ライン

心臓を動かす



パタン。

小さくも大きくもない木製のドアを背中で閉めた。そのままズルズルとその場にしゃがみこむ。

「もう嫌だ…」

学校での空気を思い出して吐き気が込み上げてくる。受験のストレスなのか、今年になって周囲からの暴言や仲間外れが更に酷くなった。
クラスの異端は良いストレスの捌け口。

「もう嫌だ…!」
「何が嫌なんだ?」

答えを求めていない呟きに、目の前の薄暗闇が答える。東向きの窓のせいで室内は夕方でもほぼ真っ暗だ。目を凝らせば、僅かに家具の輪郭をとらえることができる。
フラフラと立ち上がりながら扉の横にある電気のスイッチに手を伸ばす。パチと子気味のよい音を立てれば、灯りが暗い室内を眩しいくらい照らし出す。

自分から向かって左の壁に寄り添うように置かれた寝具の上にそいつはいた。

「どうしたんだ善徳(よしのり)?随分顔色が悪いなぁ」
「…うるさい」

さも驚いたような表情で喋るそいつが嫌で睨む。けれどそいつはこちらの視線なんて気にもせずニタニタと笑った。昔は楽しそうに見えていた笑顔を「薄気味悪い」と感じ始めたのはいつだったか、もう覚えてない。
ただ、今この場にそいつがいることが不快でしょうがなかった。

「消えろよ…」
「えーっ?オイラは心配しただけじゃん!なのに追い出そうだなんて…どうしちゃったの善徳?」
「消えろって言ってんだよ!」
「イヤ」

寝具から離れると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。対して変わらない身長のそいつは隣まで来るといやらしい目付きで覗きこんでくる。対抗するように睨み返せば嫌でもそいつの顔がよく見えた。

短く切り揃えられた茶がかった黒髪。よく日に焼けた肌。くりくりと動く栗色の瞳。そして、額から大きく突き出した鋭い角。

そいつは、オレと変わらぬ少年の姿をした、オレとは違う存在だった。いつからか、オレの隣に居座る鬼。

「善徳汗かいてるよ。熱がある?」

冷たい手が額に触れる。触れられた場所から、感染するように角が生えてくるんじゃないかと錯覚する。怖くて、乱暴にその手を払った。

「触んな…」
「チェッ、熱があるか見ただけなのにさぁ〜善徳ひど〜い〜」
「とにかく消えろよ、新(あらた)」

こちらを不服そうな目で見つめる鬼―新をぐっと無理矢理押し退け、勉強机の方に向かった。文房具をしまう引き出しから目当てのものを出して右手に握る。カチカチと引き出せば鈍色が電灯を反射して煌めいた。

「何すんの?」

いつの間に背後に来たのか、新の右手がオレの右腕を掴んで尋ねる。苛ついたが、表情から笑みを消した新を見たらやけに胸がスッとした。

「見たらわかるだろ?わかったら邪魔するな」
「わからないね。大真面目な顔でカッターなんて持ち出して…なに作るの?」

徐々に目元を緩ませる姿に笑おうとしているのが分かった。でも、そのまま笑わせるのが癪で、代わりにオレが笑って答えてやった。

「オレの死体を作るんだよ」

サッと顔を青くし、目を見開く様を見たら胸がざわざわして気持ち良くなった。

「ふざけてるの?」
「ふざける?何で?俺は至極真面目だ」
「どうして、急に…」
「急に、だって?ふざけるなっ!!」

右腕を掴んでいた手を無理矢理引き剥がす。新の胸を叩く勢いでオレはその襟首に掴みかかった。刃を出したままのカッターが新の首筋に触れそうだったが、そんなことを気にする余裕なんてない。ドロドロした汚いものが腹の内でのたうち回って暴れていた。それを吐き出すように、真正面の新に言葉をぶつける。

「いつからオレがこんな気持ちになったか、分からないって言いたいのか?お前のせいだよ新!いつの間にかオレのとこに居座って、無遠慮に近づいてきやがって!
そりゃあ気持ち悪いよな。何もないとこに話してるような奴なんて。お前みたいな、誰にも見えない奴を構ったりしたせいでオレは気味の悪いイカれた野郎だ!
見てないはずないだろ?お前は見てないはずがない。どうなんだよ?オレが馬鹿な除け者にされた様子は!壊れ物を気を付けて扱うような、腫れ物に触らないよう避けられる様子は!楽しいか?見てて楽しかったかよ!」

吐き出しても吐き出しても感情は静まらない。むしろ苛立ちばかり増して、吐き出しきれないだけ頭がガンガン痛む。涙腺は勝手に壊れて視界は最悪だ。
だから、目の前の新がどんな顔をしているか見えなかったし、気にしようとも思わなかった。



「ふぅん」

聞こえてきた、あまりにも無感動な声に言葉を失った。唖然として新を凝視しようとするが、濡れた眼にはぼやけてあやふやな影しか写らない。


「それは災難だね。だけどさ、オイラには関係もないよ。だって、話しかけたオイラの話に乗ったのはあくまで善徳なんだから。それに、善徳が何を感じて、何を考えてるかなんて他人のオイラに分かるわけないじゃん」

新の両手が頬に触れて、乱暴に溜まった涙を払い除けられる。
鮮明になった視界の先、新はいつもの顔で笑っていた。
頭が真っ白になって、途端に目の前の存在が、目尻にできた小さな小皺まで全て余すとこなく憎たらしくなった。

「消えろ」

吐いた言葉は、言った自分がゾッとするくらい冷たかった。なのに新は、それを聞いて更に笑みを深める。

「いいよ。善徳がそうして欲しいなら消えてあげる。
でもさ、その前に善徳のソレが欲しいな」
「ソレ…?」

聞き返すオレを新の人差し指がトンと叩いた。ドクドクと鼓動が騒がしい、オレの左胸を。

「要らないんでしょ?」

右手に握っていたカッターの存在を思い出す。確かに、その胸の下に有る器官はオレにとって不要なものだ。

「だったらいいよね。
お前の心臓、オイラに頂戴?」

それから目を見はる変化が起きた。
同年代の少年の顔の骨がミシミシと軋みだした。人の口だったものはブチブチと皮を破きながら耳まで割けた。いつもオレを見つめていた栗色の瞳は赤紫に変色し、目玉が大きく飛び出す。
そこには、もうオレの知る“新”はいなかった。
目の前にいるのはおぞましい外見と、恐ろしい角を持った“鬼”だった。

「―――――」

“鬼”がオレには分からない声を発して、赤黒い大きな口を目一杯開いた。肩を掴まれ、動きを封じられる。白く鋭い牙と真っ赤な舌がオレを捕まえようと迫る。

『あぁ、オレ死んじゃうんだ』

まるで傍観者のようにそんなことを思った。怖いとか悔しいとかは一切感じない。むしろこれでいいんだと受け入れている自分がいる。
ただ、目の前にいるのが“新”でないのが残念だった。
ツンと鼻が痛くなって、目から何かが零れていく感触がしたのを最後に、見えていたものが真っ黒になって、何もかもがなくなった。

+++


目蓋に眩しさを感じて目を開けたら、そこは何もかもが白かった。あまりの白さに目がチカチカする。

「善徳?」

名前を呼ばれて、そちらに顔を動かしたら見慣れた母親の顔がこちらを見ていた。最初は驚いた表情で、それが段々喜びに変わっていく。

「良かった…目が覚めたのね!もう、お母さん心配で心配で…!」

涙ぐむ母親に強く抱き締められた。トクトクと母の心音が肌伝いに響く。

母親によると、オレは三日前に部屋で気を失い倒れていた。すぐ病院に運ばれ検査を受けたが異常はなく、両親はとても心配したらしい。
母が連絡を入れると、父もこちらに向かうという旨を伝えてきたと教えられた。それを上の空で聞きながら、なんだか落ち着かない気分で気づかれないように辺りを見回す。白いカーテンと窓枠の間からは青い空が見えた。

「それにしても本当に良かった…神様と新君に目一杯感謝しなくちゃね」
「あら、た…?」

母の口から紡がれた名前に僅かながら目を見開く。じっと母を見つめれば、ある昔話を聞かせてくれた。
不幸で亡くなった男の子と病を患った男の子の心臓の話。
ある子どもが事故で亡くなった同じ時期に、もう一人の子どもが心臓病を患った。病を治すには手術しかなく、男の子の壊れた心臓の代わりに亡くなった男の子の心臓がその子に移植された。
亡くなった男の子、ドナーになった心臓の持ち主の名前は“三宅新”。母が彼の生前の写真を見せてくれた。そこには茶がかった短い黒髪に、大きな栗色の瞳を持つ5才くらいの男の子が写っていた。幼い彼は見覚えのある明るい笑顔をこちらに向けている。


「今、貴方がこうして生きているのは新君のお陰でもあるのよ。だから、彼にも感謝しなくちゃね」
「……」

慈しむように母の手がオレの胸を撫でた。何の反応も返さないことは気にせず、母は微笑む。
暫くすると飲み物を買ってくると言って母親は部屋を出ていった。それを見届けてから、今度は自分の手で自分の胸に触れてみた。相変わらず心臓はドクドクと賑やかに動いている。そしてオレは落ち着かない気分の正体に気づいた。いつも傍にいるはずの新が、どこにもいないのだ。

「新」

名前を呼んでも楽しげに答える声はない。栗色の目を輝かせて笑う、同い年の少年はきれいさっぱり消え去っていた。
掌の下では心臓が忙しなく動いている。自分の状態と正反対なその動きに、オレは理解した。

これは新だ。
オレの心臓は新に食べられて、とっくに無くなっていたんだ。
今動いている心臓は新のもので、オレはオレの気づかない内に“新”と生きていた。

「新」

もう一度名前を呼んだけれど、やっぱり答える声はない。掌の下の心臓は休むことなくドクンドクンと鼓動を響かせている。悲しくないのに涙腺から温かいものがボロボロ溢れた。

きっと、オレのいる社会は何の変化もないままだ。学校に行けば暴言と仲間外れの毎日が続いている。だけど、今はもう誰かに文句を言える気持ちはない。
だから脳裏でいつものように笑う彼に、身勝手な言葉を沢山ぶつけてしまった彼に、一言だけ伝えておこう。

「ごめんな、新」

オレは記憶の中の新が昔の楽しそうな笑みを浮かべるのを、その鼓動を感じながら見た。




++++++
“鬼”を使った授業課題文でした。
たまたま肺移植の番組を見て思い付いたもの。
心臓を通してずっと一緒にいるけど、なくしてしまった存在的な話なんですが、授業で説明ができなかった口下手です。

ちなみにこの善徳くん、学園物にリサイクルされます。西沢木の城ヶ根くんのパートナーになるよ。

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