コック・オフ


「せんぱい?」

 まっすぐに、俺のことを天馬の瞳が見つめている。それだけで胸がきゅうと締め付けられて、息が苦しい。
はじめのうちはただ、こっちを見ただけでも良かった。なのにいつからか、もっとこっちを見ないだろうか、とか、もっともっとその瞳を独占していたいとか、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことができないくらいの気持ちに育ってしまっていた。
 そしてもう一つ、同じくらいに膨らんだのは相反するような妙な気分。今度はそれのせいで、どれほど焦がれていようとも天馬の瞳を見つめていられなくなる。今だってそうだった。
逃げ出してしまいたい。頼むからそんな目で見ないでくれと、叫びだしたい。

 二つの気持ちがせめぎ合い、磨耗して、抑えていた感情の逃げ道を作る。
おさえられない。我慢がきかなくなるなんていつぶりのことだろうか。
悪寒とも快感ともつかないものがぞくりと背筋を這い上がる。体の真ん中、胃の辺りは冷たくて冷や汗が額に
浮かぶのに、頬も顔もとにかく頭が熱くてぼぅっとする。脳味噌がバカになるのに、思考回路だけは無駄に活発だ。
熱暴走でも起こしているみたいだ。理性の発するありとあらゆる命令を無視した俺の両手は今、天馬の両肩に乗せられている。いや、乗せるというより押さえつけていると言った方が正しいか。離さなければいけない。

 ここは学校だ、サッカー棟の廊下。汗と泥の入り混じった匂いで、つい先ほどまで人が使っていたことがわかるし、いつ誰かがここに来てもおかしくない。
夕日が窓から差し込んで俺たち二人を照らしている。それが今この空間を何か特別なもののように思わせて、どうしようもなく胸が高鳴った。
天馬のこげ茶の髪が、夕日のせいで赤々と燃えるような色に見える。半分以上は俺の影で遮られているけれど、アンバランスさがいっそう、熱を煽る。

「あの、霧野先輩?」

どうかしたんですか? と、まるで状況をわかっていない天馬の能天気な問いかけ。
それはどういう訳か、ひどく甘美な震えになって俺の耳に届いた。
甘さは熱に変わって脳髄を焼ききろうとする。ぐずぐずになった思考回路は未だ活発で、あっという間に毒のようなそれが指先まで広がっていく。触れたい、触りたい、どろどろと行き渡って、ついには喉がごくりと鳴った。
口の中はカラカラだった。もうダメだ、逆らえない。

 やわらかく、影の線をうねらせる頬にふらりと指が触れて、それから片手で包むように手のひらを押し当てる。
指先はかすかに震えた。怖い。建前も理性も押し流された後に残るむき出しの本音がどこへ向かうのかわからない。
まったくもって未知の領域なんだ、こんなことは一度としてなかったから。誰かに聞こえる訳もない言い訳を胸の奥で呟く。
欲しいと心の底から叫びが突き上げてくる。辛うじて俺の手が、天馬に触れるだけに押しとどめられているのは恐怖のおかげだった。
恐怖心をずっと抱えているなど耐えられるだろうか、いっそ捨ててしまえば楽になれるのか。

「……天馬」

 助けを求めるように絞り出した声は掠れていて、きっと俺が内に抱えているであろう欲望が滲んでいるように重たかった。

「霧野先輩、体調が良くないんですか?」
「わから、ないか」

 お前のおかげで色々とまずい、と言いたかったが、またあんな声が出るのかと思うと喉に引っかかって出てこなかった。
困惑した天馬の瞳が俺を見上げる。最近は笑顔を見ることが多くなったから、こんな表情を見るのは珍しい。
それが、たまらなく嬉しいと思った瞬間、最後の糸は切れてしまった。

「や、やっぱり…! 俺、今から誰かを呼んで来ま――」
「いや、いい」

 この状況でもわかっていない様子の天馬を、本来ならそういうことに疎い後輩なんだって笑って見守るべきなのかもしれない。
だけどそんなことをする気はまったく起きなくて、ああ駄目だ今の俺は本当に馬鹿になってる。

「いいんだ」

 ずるずる言葉が引き出される。

「今、お前がここにいてくれれば、それで」

 頬に触れていた手を滑らせて、親指で天馬のやわらかそうな唇をなぞった。
きょとんと目をしばたかせて、頭上には疑問符が浮かんでいるのが見えるようだ。

「あの、それってどういう、」

ちろりと赤い舌が覗いたのを見て、まずい、欲情した。

「天馬」

ぐっと顔を近づければ、流石の天馬も僅かに身を引いた。しかし後ろは壁で、ごつんと音をたてて頭をぶつけた。
痛そうだとは思いはすれど、逃がす気はちっとも湧いてこない。

「先輩、ちょ、ちょっと近くないですか」
「嫌?」

 天馬のにおい。俺はもしかしたら変態かもしれない。戸惑った天馬の声がたまらなく心地いい。
身じろぐ体を押さえつけているのが自分だという事実が嬉しい。暴力的と言えるほどの欲が押し寄せる。
もっと欲しい、自分の声がそう言ったのを聞いた気がした。けれどそれが俺を突き動かす前に、視界は暗転した。



 その後二日ほど熱に魘されたのは、とりあえずは風邪のせいということにした。
「やっぱり体調良くなかったんですね」と言う天馬は可愛かったので、頭を撫でておく。

どこかでまたひっそりと「キスがしたい」とか考えたことはおくびにも出さずに。



銃声よ走らせないで
(死神が囁くような硝煙が怖いの)


Back


<< >>
「#オメガバース」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -