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薄幸少年と学校問題・後



静かだった。

見慣れた寮の自室。部屋の真ん中に置かれたソファーに座っている。
晴哉は右側の手すりにもたれかかっていて、左端によっているオレから若干離れていた。

人ひとり分もない距離。
なのに、晴哉との距離がとても遠く感じた。

「ハル…?」

何故か掠れてしまった声で名前を呼んでみる。
俯いたままの晴哉から返事はない。

違和感。

いつもの晴哉だったら、名前を呼んだだけで大袈裟なくらい返事をしてくれる。
そもそも、二人きりの空間で距離をとることだってしない。
いつもと違う晴哉。
初めて見る晴哉がそこにいる。

なぜだろう。
それだけで彼が他人に見えるのは。
知っている筈なのに、知らない人間と一緒にいると感じるのはなぜなんだろう。


「ハル…」

もう一度呼んでみる。
声を出すのに息が詰まって、ちゃんと呼吸をしてるのに溺れているみたいに息苦しい。
訳もなく震えてしまいそうだ。

自分から少しだけ互いの距離を詰める。
晴哉は動かない。
なぜか重たい体を動かして、二人の距離がゼロになった。
その時、手のひらが軽く晴哉に当たって、どうしてか反射的にその手をひっこめてしまった。

「ハル……」

もう一度だけ呼べば、ゆっくり晴哉の顔がこちらに向いた。
垂れた前髪に顔が隠れていて、晴哉がどんな顔をしているのか分からない。
だけど、相変わらず彼が知らない人間のようであることは変わらなかった。
こんなときはどうすればいいのだろう。
何も分からない。

いつもの晴哉みたいに腕を延ばすことも、明るく声をかけることもオレにはできない。
ただ、目の前にいる知らない彼に戸惑うことしかできないのが苦しい。



「…ごめんな、優市」

ポツリと消えてしまいそうな声が部屋に響く。
ハッとして見れば、晴哉の暗い瞳がこちらを見ていた。
あまりに温度の感じない視線に体から血が引いていく。

「…困ってるんだよな。分かるよ…俺がいつも通りじゃないからどうしたらいいのか分からないんだろ?」
「ぅ……」
「…ごめんな」

細められた瞳も、小さく動く唇も、いつも見ている筈なのにそう思えない。
力のない声で話す晴哉を見て、なぜか怖いと思った。
でも、果たして晴哉が怖いのか、それとも全く違う何かが怖いのかが分からなかった。


どこに行ってしまうの?


そう尋ねたくなって、でも口が動かなかった。


「行かないよ…」

だけど、晴哉にはわかったみたいだ。
眉根を下げたまま弱々しく笑って、こちらに手を延ばしてくる。
する、と頬を撫でる指先が冷たい。
いつもの晴哉の指先はあんなに温かいのに。どうして。

「ユウ……優市…」

苦しそうな声が耳に届いたと認識したと同時に、オレの視界がぐるりと一周した。


天井と晴哉の顔が目の前に見える。
背中にはソファーの固い感触。
逃げ道を塞ぐように覆い被さられ、ハッキリと感じる晴哉の存在に言い様のない安心を覚えた。


「…なぁ優市。俺ってそんなに頼りない?」
「……え?」
「知りもしないやつにとやかく言われて、殴られて、でも、それを伝える価値もない奴かな、俺」

晴哉の言いたいことが分かって息を呑む。
伝えなかったのは、晴哉の仕事を増やしたくなかったから。
話さなかったのは、手一杯の晴哉に心配させたくなかったから。
でも、晴哉の暗い瞳を前にしてそんなことは言い出せなかった。

「…違う」

ただ一言。簡潔な事実しか声に出せない。
晴哉の瞳がぐにゃりと歪んだ。

「じゃあ…じゃあ何で何もも言ってくれなかったんだよ!!優市がたった一人で有りもしないことで罵倒されて、傷つけられてるって知ったとき…俺がどんな気持ちになったかわかるか?しかも、俺が今までしてきたことで優市が責められて…どうして…」

グッと唇を噛んで晴哉が俯く。ずるずると彼の体から力が抜けて、額が胸に落ちてきた。

「なぁ、教えて優市…」

力なく胸の上に晴哉の額が押し付けられる。
いつもの晴哉が甘えてくるときの仕草。

「俺は…俺と一緒にいることは、優市にとって迷惑なことか…?俺は一緒にいない方がいい?」

言葉とは裏腹に、晴哉の両腕が腰に回って強く抱き締められた。
腕が微かに震えてる。
晴哉を襲う恐怖に消えてほしくて腰に回った腕を静かに掴んだ。

「ハル」

何回目かの呼びかけは今までみたいに震えも、掠れもしなかった。
もう、目の前にいる人間を他人だと思わない。
ここにいるのは晴哉だ。
今、オレの一番近くにいる人。
そして、きっとオレにとってかけがえのない人。

「…確かに、ハルと一緒にいなかったら、こんなことにはならなかったかもしれない」

ビクッと晴哉の大きな体が震える。
腰に回る腕がより一層力強く絡み付いてきた。
そっと、晴哉の腕を掴んでいた手で彼の肩辺りを撫でる。
ゴツリとした骨の感触が指先から伝わってきた。

「でも…ハルと一緒にいたことを後悔したことは、一度だってないよ」

何度も何度も晴哉の肩を撫でる。
するとふわふわとしたものが胸中に生まれて全身に巡る感じがした。
晴哉も、オレに触るときはこんな気持ちでいるんだろうか。
そんなことを考えながら撫で続ければ、そろそろと晴哉の顔が上向いた。
視線がかち合う。
晴哉の瞳の中には依然として暗い色があって、顔が苦しそうに歪んでいた。

「…何度か殴られたんだろ?」
「うん」
「痛かった?」
「痛くないよ」
「ウソ、痛かったくせに。ユウはいつもそうだ。辛いことを辛いって言わない」

腰に回っていた腕がほどけて、晴哉が体を起こす。
顔の横に手をついて、真っ直ぐこちらを見下ろしてくる。

「だからオレは傍にいようって決めたのに、何でそんな大事なこと忘れたんだろうな」

自嘲気味な笑顔を浮かべて晴哉が言う。
大きな背中を撫でたら、一層形のいい顔が歪んだ。


「俺、風紀やめる」
「…えっ」
「元々ユウと一緒にいるために入ったんだ。肝心の一緒にいることができてないんじゃ意味ない」

だからやめると言った晴哉の顔は真剣そのものだ。

駄目だと言うべきだろう。
だって委員の一人ならまだしも、晴哉は今や副委員長であるし、まだ本題の問題は解決できてないのだ。
重役が一人欠ければ、それだけ御蔵先輩や神谷先輩の計画に支障が出る。
それがどれだけ大きな問題か、瞬時に理解した。


その筈なのに、オレは何故か否定の言葉を紡げなかった。


「ユウ…」

晴哉の唇が俺の頬や首筋を撫でていく。
さっきとはうって変わって熱い指先が髪をすいて、耳をくすぐった。
頬と頬が触れ合って晴哉の顔の熱さが直接伝わってきて、急に胸の辺りがぎゅうと苦しくなる。


言わなきゃいけないことが言えない。苦しい。おかしい。
晴哉、晴哉変だよ。嫌だ、イヤだ。助けて、晴哉。晴哉。晴哉。


「ハル…っ」

「ごめんなユウ。また、困らせちゃった」

晴哉の手のひらに顔を包まれる。
コツンと額に固くて熱いものがぶつかった。
ピントの合わない視界の先で優しい色をした瞳が揺らめいている。


「なぁユウ。オレに風紀やめてほしくない?」

問いかけられても喉が支えて声が出せない。
仕方なくオレはこくんと首肯した。
額同士が擦れ合う。

「じゃあ…ユウはオレと一緒にいたいって思ってくれる?」

切羽詰まったような声にもう一度首肯する。
すると、一拍間を置いてから晴哉にぎゅっと抱き締められた。
耳元に熱い呼気が当たる。

「そっか…やめてほしくないか」
「…うん」
「こうやって、一緒にいても…いいんだな」
「うん」

晴哉の首筋に鼻頭を擦り付けた。
ぶつかった胸伝いに微かな振動が響いてきて、そのゆったりしたリズムにさっきの落ち着かない気持ちが静まっていく。

「一緒に、いたい…」

自然とこぼれたのはなぜだろう。
晴哉の体がまた震えて、次いで肩口に額が押し付けられた。

「もう少し」
「ん…?」
「もう少しだけだ。全部終わったらまた、ユウが嫌だって言ってもやめないくらい傍にいる。絶対に離れない。だからもう少し、もう少し待ってくれ」
「…分かった。オレも、頑張るから…終わったら、一緒、ね」

すっと晴哉の体が離れて、大きな右手に左手をさらわれる。
そして小指同士を絡めて、静かに約束を交わした。




「愛してるよ、優市」

何度言われたかもう分からない、何回目かの晴哉の温かい言葉。
でも、今日の言葉はいつも以上に全身に沁みてきて、じわじわと体が熱を帯びていく。

そして、晴哉が大きく目を見開いたのと同時に、熱を持ったものが目の辺りから頬に落ちていった。


「ユウ…?」
「ぇ…あ……」

泣いていると分かるまで時間がかかった。
だって、泣いたらいつも酷い目に遭うから。
泣いたら絶対に悪いことしかないから。
ずっと蓋をして、いつの間にか忘れてしまっていたのに、何で今更。

条件反射で涙を拭うと、その手を晴哉に止められた。
そして、未だに溢れる涙を舌先に掬われる。
すると更に涙がボロボロ溢れる。それでも、晴哉は口付けながら全ての涙をぬぐってくれた。

「我慢しなくていいよ」

そう言って抱き締められて、優しく頭を撫でてくれる。温かい触れ方に、また涙が目から溢れた。


泣いたら絶対にいいことがない。

そう思い込んでいたものが壊れる。
温かい手のひらが頭を撫でていく度に外へ、外へと思い込みの欠片が消えていく。


「一緒にいたい…」

確かめるように呟いた言葉に、晴哉が頷いてもっと強く抱き締めてくる。
隙間のない距離に胸が震えて、最後の雫が目から滑り落ちていった。






++++++
切な気ハルユウ。
優市が泣かなくなった理由でもある過去編も友香ちゃん登場ついでに書きたいですが、いかんせん予定は未定…。

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