2.
「へぇ。で、結局行くことにしたんだ」
ズルズルッと勢いよく音を立てながら麺をすすり、咀嚼した後、未来は向かいに座るれんの方を見ながら言う。
「夏休みの間の5日間だけね」
そう答えながら、れんも麺をすすり、細切りにされたキュウリを一緒に口の中へ入れる。つるつるした麺に野菜やゆで卵がトッピングされた冷やし中華は、この時期、食堂の一番人気だ。
「本当は同じ塾行きたかったんだけどね」
高くて無理だった、と付け加えて最後の一口を食べる。一足先に食べ終わった未来が残念、と呟く。ごちそうさまでした、とれんが両手を合わせて言うと、お皿と水筒を持ち、2人は立ち上がる。返却口へ返して食堂のおばちゃんたちに向けて、ごちそうさまでした、と伝えると、奥からにこやかな笑顔と共に、はーいありがとう!と元気な声が返ってきた。片手に残った水筒と一緒に2人は教室へと戻る。
「いつからするの?」
「えーっと、確か1週間後。数学を教えてもらうの」
入試で必要な教科の中で一番苦手なのが数学だった。模試で一番足を引っ張っているのも数学である。数学だけを見れば、合格判定はDだった。
「あーなるほど。苦手だもんね」
それを知っている未来は納得、という顔で頷く。マジでやばい、と自虐的に笑うが、笑えるようなレベルではないことは自分が一番分かっている。今までは、塾に通わずとも自力でなんとかしてやると意気込んでいたが、塾に通うことになったのだ。この機会に克服し、生まれ変わらなければいよいよ危ない。
「個別指導なんて、緊張するから嫌なんだけどなー」
席に戻るや否や、そう呟いては机にうなだれる。
未来は窓際にもたれかかりながら、眉を下げて、しかし口元は微笑みながら、
「ま、がんばりな!」
と伏せっている親友の背中をパシンと叩いた。
一週間後。学校は夏休みに入り、補習が始まっていた。補習と言っても、成績の悪い人たちだけが集められるのではなく、全員参加のもので普段の授業とあまり変わらない。内容は入試対策がメインになるので、少し新鮮味もある。クーラーの効いた涼しい教室で、午後まで授業を受ける。おやつの時間という頃にようやく身体は解放された。
「はぁ・・・3年の補習きつすぎ」
未来が差し出すお菓子に手を伸ばしながられんは不満をたれる。
「午後まであるもんね。去年は部活もあったから午前で終わってたけどさ」
紙パックのジュースを飲みながら、未来も不服そうに述べる。
「今日からでしょ、塾」
思い出さないようにしていた存在を告げられ、れんの眉間に深いしわができる。
両手で顔を覆ったかと思えば、女子とは思えないほどの低い声が漏れた。
「あぁ〜〜〜〜行きたくない〜〜〜」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ」
「そうだけどさ〜」
れんより早く塾に通いだした未来は、塾が楽しいようで、励ましの言葉をかける。
「案外いいもんよ。先生だって優しいって」
「ん〜〜〜〜」
親友の言葉にも納得がいかないようで、駄々をこねる子どものようにれんは行きたくないと言い続ける。そんな幼稚な友人の姿を見かねた未来は、溜息を一つ吐く。
「仕方ないなぁ・・・今日頑張ったら明日の放課後パフェ食べに行こう。おごってあげる」
その一言で、バッと勢いよく顔を上げるれん。目が少し、いやかなり輝いている。
「パフェって、あのお店のパフェ・・・!?」
うん、と大きく頷く未来を見て、れんの目はさらに輝きを増す。
あのお店とは、れんが大好きなお店で、女性に大人気のスイーツ店のことだ。その店の中でもれんはパフェが大好きなのだが、これがなかなかいい値段なのだ。よって、高校生の彼女の財力では、頻繁に行くことができない。その店のパフェを、今日の塾を頑張れば食べられるとのことだ。しかも無料で。幸いにも、明日は2人とも塾がないので、行くことができる。れんのテンションが一気に上がる。
「がんばる・・・!私、パフェのためにがんばるよ・・・!!」
親友の両手をぎゅっと力強く握り、誓う。
パフェでがんばれるんかい、と心の中でツッコミを入れるが、言葉には出さず、笑顔でれんの手を握り返す。
「んじゃ、そろそろ時間だから行かなきゃ。パフェのためにがんばってくる!!」
「ん。行ってらっしゃーい」
先程の沈んだ表情とは一変、元気を取り戻したれんは、颯爽と塾へと向かった。
塾は学校から歩いて5分のところにある。近場とあってか、同じ高校でこの塾に通う生徒は多い。建物が見えてから入口にたどり着くまでの数分間で、すでに同じ制服を着た生徒が7〜8人は入った。だから、この建物の中には顔見知りもきっといるだろうが、なんせ初めて来る場所なので、心臓がバクバクと音を立てて鳴っている。れんが恐る恐る入口を開ける。
「こ、こんにちはー・・・?」
塾という場所に来るのも初めてなれんは、なんと言って入ってよいかわからず、疑問形であいさつをした。
すると、左の方から女性の明るい声が聞こえた。
「こんにちは!あら、もしかして、白河さん?」
優しそうな表情で出迎えてくれたのは、30代前半くらいの若い女性だった。
名前を呼ばれ、咄嗟に返事をする。その様子から緊張しているのが伝わったのか、女性はさらににこやかに微笑みながら、靴を脱いで中へ入るように促す。
下駄箱に靴を入れるのと引き換えにスリッパを取って履くと、れんはロビーへと通された。そこまでの広さはないが、机と椅子がいくつかセットされている。その椅子へと座るように促されたので、緊張したままおずおずと座る。
「塾長を呼んでくるので、少し待っててくださいね」
はい、と短く返事をした後、れんは周囲を見渡す。
玄関は広めにとってあり、下駄箱も大きい。その下駄箱には運動靴やサンダル、ローファーがたくさん並んでいて、この塾にどれだけ多くの人が通っているのかを物語っている。玄関のすぐ横は、受付で、先程の女性がいた場所だ。その奥には、事務用品等が多く並んでいる。受付と事務室が一体化したような部屋の構造だ。そして、玄関を進んだ先にあるのがロビー。ロビーの奥には、自販機とトイレと階段。そして、部屋がいくつか見える。きっとそれらの中に、これかられんが受ける個別指導の部屋があるのだろう。
キョロキョロと頭を動かして見ていると、階段の方から、パタパタと足音が聞こえてきた。
「白河さんだね。初めまして。塾長の鈴木です」
にこやかに言いながられんの向かいに座る。なんとも穏やかそうな男性だ。塾長とは怖くて厳しそうなおじさんだと勝手にイメージしていたれんは、内心ほっとする。
見た目通り口調も穏やかだ。れんの今の成績だとか志望大学だとか、いろいろ話をしていると、近くの部屋のドアが開き、ロビーに声が溢れてきた。
「あ、終わったみたいだね」
どうやら、授業が終わったらしい。声と共に人がたくさん出てくる。高校生もいれば、小学生くらいの子もいる。その子たちに加え、スーツを着た人も交っている。恐らく、スーツを着ている人たちが先生なのだろう。
慣れない雰囲気にただ茫然とその様子を見ていると、塾長が一人の男性を見つけて声をかけた。
「八戒くん、このあと担当してもらう白河さんだよ」
八戒、と呼ばれた男性が私の方を見て、にこやかに笑う。背が高いが威圧感はなく、顔だちも整っていて温厚そうな印象を受ける。
思わずれんは目を奪われた。
「初めまして、猪八戒です」
「は、初めまして・・・白河れんです」
「それじゃあ八戒くん、あとは任せてもいいかな?」
八戒は塾長の言葉に笑顔で頷いた後、れんの方に向く。
「それじゃあ、教室に行きましょうか」
言われるがままに教室へと向かう。ロビーを抜けて一番手前の部屋が個別指導教室のようで、そのドアを開けて中へと入る。横長の机に3人腰かけられるようになっていて、真ん中が先生、両サイドに生徒が座るようになっている。ひとつ前の講座が終わったばかりということもあり、部屋の中にまだ人は少ない。
八戒に席へと案内され、緊張したまま座る。とりあえず、カバンから筆箱を出してみたものの、どうしてよいか分からず、カバンの中を覗いて探る仕草をしてみる。探ったところで取り出すものは何もないのだが。
「緊張していますか?」
ふいに声をかけられ、ドキッとしながら右を見ると、八戒が座ってこちらを見ていた。
「え、あ、はい・・・」
今までの自分の行動を見られていたかもしれないという羞恥心と、人見知り故の緊張感とで、目を逸らしてしまう。
だが、そんな行動を気にも留めず、八戒はにこやかな笑顔のまま話し続ける。
「そうですよねぇ。塾に通うの、初めてですもんね」
れんは再びドキッとした。初対面でまだ何も話していないのに、何故そんなことを知っているのか。恐らく、それが表情に現れていたのだろう。八戒は、あ、と声を上げ、塾長から聞きました、と付け加えた。それを聞いたれんは、なるほど、と頭の中で納得し、八戒の言葉に答える。
「そうなんです。今まで塾に行ったことなくて」
「今まで自分で頑張ってこられたんですね。でも、どうして塾に通おうと思ったんです?」
れんは塾に通うことにした経緯を説明した。まだ緊張は解けず、時々しか八戒の方を向くことはできなかったが、それでも八戒は真剣に頷きながら話を聞いた。
「なるほど。数学だと、どの分野が苦手なんです?」
「微分積分の辺りが・・・」
「確かに、ややこしいところですよね。じゃあ、まずは微分積分をやっていきましょうか」
こくん、と頷くと、八戒はにこっと笑い、右を向く。八戒の右側には中学生くらいの男の子が座っていた。八戒はその男の子と楽しそうに会話をしている。れんが八戒と話している間に、他の生徒も来ていたようで、教室にはいつの間にか人がたくさんいた。
最初はがちがちに緊張していたれんだったが、今は少し緊張がほぐれていることに気付く。そして、それはきっと八戒のおかげだということにも。
れんは八戒の横顔をチラッと見ながら、この塾を選んで良かった、と心の中で呟いた。
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