君に捧ぐ
君に言えなかったことがたくさんある。
君に伝えられなかったことがたくさんある。
空港のターミナルは、幾分か込み合っていた。
時間まではまだある。だから彼女と言葉を交わす時間くらい――彼女へ伝えるべき言葉を伝える時間くらい、十分にある。
しかし、俺は逃げるように、手にかけたヴァイオリンケースを小さく握り閉めた。
「あの、元気でね……」
遠慮がちな声は、いつもよりも一層何処か辿々しい。
何か言葉を紡ごうとして、それでもその唇は何も言葉を形作ることなく、耐えるように結ばれる。
彼女もまた言葉を探していた。二人を繋ぐ言葉を。
ヴァイオリンのために留学することを伝えた時、彼女は待ってるとも別れようとも言わなかった。何故なら、俺が待っていてとも別れようとも言わなかったから。
遠慮がちな彼女と、言葉足らずの俺。同じ演奏者であることが架け橋になったとしても、そもそも、よく付き合えることになったと思う。
*
彼女との出会いはいつだっただろう。そう遠い昔の話ではない。同じクラスになって、授業で二重奏をすることになった時だ。
決してお世辞にも上手いとは言えない彼女と、上手いが無愛想な俺。お互いに組む相手もいなく、仕方なく組んだことが始まり。
『あ、あの! よろしくね!』
『迷惑はかけないでくれ』
『……はい』
理不尽な俺の言葉に、彼女は可哀想なくらい項垂れ謝罪をした。
そんなちぐはぐな俺たちだったが、音楽を合わせる中で、次第に距離が縮まっていった。
彼女は下手だったが、ひたむきで、真っ直ぐだった。俺も組んだこともあり、厳しくだが色々教えた。
『どうして、そんなに辛そうに弾くの?』
彼女の演奏は、技術的にはまだまだ未熟で、辿々しくて。だが、とても澄んだ音色だった。
それは彼女の心が真っ直ぐで、心から音楽を楽しんでいたからなのだろう。
『音楽はね、心を伝えるためのものなんだよ』
彼女と出会って、俺は自分の愚かさに気付いた。
技術だけを見て、それだけでいいと思っていた。
こんなにも音楽は美しいのに。こんなにも音楽は楽しいのに。
何も見ていなかった。見ようともしなかった。
『何を弾いてるの?』
『G線上のアリアだ』
『あの、一緒に……』
『好きにするといい』
『あ、ありがとう!』
いつだって、当たり前のようには隣で彼女は微笑んでいた。
幸せだった。
彼女がいたから、俺は優しい音色を奏でられるようになった。
いつの間にか、彼女のために弾くようになっていた。