ライン

穏やかに流れる



サラサラと風になびく葉の音が響く。
ある一本の木の上で、俺は目を閉じてそれを聞いていた。
日差しも柔らかい、今日は穏やかな日だ。



「トーマ!」

広くもない縄張りの端から端まで届きそうな大きい声が、風の音を遮る。
重たかった瞼を開いて、幹にもたれたまま下方を見た。
青々とした葉の隙間から淡い茶色の毛並みがのぞく。
真っ直ぐにこちらを見る、大きな碧の瞳と目があった。

アズサだ。

何か言われる前に木から降りる。ザッという音を立て地面に着地すれば、アズサが得意気な顔でこちらに駆け寄ってきた。
それに伴い、ズルズルと重たいものが擦れるような音が空気を震わす。
ちら、とアズサの背後を見て、思わず眉を潜めた。

「…アズサ」
「フフン、どうだ!今日の成果は立派なもんだろ!」

薄い胸を思い切り反らしてアズサが笑う。
そんな彼女の足元には一クロ(メートル)はあろう猪が横たわっていた。

「いやー苦戦したぞ。なかなかしぶとい奴でさぁ。後半の息を呑む展開!見せてやりたかったねぇ」
「俺、猪キライなんだよ」
「あんだと?お前はこんなそうそうお目にかかれない御馳走を前に文句を言うのか?」
「俺にとっては御馳走じゃねぇ」

はぁとため息を吐いて猪の臭さに顔を背けると、機嫌を損ねたらしいアズサが一声怒鳴って回れ右をした。
そのまま先ほどのようにズルズルと猪を引きずって歩き出す。

小さな体が大きい獲物を運ぶ姿ときたら、なんと心配になる光景だろうか?
後ろ足だけ持っているため、もし猪の顔でも木に引っ掛けたら確実に転けそうだ。
見るに耐えず彼女を追いかけ、獲物の空いた前足を持ち上げた。
一瞬、アズサが振り返る。

「今さら手伝ったって分けてやんねぇぞ」
「別にいいぞ」
「可愛くねぇな」
「可愛くなくてむしろ光栄だ」

軽口を叩き合いながら木々の間を進む。
前を行くアズサは心なしか弾むような足取りで歩を進めていく。
それを見たら、なんだか胸が軽い気分になった。

嬉しい。
口元が思わず緩んだ。




アズサは俺が“好き”だという。
俺も、多分アズサが“好き”だ。
今までどの雌に対しても皆無に等しかった欲が、アズサを前にすると次から次へと溢れてくる。
それは止まることを知らず、日に日に増すばかり。

かといってその欲を毎日満たせるかと言うと…そうでもない。
アズサにただ触れるだけなら簡単だ。問題は次の段階に進めるか否か。

俺を知られたあの日からアズサの拒絶は良い意味でハッキリしたものに変わった。
前だったら流れで進んだ行為が、今では毎回ストップをかけられる。
しかもアズサは足も手も、酷いときには歯まで使って抵抗するから無理強いができない。

現在欲求を満たせるかどうかは完全にアズサの機嫌次第だ。
それに不満はあるが、アズサという奴の性格を考えると俺は幸運だと感じる。

アズサの雄嫌いときたら、それはもう凄まじい。
つい先日、縄張りに侵入し、あたかもアズサに手を出そうとした輩など半殺しにしていた。
あの時は流石にアズサの手を止めるのに全力を注いだ(縄張りの中で誰かに力尽きられるのは非常に面倒でもあるし)。
そんなアズサがよくもまあここまで俺に気を許してくれるのが毎日不思議に思う。


“好き”だからなのだろうか。



「なあトーマ」

根倉に餌の搬入を終えた途端、アズサが恐る恐るといった風に近寄ってくる。
気まずそうに上目で様子を伺ってくる姿は頼りなくて、なぜか胸の辺りがソワソワしてきた。

「何だ?」
「い、今さ…暑いか?」
「いや?どうした急に」
「んんんん…えっと、暑くないなら良いんだ。うん。うん」

一人納得するように頷くアズサを見て俺は首を傾げた。
どうしたんだと問いかけようと思い口を開くが、その前にアズサがこちらとの距離を縮めてきた。
ちょん、と指に指が触れる。
そのまま指先だけ絡んで、きゅ、と挟み込まれた。

「アズサ?」
「きっ、ききき気にするな!」
「いや、気にするなと言ってもな…」

すりすりと細い指が擦り付けるように動く。
出来心でぎゅっと挟み返してやれば、小さな体がビクンッと跳ねた。
見れば大きな耳が垂れ、顔面が赤く染まっている。
うろうろと逸らされる視線が彼女の頼りなさを助長し、衝動的に目一杯アズサを触りたくなった。

「アズサ…」

繋がった手で引き寄せてみれば、アズサは何の抵抗もなく腕の中に収まった。
ふわりと香るのはアズサの匂い。
今まで誰かの体臭ほど不快に感じるものはなかったのに、彼女は違う。逆にいつまでも嗅いでいたい心地好い匂いがする。
茶色の髪に鼻を埋めて、安らぎを堪能する。

するとアズサがもぞもぞと体を捩る。
顔を離せば、碧の瞳と視線があった。どこかとろんとした目に欲を誘われる。
しかし、腕を少し動かしただけでアズサにバシッと腰を叩かれた。しかも鋭く。
相変わらずガードが固い。

「バカッ」

怒ったような強い口調で叱咤される。
これは叩かれるかと僅かに身構えた。

けれど、そんな衝撃はこない。依然としてとろけた瞳のアズサがすりすりと身を寄せてくる。

今更ながら、俺は甘えられてることに気がついた。
ならばと頭を撫でればアズサがほうと溜め息を吐き出す。
毛繕いをすればふわふわした尻尾がパタパタ動いた。喜んでいるようだ。

試しにそっとうなじに指を滑らせてみる。
秒速で俺の太股に膝蹴りが決まった。ゼロ距離で余計に力が入っていてかなり痛い。

「……」

アズサが拗ねたような目でこちらを見上げている。先ほどと違い可愛くない上目遣いだ。

「空気が読めない奴め」
「生憎、今のような空気に触れる機会がなかったものでな」
「ボクだってそうだし。でもそこは察せよ」
「無茶言うな」
「ケチ」
「どこがだ」

ぷくっと頬を膨らませてアズサがいよいよ不機嫌を露にする。
でも、頭を撫でてやれば正直に尻尾がパタパタ揺れ動く。
ちょっと考えて、なんとなく抱き締めてみることにした。

甘えたがりな子どもを大人がよく抱き締める。そんなイメージで。


「…知ってるんじゃんかよ、アホ」

小さな、でも僅かながらいつもより高い声でアズサが言う。
どうやらこの“空気”にこの行動は合っているらしい。
アズサの雰囲気が柔らかくなり、不思議とこちらの気持ちも軽くなる。どうやら彼女の一喜一憂に俺の気分もつられているようだ。

ならば良い感情でいた方が互いのためというものだろう。
その場に座り込み、アズサを膝の上に座らせ髪を撫でてやる。
するとどうだろう。アズサの顔がみるみる真っ赤になり、そのまま俯いてしまう。
よかれと思ったのだが逆効果だったのだろうか。

「トーマ…」
「何だ」
「これ…すごく恥ずかしいんだけど…」

耳をぺちゃりと伏せてしまったアズサの姿に悪戯心が沸いてくる。
膝上の小さな体を支える腕にギュッと力を込めれば、垂れた耳や尻尾が瞬時に跳ね上がった。
寄せ合った体越しに緊張でもしているのか、すっかり体を固くている様子が伝わってくる。
これは楽しい。クックッと堪えきれなかった空気が喉から漏れる。

「ばーか」

アズサの呆れと恥じらいを混ぜた声が根倉に響く。
温かい体温と穏やかな空気に心が休まるのを感じながらまた腕に力を込めた。





それからアズサは捕ってきた猪を、俺は残ってきたウサギの肉を食べた。
恐ろしいことに1クロ以上あった猪の肉は三分の一がなくなり、満足そうに笑む細い体のどこにそれが収まったのかという新たな疑問がその日生まれることとなった。



++++++
トーマ視点。アズサが面倒なような扱いやすいような複雑な感じに。

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