旧当直室から外来へ降りてきた当直医のイリオスは大層不機嫌だった。
「…俺の管轄じゃないんだぞ」
「先生、それはわかってますから指示をお願いします」
「ああ、もうっ!なんで俺が当直の日はいつもこうなんだ!」
引きがいい、とでも言うのだろうか。イリオスが当番の時は面白いほど救急車が鳴る。その中でも入院しなければならないほど重篤な患者はほんの一握り。つい先程も泥酔して運ばれた若い男に輸液の処置を施したところであった。
「そんなこと言ったって仕方がないでしょ。患者さんが待ってます」
「どいつもこいつも…」
ぶつぶつ文句を言いながらもイリオスは腕のいい麻酔科医だ。彼がかけた麻酔はまるで微弱の電流を受けたように震えるが、麻酔による合併症をほとんど併発しないのだという。むしろ、麻酔が切れたあと持病の腰痛が治ったとか、半身不随の麻痺が改善したとか様々な治療効果をもたらすことが多々ある。それが分かっているからなのか院長のキュアンは彼がいくら大学に戻りたがっても首を縦に振ることはなかった。
しかしいくらイリオスの腕が良くても、それは麻酔科医としての話。失恋症候群などに代表される恋愛疾患は正しく彼の言う通り専門外なのである。
「イリオス先生、この人初診ですね…」
「なんだと?」
「だから初診ですってば。電子カルテに情報がない…紙カルテかな…」
パソコンを操作しながら、目ぼしい情報がないと分かるとカリンはすぐに電話に手を伸ばした。内線の相手は受付の警備だ。
「あ、フェルグス?実はさっきの急患さん、電子カルテに情報がなくて…え、紙カルテもないの!?そっか…了解」
「情報なしか。原疾患が何もなければいいが…」
「そうですね…応援呼びますか?」
「いや、いい。降りてくるまでにセティ先生にメールしておいたからな」
「あ、じゃあ大丈夫ですね」
セティ、とは恋愛疾患の専門医の名で、若いながらも腕は確かで院長からの信頼も厚い。優しげな風貌と誠実な対応から患者受けも非常によく、また職員からも慕われていた。
特に女性からの支持は圧倒的で、セティと同じ日に夜勤当番になった看護師は激務の割りにどこか幸せそうだったりする。そんな周囲の態度にすっかり慣れてしまっているイリオスは、カリンの声が若干はしゃいでも特に咎めはしない。今から運ばれてくる急患の容態によっては一変するであろう現場の雰囲気を、少しでも明るいままにしておきたかった。
END