残り香

 あの後、俺は高校を卒業し、都会のそこそこ名の知れた大学に進学した。高校三年になってから身なりだけ整えて必死こいて勉強したのを覚えている。
 それから、大学の近くの一軒家に引っ越し、久秀と二人で住み始めた。飲み会や打ち上げのたびに聞かれる「恋人の有無」を、のらりくらりとかわして、そのまま大学を卒業。近所の広告会社に勤め始めて、二年経った。
 大学時代の友人から、「結婚した」とちらほら聞くようになり、何がジューンブライドだ、と、半ばヤケになって久秀に「結婚してくれ」と言うと、何の躊躇いもなく許可を貰って、思わず泣いてしまった。それで、その日のうちに役所へ婚姻届を貰いに行った。渡してくれた女の子の、これから俺が社会的に幸せになる事前提の笑顔に、ほんの少しの苛立ちを覚えた。
 法的に認められない結婚。受理されないのなんか承知の上だ。俺と久秀が一緒になった証拠が、そうして形になって存在すればいい。提出する気はない。ずっとうちに置いておくつもりだった。

「妻になる人...って、一体どっちがなるんだろうな。顔だけで言ったら俺かな」
「どちらも想像ができないな」

 久秀はそう言うと二重線を引き、上に「夫」と書き足した。性別が女性になっているもの、全てに。

「生きづらい世の中だな」
「全くだ」

 結婚後の姓の変更には、チェックをつけなかった。
 どうせ、そんな事をしたところで生きづらくなるだけだ。
 一緒になっている事を知っているのは俺らだけで良い。

「本籍地...あー、忘れた。書類探さなくちゃ。押入れ探すかぁ」

 重い腰を上げ、もので溢れかえった押入れを開けて、奥の段ボールを引っ張り出すため手前にあるものを全て外に出す。
 久々に引っ越した時そのままにしてた段ボールを引っ張り出すと、本籍地が載っている書類と、高校の時使っていた携帯が出てきた。本籍地を書いた後で充電して起動すると、電話帳には懐かしい名がずらり。そういえば引っ越してから久しく連絡を取っていない。二日ほど前に同窓会の通知が来たが、返事を書かず放置していた。しかしこうして懐かしい名を見ると、久しぶりに会ってみたいと少しは思ったりするものだ。

「行ってきたらどうかね」

 と、久秀。

「教えてた生徒じゃんか。久秀は?」
「私に通知など来ていないよ。それに...他の生徒には興味が少しもなかったものでね。なまえの旧友とあれば気を遣いたいものだが...少しも覚えていない」
「はは、久秀らしいよ」

 一昔前の携帯の小さい画面に表示される元教え子の名前を覗き込むが、久秀は顎に手を当て眉をひそめたまま。古典に興味のあった生徒の話題が少し出たくらいで、他は本当に覚えていないようだった。電話帳をスクロールすると、もう懐かしくなってしまった名前が目に入る。

「長曾我部、か」
「チカの事は覚えてるんだ」
「仲が“良かった”だろう、卿とは。それに...あんな苛烈な出来事は忘れないよ」

 そう、あれから本当に全く連絡が取れなくなってしまった。学校でこそ見かけるものの、口数も少なくなってしまい、高三になって予備校へ通うようになってからは交流はほとんどなく、卒業式の日に会った程度。彼は他の同級生と親しくしていたようだから、きっと同窓会にも来るだろう。一回会うだけで良い。彼の近況が少し気になってしまっていた。

「久しぶりに...会うかな。良い?」
「構わないよ」

 机の上に放置したままの同窓会の通知に目を通し、取り出した新しいハガキに返事を書いた。
 また婚姻届に目を戻し、夫になる人の欄に、自分の名前を力強く書く。反対側の欄にも、松永久秀、と、しっかりと書いた。

「これで終わり...か」
「呆気ないものだな、こんなに待ち望んだというのに」
「待ち望んだ...?は、本当に?」
「まるで夢物語だが...私はこの瞬間を、長らく待っていたよ。恥ずかしい話だがね」

 思わず照れてしまう。長い間一緒にいたのに、今だってそんなことを言われると心臓が跳ねる。
 保証人は、ここの家に住むときにも頼った、不動産屋の友人に頼もう。彼もまた同性のパートナーがいて、入居時には話を親身になって聞いてもらったものだ。
 そう思って、婚姻届をベッドの隣の小さな机に飾った。

「久秀...ふふ、俺は全くもって幸せだよ」
「私も...だ」

 八年前から変わらないそばにあるその頬を撫でて、ダブルサイズのベッドに押し倒した。

***

 この辺りでも名の知れた高級ホテル。そこのホールを貸し切って同窓会をやるらしい。数年前、成人式のために仕立てて貰ったスーツを着て、受付で名前を書く。ちらりとリストに目をやれば、昨日も見た懐かしい名前が。
 海外へ行ったり仕事の事情だったりで来れなかった奴らもいたが、基本的にほぼ全ての元生徒が揃った。変わった奴もいれば、変わらない奴もいた。いつのまにか指輪なんかしちゃってる奴もいて、あの頃との変わりように驚く。

「なまえちゃん?」
「さ、すけか。久しぶりだなぁ」

 呼ばれて振り返るとあの頃と変わらない橙色の髪をした佐助。今はIT系の企業に勤めているらしい。聞けば名の知れたところで、何度か発注の依頼があった記憶がある。

「いやぁ、みんな変わったね。佐助は変わらんけど」
「俺様だって色々成長したんだぜ?まあ見た目にはわかんないかもしれないけどさ」

 ワイングラスを片手にニコニコと。あの頃と変わらない...いや、少しだけこなれたように思える笑顔を向けてくる。思わず話が弾んだ。俺も酒も煽り、なんとなくいい感じになったところで、舞台にあるスクリーンに誰が作ったか「思い出ムービー」のようなものが投影され始めた。

「うわ、これ文化祭ん時のだ!この後真田がコケてさぁ!」
「うわぁ!恥ずかしい!あたし太ってる!」

 色んなところから笑い声やらなにやら、昔を懐かしむ声が聞こえる。
 そして映像は変わり、画面に映し出されたのは肩を組んでポーズを決める俺とチカ。

「あ、長曾我部。そういえば、なまえちゃん急にあんまつるまなくなったよね」

 そういえば、こいつに会いたくてここに来たんだった。会場を見渡せど目立つ銀髪は見当たらない。受付の時のノートにも、入場済みの名前には無かったような。まさか、来ないのだろうか。まあ、仕事が被ったのなら仕方ないけど。もう俺らも社会人だ。あの頃のようにすぐ集まるなんて、簡単ではない。

「まあ、ちょっとね。ケンカしてさ。大した事じゃねーんだけど」
「え、何々、女関係?」
「う、あー...ま、あ、そんなもん、かな」

 酔っているのか何なのか、興味津々な佐助。思わず口ごもってしまう。あの時あんな事をしたが、チカを失ったのは少し寂しかった。...とはいえ、あの時と全く同じ事をしてしまう自信があるのでもう諦めている。このくらい時が経てば、相手ももう避けるような事はないだろうと思って、この会場に来た。
 しかし待てど暮らせど全くチカは会場に現れず、そのまま会は二次会へ。広めの居酒屋を貸し切って、乾杯をする。昔の悪友の変わりように驚きながら、俺はまだ来ない相手を待ち続けた。
 だが、待てど暮らせど奴は来ない。もうあきらめてそろそろ帰ろうかと顔を上げると、店の入り口に待ち望んだ銀髪が。あの頃とは少し違い、色気を身に纏っている。その風貌は...どことなく、水商売の匂いがした。

「チカ」
「なまえ...その、久しぶりだな」
「本当だよ。ほら、こっち座れ」

 正面の空いている席にチカを誘導する。俺と同じテーブルのあの頃ヤンチャした仲間と、すぐ昔の話題で盛り上がった。別の高校のあいつは結婚した...とか、バイクいじってて指挟んだ...とか。話を聞けば、チカはどうやらホストになったらしい。子綺麗になったチカの拳には、あの頃我慢比べをした時の根性焼きの跡がまだ残っていた。

「ふふ、ホスト、か。何、歌舞伎町とかで働いてるの」
「おうよ。指名だって取ってんだぜ」
「はは!お前顔良いからなぁ」

 そういえば、少しだけ話が上手くなったような気もする。チカにも少し酔いが回ったところで、悪友たちは今までずっと気になっていたであろうことについて口を開く。

「何で元親となまえ、つるまなくなったんだよ」

 しばしの沈黙。先に口を開いたのは、チカの方だった。

「まあ、ちょっとしたケンカだ」

 そう吐き捨てたチカは、あの頃と変わらない、アメスピ6ミリを懐から取り出すと、火をつけて吸い出した。
 あの時俺が拾った、薄い橙色色のパッケージ。その残り香は、変わらないままだった。

***

 あの後喧嘩の内容に触れられるようなことはなかったが、話が弾み酒を飲みすぎたようで、頭の中が揺れる。チカがあの頃と変わらず接してくれた事に安心して、少し歯止めが効かなくなってしまったみたいだ。同じテーブルの仲間や別のテーブルのやつと連絡先を交換して、幹事に金を渡して帰る事にした。そのまま携帯で、久秀に「今から帰る」とメッセージを送った。

「なんだ、なまえくん。もう帰るのかい?」
「あー、うん。ちょっとね」

 幹事の半兵衛は少し名残惜しそうに手を振ってくれた。久秀の授業を楽しんでいた数少ない生徒の一人、半兵衛は、あの後大学院に行き、今は博士課程らしい。俺とはえらい違いだ。
 ようやく靴を履いて立ち上がるが、思ったより酒が入っていたらしく、足元がおぼつかない。これは一人で返すのは危ないと判断してから、チカが「送る」と言い出し始めた。

「ばぁか、ホストだろ?お前。男なんか送ってどーすんだよ」

 ちょっと皮肉を言ってしまったかもしれない。ただ、チカにはもう少し同窓会を楽しんでいて欲しかった。

「何言ってんだよ。そんなフラフラで返せるわけねぇだろうがよ。どうせ俺明日早いから、送ってくぜ」

 そう言うとチカは荷物を持って、身支度を始めた。まだ来たばっかりなのに、と文句を言う奴らに「顔を見せに来ただけだ」なんて言って。
 チカは俺の肩に手を回すと、俺に合わせて歩き出した。あぁ、こうやって歩くのも何年ぶりだろう。
 居酒屋から出れば、夜風が頬を撫ぜる。それくらいでは、酔いは全く覚めない。

「...その、あん時は悪かったな」

 チカが口を開いた。

「...え?あぁ。まあ、しょーがないだろ。俺も悪かったよ」
「俺さ...あの後夜の世界に飛び込んで、その...そう言う人沢山見てよぉ、なんか...俺らと変わんねぇんだなって」

 あぁ、確かに、いるだろうなぁ。

「...まあ、チカがそう思ってくれたなら良いんだけどさ。てか、生徒と教師だぜ?ドン引かない方がおかしいっての」

 自嘲的に笑う。そういえば、先に手を出したのはどちらだったか。
 チカは返しに困っているようで、ウンウン唸っていた。

「...あいつとはどうなったんだよ」
「どうなったも何も。今も一緒だよ。何のために大学行ったと思ってる」

 大学に行くから引っ越すというのは口実で、一緒になるために誰も俺らのことを知らない遠くへ行きたかっただけだった。久秀は今は教師ではなく学芸員をやっている。
 チカは「そうか」とだけ言って、通りかかったタクシーを止めた。
 乗り込んで、住所を伝えると、運転手は何も言わずに車を発進させる。

「そうか、今なまえはそこに住んでんのか」
「おう。てか、俺の家が遠かったらどうするつもりだったんだよ」

 未だ揺れる頭を落ち着けようと、シートに頭を乱暴に押しつけながら言う。

「それでも電車乗らせるの怖ぇから...タクシー乗せただろうな」
「はは、二枚目だな」

 それからまた過去の話を弾ませ、もう遠くへ行ってしまった他校のやつの近況を聞いた。まだ就活してるやつもいれば、内定が決まったが、親が倒れて実家へ帰った奴もいるらしい。どうにも世の中はうまく行くようにできていない。

「そうだ、せっかくだから久秀に顔見せてけよ」
「松永...か。今一緒に住んでるのかよ」
「おう...今度、結婚すんだ」

 あぁ、また、余計な事を言ってしまった。理解がある...みたいな、そんなアピールをする奴に興味はないのに。それでも、何故だろうか。相手がチカだからだろうか。やっぱり、誰かに、幸せになることを、言いたかった。

「そうか、おめでとう」

 ...おめでとう?

「え、何、祝ってくれんの」
「当たり前だろ、なまえが結婚すんだから」
「喜んでいいの、おれ」
「当たり前だろって」

 いつもはもう少し躊躇う涙が、次から次へと流れ出る。まさか、お前に、俺の存在を肯定して貰えるだなんて。

「うわ、泣くなって...あん時さ、流石にビックリしてお前と距離を置いたんだ。...考える時間が欲しくてよ」
「それでまた納得できるお前が好きだよ」

 いつのまにか流れる景色は見慣れたそれに変わっていった。運転手に曲がるところを細かく指摘して、家の前に止めた。

「いくらだっけ」
「良いよ、俺が出すから」

 そう言ってチカは1万円を運転手に渡す。帰ってきたのは少ない小銭だった。

「悪いね」
「まぁ...気にすんな」

 降りてすぐ走り去っていったタクシーから視線を戻せば、見慣れた一軒家。久秀にほとんど負担してもらって買った黒いセダンと、通勤用に使っている黒い自転車が玄関前に並んでいる。こんなに暗い時間なのに、リビングの電気はまだついていた。俺も久秀も、夜更かしが好きなのだ。「名字」と書いてある表札の下のインターホンを押すと、帰ってきたのは、愛しい久秀の声。

「誰かね?」
「俺だよ、久秀」
「...随分と飲んだな」
「ついつい盛り上がってさぁ」

 ガチャリと鍵の開く音がして、玄関が開く。
 出てきたシャツ姿の久秀は、俺の後ろにいる人物に少し驚いたようだった。

「長曾我部...か、変わったな」
「...まあ、な」
「まあ良い、入りたまえ」
「お、お邪魔します」

 見慣れた玄関、慣れた動作。変わらない景色に安心したのか、靴を脱いだところで急激に眠気が襲ってきた。

「チカ、明日早いんだろ、大丈夫なのかよ」

 誘っておいたのは自分なのに、今度は帰そうとしている。自分で自分の思考にびっくりだ。これだから酔っ払いは、と、自分で自分に呆れてる。
 リビングへ入り、余っていた椅子にチカを座らせた。

「口実だぜあんなの。なまえに謝りたくて来たんだ。二次会に出てなかったらどうしようかと思ったが」
「はは、マジで?俺もチカに会いたくて行ったんだよ」

 俺らが話し込んでいる間に、久秀は冷蔵庫から二人分の麦茶を汲んで、机の上に置く。変なところが家庭的なのも久秀の魅力だ。

「飲みたまえ」
「お、おう」

 チカは距離感がわからないようでドギマギしている。俺は眠気に耐えながら、なんとか場を和ませようと会話を続けた。するとそのうち、チカの目線が寝室の方へ向く。

「あれって...」
「卿も知っているだろう、婚姻届だよ」

 チカは立ち上がると、リビングから廊下を挟んで寝室へ向かう。額に入れられた婚姻届を見て、久秀と何やら話していた気がするが、もう眠くて意識を保つのがやっとだった。そのうち力の抜けた体はダイニングテーブルに突っ伏して、まぶたを開けるのすら億劫になる。机の冷たさが微かに感じる程度になって、チカと久秀の声が遠ざかっていった。

***

 目を覚ますと、体は重く、ひどい頭痛に胃の倦怠感を覚える。慌てて昨日の記憶を思い出せば、同窓会で、飲み過ぎた酒。そもそも、何のために同窓会へ行ったんだろうか。
 それに加えてどうやって家に帰ったかもまるで覚えがなく、思い出すのに時間がかかりそうだった。何故今自分がベッドに寝ているのかも全く覚えていない。ふと隣を見るが、久秀はいない。酒臭い俺と寝たくなかったか、もう起きているかのどちらかだ。窓から見える景色からは早朝という感じはしないから、恐らく後者だろう。
 とにかく風呂に入ろうとベッドから体を起こすと、ベッドの脇に置いてある小さな机が目に入る。これは寝る前に本を読むためのランプと、目覚まし時計を置くためのテーブルだった。ついこないだ書いた婚姻届が飾ってあるのもここだ。だが、本来なら二つ空きがあるはずの保証人の欄に、一つしか空欄がない。何故だろうと覗き込めば、背後、リビングから声。

「起きたのかね、早くシャワーを浴びたまえ」
「久秀。俺、昨日...」

 振り返り、彼を見ると、彼の背後に見慣れたダイニングテーブルが見えた。客人の忘れ物か、テーブルの上の紫色のハンカチが気になって、言いかけた言葉を止める。
 近づいて、それを手に取る。
 嗅ぎ慣れたアメスピ6ミリの残り香。元親を思い出すのに時間はかからなかった。

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