夢喰 | ナノ
67

今にも降り出しそうな曇天の中に、ぽつりと浮かぶ黒。
そんな空を見上げて、松平はふと、ある日のことを思い出した。

その日もこんな天気で、
その日もただの仕事だった。

天人に降伏してからというもの、治まらない治安。
ここの所平和になってきたかと民衆は思っているのだろうが、それは即ち幕府が落ち掛けていることを意味する。

その日は違法に経営している遊郭という通報で、中には地球人らしき女もいるらしい。
しかしごまんとある巨悪を間引きするためには、多少の犠牲などに、目をくれることなどもってのほかだ。松平が守っている物は己であり、即ち家族であり、元を正せば江戸である。

だから、松平はこの日、己の信念を揺らがされるなどと、思いもせずに突入したのだ。

勧告を受け入れない敵方の本陣に、バズーカを数発お見舞いすれば火は転げ回って面白いように広がる。
数時間後には、もはや瓦礫に成り果てた店と、切り倒した天人、巻き込まれた天人の遊女。

それから目の前に、息絶え絶えな、地球人とおぼしき少女。


「…は、……は、っ」

数刻前降り出した雨に打たれながら、戦闘に巻き込まれたのだろう―――赤く染まった腹を押さえて細かく呼吸をしている。まだあどけなさの残る顔に、未成熟な四肢からして、松平の娘の栗子と大きく変わらないであろう歳だと言うことは容易に想像がついた。
───身なりからして、遊女だと、いうことも。


「最期に、望みくらい聞いてやるかねェ」

松平は文字通り苦虫を噛み潰していたのだろう。眉間にしわを寄せた、この年頃の少女が見れば逃げ出しそうな顔で何かに当てつけるように忌々しげに吐き捨てた。

「のぞ、み…」

しかしそれは案外少女に届いていたらしい。空虚なまなこに再び灯火がともり、僅かながらに開いたひび割れた唇の隙間からぽそぽそと音を紡ぐ。

「ああ。言うならタダだ」
「…………望み…」


ザ────────

雨音が強くなる。少女のか細い声などきっと聞こえるはずがない。松平はそう思っていた。




「恋って奴が、してみたかったなあ…っ」




しかしはっきりと。
聞こえた。聞こえてしまった。
自分の娘といくつも離れていないような少女が叫ぶには余りに悲痛で、切実で、怒りでも悲しみでもない、胸が痛むような願いは彼の耳に届いた。届いてしまったのだ。

「………やっぱり、わっちみたいなのには無理でありんすか」
「…………名前は」
「わっち?わっちは………………」

もう意識が朦朧としているのだろう。少女は血の気のない唇でふっ、と似合わないくらい大人びた酷い自嘲の笑みを浮かべ、酸素を求める金魚の如くぱくぱくと動かしながら、譫言のように自身の名を繰り返しつぶやく。
その間も、生暖かい生命は少女から僅かながらの粘性をもってとめどなく流れ出し、雨に溶けだして辺りを緋色に染めていく。

「………」

ザ────────


雨音が、すべてをかき消した。






「佐々木殿は本当にそう言ったのか、トシ」
「ああ。どうにも気に食わねえが仕方ねえ」

屯所へと戻るなりバタバタとせわしなく廊下を歩くのは、真選組のツートップ。


「今はその言葉だけが頼りだからな…。しかしあの家の当主が出てくるとは驚いた」
「ん?ああ、飛行機がどーたらってニュースになってた清水財閥だろ」
「ああ。崩れかけた財政をあの若い当主がその事業で建て直しかけてるんだそうだ。よほどの手腕だと聞いていたが……まさかあんなに若かったとはな。驚いたよ」
「確かに…鼻持ちならねえ雰囲気だったぜ」

自分は与えられた地位以上の事をこの歳でやってのけて見せたのだ、時代の流れをうまくつかんだのだ、という自負が容易に見てとれた。元来の堅物さ加減が更にそれを加速させているのかもしれない。
ただ、それ以上に冷たい目をした従者が、なんとも、頭に暗い影を落とし、警鐘を鳴らす。
あの男の目の中には、果てしなく闇が広がっていた。柔らかく上品な笑みを浮かべながら、その目に化け物を飼い慣らしているのだ。

・・
あれは、本来此方側にいてはいけない類いの人間だ。
見るものが見ればすぐにわかる。


「…っサイッコーに気にくわねえが…」
「乗るしかないな」

そう言って、二人は備品倉庫からトランシーバーを引っ付かんだ。


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