どれほど、彼女の存在が俺の支えになっていたことだろう。離れることになって、ようやく身に染みるようによく分かった。
 ありがとう。
 君に出会えて良かった。
 君が好きだ。
 待っていて欲しい。
 しかし、沢山の想いはこの胸のうちにあるというのに、それでも、一つとして形をもって言葉になることはなかった。

「君も、元気で」
 ああ、だからこの唇が紡ぐ言葉は、たったそれだけ。
 味気ない、恋人たちの別れとしては、簡易過ぎる言葉。二人を繋ぐものが、何もなくなってしまうかのような、言葉。
 それに胸を痛ませながらも、俺は何も言えずにいた。
 仕方のないことかも知れない。いつだって俺たちの会話は音楽だったから。何かを伝えようとしても、結局言葉に詰まり、音楽を奏で始める。それが、俺たちの常だった。
(……ああ、ならば、それでいいじゃないか)
 自分の辿ってきた思考で、はたと気付く。
 それに気付いてしまえば、どうして気付かなかったのか、そんなことすら思う。
 伝えないことを選ぶより、そちらの方がどれほど良いだろうか。
 俺たちは、演奏者なのだ。音を奏で、心を伝える者。
 俺は、ケースに入ったヴァイオリンを取り出す。
「え?」
 その唐突な行動に彼女が瞠目するものの、構わず俺は弓に、弦に手を掛ける。
 まるで自分同然のように付きあってきた楽器に、心を預ける。
 音に託そう。不器用な俺たちだから。
 音楽はきっと、言葉よりもずっと伝えてくれる。
 彼女を見つめて、俺は静かに音を奏で始めた。





 響き渡る音色が、雑踏を変える。
 木漏れ日のような、春風のような、優しさと愛しさを感じるような音色だった。
 それでも、そこに密やかに息づく甘くも切ない感情。
 こんな音色を奏でられるだなんて、自分で思いもしなかった。
 彼女に出会って変わった音色。彼女に出会って知った温もり。

 緩やかな音の調べ。
 切なくも柔らかな、音色。
 彼女に出会って、変わった俺のすべて。
 硬質だった音は、まるで春の雪解けのように、温かくなった。
 一音一音、奏でるたびに零れ出してしまいそうな想い。
 自分自身とも言えるような愛器に、心を預ける。

 ありがとう。
 君がいたから、音を紡げた。
 君が好きだった。
 いや、これからもずっと君が好きだ。
 どの音色も、俺の演奏は全て、君に――君だけに捧げる。
 だから、どうか泣かないで。
 愛しい、愛しい君。

 最後の一音が、鮮明に響き渡り、演奏を終わる。


「あ、あの。空港で弾き出す、なんて」
 困惑の滲むおどおどした声に、俺は我に返る。
 自分にしては考えなしの行動だったと、恥ずかしさから顔を背けようとして――しかし、彼女の瞳から溢れる涙に気付き、止めた。
「でも、綺麗で、優しい演奏」
 素直で、真っ直ぐな瞳。
 ゆっくりと視線が交わる。
「待ってるね、ずっと。ううん、追いかける。私も、留学出来るくらいになるね」
 瞳には涙を溜めながらも、彼女は柔らかく微笑む。
 春の木漏れ日のような優しい笑みに、自然と俺の表情も柔らかくなる。
「ああ、待っている」
 俺は、彼女に素直に頷いた。
 さよならは言わない。別れは、終わりではないのだから。






END

2013.7.9


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