無くしたもの
幼い頃は少しの緑と荒野が広がるところで暮らしていた記憶がある。
風は乾いていて、雨も不定期に強く降る、決して住みやすいところではなかった。
それでもあの頃は、まだ笑っていた。そんな記憶がある。
母親は強かな人だった。
男にも気後れしない、けれど優しさと温かさを持った人だった。
人も良くて、きっとどこにいても好かれるし、生きていける人だったろう。
ただひとつ
その体がもっと強ければ、の話だが。
母は最期まで優しい人だった。
母が最後に手紙を送った親戚の家に、もしも行けていたらもっとマシな人生になっていただろう。
もしも、行けていたなら。
十年というのはきっと長いようで短いんだろう。
少なくとも、世界が大きく変わったようには見えなかったし、どこの人間もゆったりとその営みを育んでいる。
でも、十年は“俺”という人間らしきものを変えてしまうには充分な時間であったらしい。
まず、十年ぶりに人々を見て、笑い方を忘れていることに気づいた。
次に驚くことも。
その次に悲しむことも。
怒ることも。
喜ぶことも。
はしゃぐことも。
呆れることも。
落ち込むことも。
楽しむことも。
人の姿を見れば分かるはずの感情が、自らの内に欠片も湧いてこない。ただ、全てがよそよそしく目に写り何の感動もなく過ぎていく。
あぁ、きっとこれは“無”だ。
“俺”は何もない場所にいたから、何もかも喪ってしまったのだ。
でも、
それに気づいたところでなんの感情も抱けないなら、意味のない思考だったのかもしれない。
「・・・何見てるんだよ」
空よりも薄い蒼色が不機嫌そうに睨み付けてくる。
何でもないと雰囲気で伝えれば奴はさらに不機嫌そうに目をこちらから逸らした。
出会ったのは数ヶ月前。
不思議なもので、二人旅は意外と順調だ。毎日のように奴に突っかかれることを除けば。
変な奴。
笑って、調子にのって、不機嫌になって、イライラして、拗ねて、また喜んで・・・目まぐるしく表情を、感情を変えていく。それが何とも人間らしい。
引っ張られる俺に、やはり感情は戻らない。けれど最近、奴の感情の起伏に合わせて胸の底が疼く時がある。
戻る予兆だろうか?
それとも目覚めなのだろうか?
どちらにせよ、自分の何かが好転しているには違いはないだろう。
けれど足りないのだ、何かが。
欠けているのだ、何かが。
それが何かは分からない。しかし、十分ではないことだけは確かだ。
それは何なのだろう。
俺に分かるものだろうか?
奴が持っているものだろうか?
それとも手に届かないものなのだろうか?
「ふにゃ・・・・・・くすー・・・ぴー・・・・・・」
“女”という性別らしからぬ姿勢で昼寝をする奴を見つめる。
がさつな娘。横柄で、現実主義で、怒りやすくて、底抜けに明るい娘。
体が一回りもでかい男だろうが臆せぬ度胸も持ち合わせている。
強い女だ。
けれどちぐはぐな女だ。
まるで違う誰かの皮を被ったような印象が何故か拭えない。
本当に、
本当に彼女は強いのだろうか?
「・・・琥珀」
間近で名を呼ぶと目蓋がうっすら開いて、どこか焦点の合わぬ瞳がこちらを見つめる。
「んぁ・・・・・・にゃ・・・ふだ・・・」
「・・・・・・・・・」
怒鳴られると予測していたがどうやら相当眠いらしく、こちらが何も言わずにいると再び目が閉じられた。程無くして規則正しい寝息も聞こえてくる。
「琥珀」
今度は呼び掛けても目覚めない。
大人しく眠るその姿には男に立ち向かう勇敢さも、豪気さもない、ただの少女そのものだ。
首筋に指を添えればトクトクと小さな鼓動が響いてくる。生きていると伝えてくる。
起きたお前は先ずどんな表情を露にするだろう。それは激しいものだろうか。穏やかなものだろうか。
何でもいい。
何でもいいから見せてほしい。
それが俺の仕事だから。
それが俺がお前と共にいる理由だから。
「琥珀・・・」
そういえば、まだお前の悲しむ姿だけは見たことがない。
それを見ることができたら、触れることができたら・・・俺は喪った大事な何かを取り戻すことができるだろうか。
++++++
ふと、琥珀はたまに話を書くのに翡翠(主人公なのに)あんまり書いてないなと思い立ち。
どっちも成長期の環境があかんかったのや・・・。
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