が木漏れ日に照らされ光っている様はやはり美しくて、ここを選んだのは間違いでは無かったという気になる私は現金な人間です。
目線の先は、より日差しが木々の合間から差している。そこへ歩いて先へ進めば、少し開かれた場所に出た。

「…、はあ…!」

開けた先があまりにも綺麗で、驚いた。真ん中の立派な楓の木を中心に、緑、黄、赤、色取り取り落ち葉の絨毯が広がっている。葉は不規則に、ゆっくりと落ち続け、絨毯を埋める。ここだけ平安時代で時が止まっているかのように静かな空間だった。

息を飲んだまま、楓の木に目を向ける。見上げる程大きな幹の下、はらり、はらりと落ちていく楓の葉の先には、

妖が。


赤い髪に、雅やかな着物を着た狐の妖怪が、木にもたれ掛るように眠っていた。





私、苗字名前の家は由緒正しき祓い屋一族だった。生まれてくる子供は皆祓い屋としての何かしらの才に恵まれ、例に漏れず私も妖力という才を持って生まれた。類稀なる、一族でも滅多に見ない膨大な妖気を抱え生まれた私は、あれよという間に大人達に囲い込まれ、蝶よ花よと祓い屋としての英才教育を叩き込まれた。しかし、英才教育で施される筈だった術力の才が、私には皆無であった。

ところで、優秀な祓い屋とは如何なるものだろうか。その説明をするには、妖力と術力について説明しなければならないだろう。
お祓いをハードル走に例えるなら、妖力は体力、術力はジャンプの技術だ。私はトラックを延々走り続けられる持久力はあったが、ハードルを30cmだって飛び越えられた事は無かった。お祓いをバレーボールに例えてみても、私は延々ネットを飛び続け、腕を振り続ける事は出来ても、スパイクを決める技術は見に付かなかった。
優秀なスポーツ選手とは、体力と技術、両方揃って始めてその真価を発揮する。どちらかが卓越していても、もう片方がポンコツでは何の役にも立たないのだ。

そう、長々と話してしまったが、要は私は祓い屋業界の落ちこぼれだったのである。

だが、話はこれで終わらない。落ちこぼれのポンコツだと知った後も、私を囲い込んだ大人達が「はい、そうですか」で終わらせる筈も無く。祓い屋界隈では千年に一人の逸材だと持て囃された私は(まぁ妖力に於いては実際そうなのだろう)、何とか少しの術力だけでも会得させんと、あれやこれや言い包めて私を部屋に閉じ込め、教育し続けた。…し続けた結果、グレた。

「やってられっかーーー!!」

もう嫌だやりたく無い私も普通の女の子みたいな生活がしたい!散々駄々をこね引き篭もり続けた小学6年生、ようやく折れた大人達に名門帝光中に入れたら自由にさせてやると言われ、死ぬ程勉強して見事合格した。まさか本当に合格してしまうとは思っても見なかったのだろう。大人達は渋々と言った様子で帝光中の近くにアパートを借りてくれ、ついに一人暮らしを許してくれた。

こうして、京都から遥々東京へ逃げて来た私は、悠々自適なスローライフを送っていたのであった。





紅の葉が、ひらりと彼の胸元へ落ちた。

赤い髪、黒檀の着物に蘇芳(すおう)色の羽織。淡黄の耳と尾は狐のそれだ。まさか。飲んだ息を絞り出すように独り呟いた。

「せきこ…?」

赤孤。それはその名の通り赤い狐の妖の事だ。しかし祓い屋界隈で赤孤と言えば、主に彼を指して言う言葉である。

大妖怪、アカシ。

この道の人だけでなく、一般人でさえ知らないものは無い、妖怪の長とも呼ばれる最強の妖。それがアカシである。

私は恐る恐る彼に近付いた。狐の耳としっぽもちゃんと付いている。アカシかどうかはともかく、少なくとも赤孤である事は間違いない。それだけでも結構珍しい妖だ。
彼はすっかり弱った様子で小さな呼吸を繰り返していた。そういえば、アカシがもうすぐ寿命を迎えるという話をお祖母様から聞いた事がある。その時聞いたのは確か「アカシの尾が九本から二本にまで減っている」という話だった。妖狐の尾は力の象徴なので、アカシは弱っているんだなーこれからアカシ捕獲争奪戦になったりするのかなー勉強怠いなーなんて考えていたっけ。
しかし目の前の彼は二本どころか一本しか尾が生えていない。それどころか今まさに寿命を迎えようとしている真っ只中ではないか?彼の妖力は風前の灯で、気配を消して静かな場所で目を閉じている。いつか祓妖学(ふつようがく)の教科書で見た『妖が寿命を迎える際に行う行動』にそっくりだ。

実際に妖が寿命を迎える瞬間を見るのは初めての経験だった。しかもそれがあの大妖怪アカシかもしれないなんて、私は歴史的瞬間を目撃しているのかもしれない。気付かれない様にそーっと彼に近付いてみる。

しゃり、しゃり、と紅葉を踏む音が響いて、その音に気付いた彼がゆっくりと目を開いた。

「…誰だ。」
「!あの、私は」

はぁ、と短い溜息を吐いて、彼はぼうっとした様子で細い声を上げた。

「悪いが、僕はもうすぐ消える。今まで散々追い回して来ただろう、最後くらいは静かに逝かせてくれ。」
「えっと」
「何なら、僕が消えたらこの羽織をくれてやろう。何の苦労も無く“コレ”が手に入るんだ。今ここで僕と遊んでお互い寿命を減らすより利口だと思うが?」

そういって、彼は羽織の襟をつまんでか細く笑った。落ち着いた蘇芳色の生地に金の刺繍で花や鳥が描かれるそれは、この業界で言うところの『アカシの羽織』という代物で、羽織ればどんな邪気も払ってくれるという強力な妖具の一つだ。実家に持ち帰れば泣いて喜ばれそうだが、生憎そんなものに興味は無い。それよりも、私にはさっきから気になっている事があった。

(やばい、だんだん邪気が近付いてきている。)

先程の黒い靄の妖怪が、段々とこちらに近付いている気配がする。まだここまで来るのに時間は掛かりそうだが、悠長な事を言っている程の時間も無さそうだ。どうやらアカシもそれに気付いたようで、重苦しい溜息を吐いて項垂れている。

「人がゆっくり寝ているというのに、どうしてこうも騒がしいものかな。」
「あの、貴方、大妖怪のアカシだよね。あの黒靄追い払えない?」
「今の僕では無理だ。払うどころか、碌に動く事すら出来ない。」
「…っ、そう。」

動けないと言うアカシがこんなに悠長にしていられるのは羽織があるからだ。私には無い。じゃあ逃げるか?いや、帰り道も分からない中で走り回ったっていずれ捕まってしまう。なら私に残された道は一つ。この妖を説得して黒靄を倒してもらう、それしかない。

「ねぇ、お願い。私の妖力使っていいからあの妖怪追い払って。」
「嫌だ。自分で祓えばいいだろう。見たところ相当な妖力を持っているみたいじゃないか。」
「出来たらとっくにやってるよ。」
「僕は人に甘えている人間は嫌いだ。それだけの妖力を持っていながら、無防備にこんな所を歩き回ればどうなるかぐらい分かるだろう。」
「違う。ちゃんと数珠は持っていた。けど落とした。」

強い妖力を持つ者はそれだけ妖怪から狙われる。強い奴を食えばそれだけ妖力が増え、寿命が延びるからだ。邪気を孕んだ妖怪はそうやって人間や他の妖怪を食べて邪気と妖気を増やしていく。逆に、このアカシは妖気はあれど邪気は無い、つまり人間を食べたりしない良い妖怪って事だ。泣き落とせば助けてくれるかもしれない。アカシが人助けなんて聞いた事無いけれど。邪気が迫っているのを感じながら、私は説得を続けた。

「お願いアカシ、何でもするから!何なら私の妖気全部好きに使っていいよ。あ、寿命の分は駄目だけど!」
「妖気全部、か。」
「私の妖力底なしだから、大妖怪アカシといえども1か月くらいは延命できると思うよ!どう?」

アカシが私の妖気と自分の手間を天秤に掛けて測りあぐねているのが分かった。考えを巡らせるように私を見上げて、ぴたりと動きを止める。

「その制服、もしかして帝光か?」
「帝光中を知っているの?アカシって人間に使役された事とか無さそうだけど、人間界に詳しいんだ。」
「そうか…まだ帝光中は存続しているのか…。」
「?」

アカシは懐かしそうに目を細め、やがて何か目的を見つけたかのように顔を上げた。

「いいだろう。お前の提案に乗ろう。」
「ホント!?」
「ただし、最初にお前が言った事を忘れるなよ。」
「分かってる!じゃあ早速契約を…」

黒靄がすぐ側まで迫っていた。私は焦りながらも両手を差し出し、アカシの手を握る。これで後は術を結ぶだけで契約完了だ。しかし、握ったままお互い固まった。ああ、しまった。言い忘れていた。

「私術力ゼロだから、自分から契約の印を結べないんだった。悪いけどアカシの方で印を結んでくれないかな?」

あ、私の妖力使っていいから。と補足をして、若干引きつった口角を上げて笑った。アカシが狐につままれたような顔をした後、ゴミを見るような目で私を見たのは、林から黒靄が姿を現すのと同時だった。

「見ツケタゾ!食ッテヤル!食ッテヤルゾォオォ!」
「きゃああ!アカシ、早く早く!」
「…使役される妖怪自ら術を使って契約するなど、こんな間抜けな話があるか?」
「アカシ!」
「…。やはり人に使われるのは性に合わないな。」

繋がった手と手から強い光が差し込めて、私は思わず目を瞑った。強烈な風と共に木の葉が舞う。

「…っ、」

風が止んで目を開ければ、はらはらと舞う紅葉の隙間から威風堂々、着物をはためかせるアカシの後姿があった。

契約、成立だ。私はほっとして地面に座り込んだ。

黒靄はすでに目の前から消えていて、アカシはあの一瞬で見事に妖怪を薙ぎ倒してしまったようだった。黒い靄は光の粒となってキラキラ彼の周りを漂っている。舞う紅葉と、風と、光の粒と、赤。やはり彼はアカシだ。私が教えられた通りのアカシだった。
彼は妖怪を倒すとき、まるで芸術作品を作るように邪気を光に変えて星を降らすという。倒した後わざわざ光らせるなんて手間なだけなのに、どうしてそんな事をするのかと、私は授業を受けている間ずっと疑問に思っていた。

今なら分かる。それは至極単純、綺麗だからだ。

私が目を輝かせてその光景に見入っていると、何を考えているか察したアカシが愉しそうに笑う。

「演出は派手にしているんだ。小物をただ倒してもつまらないだろう。」

今まで教科書の中だけの物語だったアカシという妖を、初めて一人の妖として認識した瞬間だった。

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