春風の香り(ss)

黒い書物から抜け落ちた頁。


双子が生まれるよりも前の噺ー。
それはまだとある春の季節のことから始まる。
齢十六の元服も無事に迎え、順風満帆にそのまま当主の座についていた夜風には最近許嫁が出来た。
名を都。夜風が元服した頃から女官として側にいることも多かった女性である。
齢こそ夜風よりも下ではあるが、元々面倒見が良い女性なのだろう。何処かしら抜けている夜風を動かすことが他よりも上手かった。
現補佐官よりも補佐らしかったと当時をもし知る者がいたらそう述べるに違いない。
そういった仲が続き二十歳を越えた頃、何の問題もなく二人は婚約。都は当主家系が暮らす屋敷へと住むことになった。
時は二人が今の双子と同じ齢程度になった所まで進む。
都の体には既に一人の命が宿っていた頃であった。

「ねぇ、貴方ったら。聞いていて?」
「……うん?あぁ、聞いているよ。図書棟の天井が抜けたんだってね、大変だ。」
「あら、それは初耳ね。ちゃんと資金は割いてるのかしら?」
「あれ、舞楽棟の方だったかな。」
夜風の手元の書類を覗き込んだ都が視線を落とせば、これまたその発言とは全く関係のない仕事の内容のものが広げられている。
仕事はきちんと出来る方でありながら、他人の話は何処か聞いていない夜風の癖は都が出会った頃からのことであり、半ば諦め掛けているものでもあった。
書類から顔を上げない夜風の反応にもめげずに頬に両手を伸ばせば、ぐい、とその頬を包み込んで顔を自分の方へと都は上げさせる。
黒瑪瑙の瞳にやっと自分の姿が写れば満足気にその瞳は細められた。
「私、子供の名前の話をしているのよ。」
「……子供?親戚の子でも生まれるのかい?」
「ここでそんな呆けをすると思って?私達の話なのだけど。」
「……まぁ確かに何れは考えなくてはいけないものだが、少しばかり早くないかい?だってまだ性別だって分からないというのに。」
「あら、少し先走っても良いのでなくて?私、自分の子供に名前を付けてあげられることが昔から楽しみだったのよ。親になって初めてあげることが出来る物ですもの。」
都の体に新たな命が宿っていると分かったのはついこの間のことである。まだ腹も大きくなっていない段階では性別など分かる筈などなかった。
それでも珍しく童子のように子供の名前を決めたいと提案する都の顔に夜風自身も強くそれを突っ撥ねる手段は持ち合わせていなかった。
夜風は手元にあった書類を脇に避け、新しい半紙を手に取れば筆の先に墨を付ける。その様子を都はくすくすと可笑しそうに笑えば、覗き込んでいた態勢から机を挟んだ前へそのまま座ろうとする。
夜風は都のその動作を止めれば自分が座っていた座布団を抜き、無言で差し出した。
「それで?私の妻はどんな名前を閃いているのかな。」
夜風から差し出された座布団を下に敷いて今度こそ座った都は両肘を机に乗せ、そこに自分の顎を乗せる。綺麗に整えられている桜貝のような爪が部屋に灯る光に照らされてきらりと小さく光った。
「貴方の家系は皆、« よ»という文字が名前に入っているでしょう?だとしたらやっぱりそれは受け継いでいかないといけないわ。」
「絶対入れないといけないわけではないよ。私は一人息子であるから例はないが、叔父にはその名前の仕組みは含まれていないからね。」
「当主になる人は皆入っているじゃない、だったら私もそれに習うの。」
「ううん、都は真面目だなぁ。」
何処か拘りがあるらしい都を夜風は苦笑い混じりに見つめた。
妻のそういう質に何度も助けられたことではあるものの、どちらかといえば大雑把であることが多い夜風からすれば細かいことを色々とよく覚えていられるものである、という感想である。
口に出せば恐らく就寝時間まで小言が続いてしまうことが分かる為、そこまで愚かな男ではなかった。
「都が今思い付いているものはどんなものないんだい?」
「そうね……世を見通す、という意で世通とか、もしくは世弥?貴方の字を使って夜に変えてもいいかもしれないわね。あとは次期当主になる子になのだから……一(はじめ)に与える者、という意で与一、というのもいいかもしれないわ。」
「まだ男児と決まったわけではないのに些か早いね。都、周りの老中達が跡継ぎをと言っているのは分かるが考え詰めすぎてはいけないよ、子供は授かり物だからね。」
「分かってはいるわよ。でも男児の可能性も半分はあるのだからいいじゃない。というか貴方こそ、そんなことを仰るのは誓約違反でなくて?鞭打ちなんてされる所は見たくないわ。」
「バレなかったら大丈夫さ、バレなかったらね。」
「……貴方って意外と血が通っているのね、もっと当主に魂を捧げている酷い人だと思ってたわ。」
本当に分かってるのだろうかと当主の誓約へと話を変えた都の様子に夜風はそっと息を吐いた。
例え家族といえども贔屓するなという当主への誓約は確かに夜風にとっても面倒臭いものではあるが、それよりも今は都の真面目さにも頭を悩ませるものだった。
それこそ今後も老中達の言葉を真に受けて押し潰されなければ良いのだがという思いもあるが、それを夜風がはっきりと口にすることはなかった。
思えば、この辺りで何か話し合っていれば何か変わることもあっただろうか。今となっては夜風さえも分からない話であった。

同じ当主を頂く集落の者といえども、皆が同じように祝福出来るわけではない。御所で働いている女官達も数え切れない程いる。だからこそ都に良い感情を持っていない者がいるのも当たり前であった。その中で行動を起こす者がいるかいないかの差のみである。しかしその差は大きい。
臨月にも迫る頃、事件は起こった。

「当主様!奥方様が階段から……!」

御所にある大きな階段から都が落ちたのだという。
身重である故に最近の都は屋敷内に籠りがちであった。
しかし今日はたまたま書類の手続きに此方へ赴いていたらしい。
夜風が駆け付けた時には普段から考えられ無いほど、それはもう酷い混乱具合であった。
ー 階段の上で誰かに背を押された。
都自身はそう明言するものの見た者は誰もおらず、そういったことを証明する方法もこの集落は持ち合わせていなかった。
そして当然、身篭っていたはずの子も、
「嘘……嘘よ!だって、あの子は、ここに居たのよ!数刻前までは、ちゃんと……!!」
「都、落ち着いて、」
「子供を奪われて何故そんなに貴方は冷静なの?!家族なの、私達の子供のことなのに……っ、」
「都。」
「嫌いよ、皆!貴方も変わったわ!」
その場で泣き崩れる都を、その言葉を跳ね除けて慰める術を夜風は持っていなかった。
今はただ、数ヶ月前の子供に名をあげられると笑っていた彼女がやけに遠く感じた。
現場を見ている者もおらず、詮索する術を持っていない集落ではそれは都が寒さで凍っている階段に足を滑らせて転落したということで済まされた。
都にはそれがどんなに残酷なことであっただろうか。夜風も自分の子を失っているのである。流石に、と口を挟もうにも家族だからといって肩を持つのか、誓約は、と言われてしまえば口を噤む他なかった。

表向きは自身の不注意ということで跡取りである筈だった子を失った都に周囲は手厳しかった。
子はすぐに出来るものでもない。
ましてや転落した時の衝撃や都の精神面を含めて、それが上手くいくはずもなかった。
それに反して早く男児を、と急かされることも少なくはない。
妻の体に無理強いはさせたくはない、という夜風の願いも聞き届けられることはない。
この時、既に都の精神を考えると辛うじて糸一本で繋がっているようなものだったのだろう。
そしてどうにか繋ぎ止められていた願いは双児を生んだ。

片方は強いという言葉では済ませられない程のその身では持て余してしまう妖力を持った男児、もう片方は自分で生む妖力も持っている妖力も殆どない障害を持った男児。
あれ程男児を、と願った老中や古株の官吏達もこれは予想が付かなかったのだろう。
集落を仕切る当主の一族に障害児など……、ざわめく周囲からはそれ程の焦りが見えた。
元より、烏天狗は排他的な種族である。これは自身達とは違う者にとっても適応された。
ー 当主の家系に恥を塗る前に消しておかねば。
満場一致でそう結論が出るのも当たり前のことだろう。
「私の……私の子供を殺すというのですか?!」
「それがその子供の為だと言っているのです。」
「貴方がたが、望んだのじゃないですか、早く男児を作れと!」
その言葉に産後の疲労など気にせずに髪を振り乱して声を荒らげるのは布団で横になり休んでいる都だった。
そんな妻を夜風は自分に凭れ掛からせるように抱き留めながら、官吏たちを、双児を、そして妻へと視線を送った。
ー なんと哀れな。
自分達の地位を必死に守ろうとする官吏達も、一人目を失いなおも必死に自分の身を削る妻も、望まれていないにも関わらず生きようとしている障害児も。
そして一人、当事者にも関わらず達観して見つめている夜風自身も酷く滑稽であった。
だが達観ばかりしているのも良くないだろう。夫、父親としての自身を殺し当主として一番望まれているであろう選択を取らなければならない。
今から都にとっては残酷な選択をする自分を見れば、彼女は自分を“ 当主に魂を捧げている酷い人”として確実に認定されてしまうだろうか。
ー いや、だが、
「……もう嫌われていたか。」
一人目を失った時に既に、彼女の中の自分への認識は変わっていたかもしれない。
結果的に、障害児は消すことは出来なかった。片割れである強い力を持っている男児が止めるかのように力を暴走させたからであった。
時が来るまでは、と周囲を納得させその場を夜風は治める。
生きることを許可した障害児は與未、その子を守ろうと自我がなくともその身に余る力を暴走させた子は與市と名付けられた。
その後暫くは何事もなく、季節は二、三転と繰り返す。

桜が満開の庭で子供達の声が反響する。姿が見えないので恐らく庭の奥の方で二人で遊んでいるのであろう。
自身の部屋である縁側で都は庭の桜をぼんやりと見ていた。
産後の体調は崩れることはなかったが、双児を産んでも何処か周囲との溝は感じたままである。
夫である夜風はといえば、
「おや、起きていて平気かい?」
「今日は暖かいから平気よ。それより、貴方こそ帰って来るのが早いのね。いつも子供達が寝てから帰って来る癖に。」
「仕事が落ち着くのが早かったからね。あの子たちは?」
いつもは帰ってきても大量の書類を腕に抱えているが、今日は本当に仕事が落ち着くのが早かったのであろう。いつもの普段着へと着替えているその姿が都の隣に腰掛けた。
「庭で遊んでいる筈よ。ねぇ、ずっと聞きたかったのだけど、」
「何かな。」
「名前。真面目だとか言っていたのに。」
「折角都が懸命に考えてくれた名前じゃないか。」
「……でもあの子は、本当によいちと名付ける筈だった子はもういないわ。」
「都、あの子は残念なことだった。でも、今の與市と比べてはいけないよ。」
「同じ名前を持っているのに比べるな、だなんて残酷ね。ねぇ、字名は違っても與市は“はじめにあたえる”意から来ているのでしょう?」
「そうだね、あと市という文字は人名に使用すると明るく楽しい人柄で、多くの人を引き付ける魅力ある存在になることを願ったものになる。だから次期当主となるあの子には似合っているだろう。」
「あの子、当主になりたがるかしら。誰に似たのか分からないけれど、すごくやんちゃなのよね。……ねぇ、なら與未は、」
兄として育っている與市と生まれることが出来なかった息子を比べるつもりはないが、一度失った者と同じ名前にするのは如何なものだろう。都の肩を竦めて小さく吐き出した仕草を見ると夜風はゆっくりと名前の説明を始める。
都の容態が安定し、夜風の仕事が落ち着くまでそういえばそういった話をゆっくりする機会もなかったことを思い出したようだった。
與市の由来は理解したがならばもう一人の官吏達に殺されかけた片割れは、と都が口を開こうとした時だった。
「母様、母様!みて!」
「あれ、父上もいる。おかえりなさい。」
「ただいま。與未、羽織は着ないとまだ体が冷えてしまうよ。與市は何をしてきたんだい。」
庭の奥から駆け寄ってきたのは十もまだ数えず、背にある翼もまだ飛べることが出来ないそっくりな顔をした二人の幼子。
兄は何処で何をしてきたのか顔に擦り傷に頭や服には葉がたくさんついており、弟は自分の羽織を脱いで何やら大事そうに抱えていた。
弟が持っていることから虫などではない事は確かだが、諭す夜風の言葉は気にもせず都の目の前で羽織にくるまっていたものは開けられた。
「さくらんぼ……?」
「少し小さいけれど木になっていたのを與市が見つけたの!でもぼくは木に登れなかったから、」
「おれが登って、落としたのを與未に取ってもらった。果物なら体調が悪くても母上も食べられるだろ?」
庭にある植物は既にたくさんのものがあり、都も夜風も把握していなかった。羽織に包まれている様々なさくらんぼは本来果物として食膳に出される物よりは小さいものの双子揃って懸命に落としたのだろう。何処か自慢げなその表情に思わず都はくすりと笑みを零した。
「……ありがとう。あとで使用人の方に頼んで洗ってきてもらいましょう。でも與市、頬に傷が出来てるわ。先に手当てを、」
「滲みるから嫌だ。與未、逃げるぞ!」
「こら、與市!待ちなさい。」
「えっ、與市待って!置いてかないでよお!」
「與未、湖の方まで行っては駄目よ。與市にも伝えておいてちょうだい。」
「はぁい!」
「…………何ともまぁ、逃げ足の早い。本当に誰に似たんだろうね。」
「若い頃の貴方でなくて?」
「そうかな、感情の激しさは君に似ているけれど。」
「じゃあ與未の抜けているところは貴方ね。」
手当てという言葉を聞いた瞬間、小さな翼をばさりと動かして庭の奥へと逃げる背に都は大きな溜め息を吐いた。
弟の與未はといえば、両親の顔を一度ちらりと確認するものの名前を呼ばれた兄に着いていくことを選んだようで踵を返した。
湖は底が深い為、まだ幼子には危険である。それを言い聞かせるように言えばしっかりと返事をして兄の後を追いかけるように庭の木々の中へと消えていった。
今はまだ元気そうな與未の姿に夜風はそっと目を細めた。
近いうちに未来がどうであれ、今はただ短い春を楽しんでほしい。そう思いながら。

「あ、カタバミ。」
「なんて?」
「これ、葉が食べられて一方が欠けているように見えるでしょ?だからカタバミ。」
「ふーん。」
「與市、すっごい興味無さそう。」
「じゃああれは?」
「あれはカミツレ。」
「あれ。」
「ハナビシソウ。」
「おー。」
ぱちぱちとあまり気力がない音で兄の與市の手が叩かれる。
感心しているのかしていないのか、分かりにくいが様々な花が咲き誇っている庭でその音はやけに大きく響いた。
「それ全部いつも読んでる本で覚えてんの?」
「そうだよ。気になったらまずはちゃんと調べない?」
「調べない。」
「もう……。ぼくね、たくさん勉強して、色々なことが分かるようになったら父様のお仕事助けるの。市場にもたくさん行くし、集落の外だって知っていることがたくさんあれば怖くないから。そしたら母様ももっと安心して過ごせるよね?」
「勉強したいなんて変な與未。おれは……そうだなぁ、與未が勉強して頑張るなら與未が自由に動けるように色々手助けする。」
「ええ、與市は父様の跡を継ぐんじゃないの?」
「だってそれ勉強しないと駄目じゃん。」
「勉強はやらないといけないんだよ、與市。」
二人しかいない庭の片隅でお互いの笑い声だけが響いた。
春の日差しが降り注いでいる花の近くで與市はどさりと腰を下ろす。羽織を両親の元へ置いてきてしまったままなのであろう與未の手が腕を摩っているのを見ると自分の羽織を脱いでその肩に羽織らせれば、小さな礼が返ってきた。
表面上はあまり変化がないが、最近與未はやけに寒がりになってきたような気が與市にはしていた。
最初の頃は冬だからだろうと思っていたが、春になって日差しが暖かなものになっても変わらなかった。
弟の僅かな変化を気にかけながらも自分の羽織を使っているその肩に体重を凭れ掛からせれば重いと苦言を口にされる。
「與市。」
「うん?」
「……何でもない。そのほっぺたの傷、戻ったら手当てしてもらわないと駄目だよ。」
「放っといてもこのくらい治るって。」
「駄目、ちょっとの傷でも甘く見たら駄目だってこの前父様が言ってた。」
「じゃあ、手当てする間、與未が手握っててくれよ。痛いし。」
「仕方ないなぁ……約束ね。」
「約束。そしたら頑張る。」
手当てする間という話だった筈だが、既に座っている與市の手の上にするりと與未の手が置かれる。
日差しの中にいるのにも関わらず、その手は少し温かった。
結局夜風が迎えに来るまでそこにいた二人は都にこってりと叱られ、與市は怪我の手当てに大騒ぎをし與未を呆れさせていた。

これはまだ全てが壊れる少し前の噺。







春風の香り




(2/26……烏天狗の双子の誕生日。
*名前の由来
・與市:元々は都が考えた一(はじめ)に与えるという意で与一。与えるを同じ意を持つ與える、一を人が集まり明るく楽しい人柄で、多くの人を引き付ける魅力ある存在にという意を込めて市という字名に変えた。
・與未:元々は都が考えていた世を見通すという言葉から。與えられ未(ず)の子。力の障害を持っている故に官吏達から前向きな意を持つ名は認められなかった。未という字は枝葉が茂る意味を表す漢字であることから、伸びやかに、無限の可能性を秘めた人になるという願いを込めて、夜風はその字名を選んだ。なお、官吏達には気付かれていない。)

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