ライン

変化



今日の授業はやたら疲れた。

まず、一時間目の理科の実験で一緒になった人がガスバーナーを爆発させた。
爆発といっても点火したときの勢いが良すぎたというだけなのだが、それで混乱したクラスメイトを宥めるのが大変だった。

次は四時間目の体育。
バドミントンで相手になった竜にやたら左右に振り回された。
疲労困憊で屈んでるところで彼から「良い汗かけたな!」と爽やかな笑顔を送られ精神的にもキタ。
あと疲れすぎて昼食が思うように胃に入らなかった。

トドメは五時間目の音楽で、なぜか演奏の腕で争いだしたところに巻き込まれた。
「柳は公平なジャッジをしてくれるだろう」なんて言われたが、聞く耳なんて一般レベルで二人の演奏の差が分からず、判定時は冷や汗ものだった。
結果で恨まれなかったことだけがせめてもの救いだ。

こんな日はさっさと帰ってベッドに転がるに限る。
けれど下校することは叶わず、今自分は図書館にいる。


「あら、もしかしてお疲れ?」
「いや…気にしないで」

高すぎず、それでいて心地よい高さの声がどこか気遣わしげに尋ねてきた。
それに笑顔で応えつつ、内心溜め息を吐く。

黒檀の黒髪に、茶の大きな瞳の持ち主であるパートナー―静留の要望で疾人は図書館まで付き合っていた。
未だに周囲へのカモフラージュのために一緒の下校を続けているため、どちらかが先に帰るわけにはいかない。
そんなわけで、放課後に用事が入ると片方が待つという決まりになっている。
だが、流石に今日は勘弁願いたかったのが本音だった…それでも付き合ってしまったのだからもうどうしようもない。

何でも調べたいものがあるらしい。
薄暗い室内には他に利用者はいない。
6人掛けの机上に運んできた数冊の本を広げ、静留は作業を始めた。


西沢木の図書館は木造で、床や壁の板には年期が入っているのが見受けられる。
そんな中に黒髪を上品に結い上げた彼女がいると、雰囲気がより一層古風で落ち着きあるものになる気がした。


ノートにカリカリとペンを走らせる静留の表情は真剣で、とても邪魔はできない。
かといって、読書する気も起きず、宿題を済ませようとも考えたが、何故か気が進まなかった。

だから、少しだけ休ませてもらうことにする。

椅子を引き、机に腕を組んでその上にうつ伏せた。
低くなった視界にノートの上を忙しなく動く彼女の手元が写る。
それをぼぅっと見つめていたら次第に瞼が重くなってきた。
頭をボンヤリとさせる心地よい微睡みに身を委ね、静かに目を閉じる。


芯が紙の上を滑る音だけが耳に残った。



+++


真っ暗なところへ意識が戻ってくる。
すると頬や頭に何かが当たっている感触に気づいた。
仄かに温かくて、静かに優しく動いている。

撫でられている。

この感触を僕は知っていた。
ずっとずっと昔に毎日のように与えられていた温かさ。
嬉しくて、大好きだった頃のお気に入り。

重かった瞼が軽くなってきたのでゆるゆると持ち上げる。
ぼんやりと人の影が近くにいるのが分かった。
知っている人だ。
この人は、僕の、


「か…ぁ、さん?」


ピタリと、撫でてくれていた動きが止まった。
そこで自分の失敗に気づく。

自分の現在地と、知っている人間を考えれば分かることだ。
学校の図書館で、小休止時に傍にいて、その後も一緒にいてくれる人物は一人しかいない。

「静、留…!」

一気に覚醒して跳ね起きれば、想像通り彼女がそこにいた。
向かいの席から、空いていた隣の席に移動していて、眠る前より距離が近い。
薄暗い中でも光る大きな瞳が、真っ直ぐこちらを見ていて冷や汗が流れ落ちる。

「あ、あのっ」
「おはよう。随分お疲れだったのね」
「え?あ…いや…えっと、静留さん?」
「急によそよそしくなんてしてどうしたの?変な人ね」
「あの…こっちも色々と…あれ?」

何を言われるかと身構えたのだが、反応はいたって普通だった。
自分の失敗や、数分前の行動なんてなかったかのように感じさせない。
突っ込まれると思っていたのに、何だか拍子抜けだ。

「…なに?私の顔に何かついてる?」
「あぁ、いや。別にそんなことはないよ」
「それなら早く帰りましょう」
「あ、調べものは済んだ?」
「まだだけど」
「え?」

目的を達成してないことに驚いて目を見開いた。
静留は真面目で、やろうと決めたことはとことんやってしまうタイプだと思っていた。
時計を確認してみると五時を僅かに過ぎたところだ。まだ時間はある。

「終わらせないの?」
「待っている人は退屈のようだから早く切り上げたのよ」
「う゛…ごめん」

どうやら気を使ってもらったらしい。
軽く居眠りをして若干体が楽になったようだが、気だるさは依然残っている。
非常に申し訳ないが、帰れるのはありがたいので、素直に享受させてもらうことにした。

荷物はまとめたままだったので、そのまま席を立ち二人で図書館を出た。
いつも通り、静留の半歩後ろについていくように歩き出す。

「ちょっと」
「はい?」

しかし、五分と歩かない内に歩みを止めた彼女に睨まれてしまった。
不機嫌そうな顔ですら、上品だ。いや、そうではなく。

「えっと、僕何かしたかな?」
「…前々から思っていたのだけれど……遠すぎるわ」
「んん?」

なにが、と言おうとする前にズンズンと近づいてきた静留に正面から睨まれた。
二人の間に身長差はないに等しく、15pほどの距離から話すのは初めてだ。

そもそも彼女はドが付くくらい男嫌いなのだ。
いかに自分がパートナーで、あまり男らしくなくても男であることに変わりはない。
だから今まで親しい接触もなく、ついで言えば図書館での行動も疑問しか感じていない。

「…どういう心境の変化?」
「別に。私としては貴方から近づかれることもないし、快適だったけれど…周りの目はどうも騙されてくれないようだから」
「ああ…まぁ確かに今までの距離じゃあ彼氏彼女には見えないだろうね。でも、静留を知ってる人なら騙される気がしたけど」
「…男は嫌いだけど、向こうから近づかれれば対処する話であって、何もしないなら少しぐらいの接触は気にしてないもの。帰るときぐらいの距離に知らない男子がいることだってあるわ」

つまり、今までの距離で歩くくらいではお互いに特別な雰囲気があると周りから取られないわけだ。
だからこうして距離を縮めた。
静留が歩き出すのに合わせて、再び足を進める。
二人の距離は、静留が縮めたままを保って。

「意外とこだわるんだね」
「それが条件でしょ?」

いつもより近くで交わされる言葉。
よろめきでもすれば直ぐに肩が触れてしまいそうな距離。
それだけの変化だというのに、妙な落ち着きのなさが心を満たす。


『自分自身が錯覚してしまう距離か…』


なんとなく溜め息を吐きたくなって、でも堪えた。
それを静留に“不快の表れ”なんてとられでもしたら機嫌が急降下どころか睨まれそうだから。
チラリと隣を伺う。
静留はピンと背中を真っ直ぐに、正面だけ見て歩いている。
いつもと違う距離のお陰で、初めて頬に影を落とすほど睫毛が長いことに気がついた。

不意に、長い睫毛の間で輝く瞳がこちらに向けられる。

「なに?」

こちらへ向けられた顔を、思わず見てしまう。
いつもよりはっきり見える顔のパーツ一つひとつをじっくり見てしまう。
けれど、相手は文句のひとつも言わない。ただ、真っ直ぐこちらを見るだけ。

どれくらいそうしていただらう。
気づいたら各寮へ向かう分かれ道まで来ていた。
やけに渇いた口内を唾で僅かに潤して、やっとやっとな思いに自分で首を傾げながら口を開く。

「何でもないよ…じゃあ、また明日」

「…えぇ」

ふい、と今までずっと見合っていたのが夢じゃないかと感じるほど呆気なく視線が外された。
姿勢のよい細い背中がどんどん遠ざかっていく。
その姿を突っ立ったまま、じっと見送った。

なぜそうしたのか?
彼女の姿が消えてから自問する。
頭はひどく冷静なのに、胸の奥辺りがざわざわとして痒いような気持ちになっていた。

―そういえば、今日は久しぶりに別れの挨拶に返事があったな。

そんなことを思い出しながら、ようやく部屋に帰るために足を動かす。
短い道中でたまっていた疲れも思いだし、部屋に入るや否やベッドに倒れ込んだ。
制服を着替えるのすら怠い。
少しだけ休もうと頭の中を埋めていく靄に意識を委ねる。

フッと、図書館での静留の姿が頭を過った。
続いて帰り道でみた姿が浮かぶ。
茶色の、大きくて力強く光る双眸がこちらを見ている。


―綺麗だったな。


心の中の呟きは、襲い来る睡魔の波にさらわれて記憶から跡形もなく消え去った。




++++++
距離(物理)が縮まったお二人。
疾人は結構苦労気質。

もっと竜くん動かしたい気持ちもどこかにある。

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