どれほど、彼女の存在が俺の支えになっていたことだろう。離れることになって、ようやく身に染みるようによく分かった。
ありがとう。
君に出会えて良かった。
君が好きだ。
待っていて欲しい。
しかし、沢山の想いはこの胸のうちにあるというのに、それでも、一つとして形をもって言葉になることはなかった。
「君も、元気で」
ああ、だからこの唇が紡ぐ言葉は、たったそれだけ。
味気ない、恋人たちの別れとしては、簡易過ぎる言葉。二人を繋ぐものが、何もなくなってしまうかのような、言葉。
それに胸を痛ませながらも、俺は何も言えずにいた。
仕方のないことかも知れない。いつだって俺たちの会話は音楽だったから。何かを伝えようとしても、結局言葉に詰まり、音楽を奏で始める。それが、俺たちの常だった。
(……ああ、ならば、それでいいじゃないか)
自分の辿ってきた思考で、はたと気付く。
それに気付いてしまえば、どうして気付かなかったのか、そんなことすら思う。
伝えないことを選ぶより、そちらの方がどれほど良いだろうか。
俺たちは、演奏者なのだ。音を奏で、心を伝える者。
俺は、ケースに入ったヴァイオリンを取り出す。
「え?」
その唐突な行動に彼女が瞠目するものの、構わず俺は弓に、弦に手を掛ける。
まるで自分同然のように付きあってきた楽器に、心を預ける。
音に託そう。不器用な俺たちだから。
音楽はきっと、言葉よりもずっと伝えてくれる。
彼女を見つめて、俺は静かに音を奏で始めた。
*
響き渡る音色が、雑踏を変える。
木漏れ日のような、春風のような、優しさと愛しさを感じるような音色だった。
それでも、そこに密やかに息づく甘くも切ない感情。
こんな音色を奏でられるだなんて、自分で思いもしなかった。
彼女に出会って変わった音色。彼女に出会って知った温もり。
緩やかな音の調べ。
切なくも柔らかな、音色。
彼女に出会って、変わった俺のすべて。
硬質だった音は、まるで春の雪解けのように、温かくなった。
一音一音、奏でるたびに零れ出してしまいそうな想い。
自分自身とも言えるような愛器に、心を預ける。
ありがとう。
君がいたから、音を紡げた。
君が好きだった。
いや、これからもずっと君が好きだ。
どの音色も、俺の演奏は全て、君に――君だけに捧げる。
だから、どうか泣かないで。
愛しい、愛しい君。
最後の一音が、鮮明に響き渡り、演奏を終わる。
「あ、あの。空港で弾き出す、なんて」
困惑の滲むおどおどした声に、俺は我に返る。
自分にしては考えなしの行動だったと、恥ずかしさから顔を背けようとして――しかし、彼女の瞳から溢れる涙に気付き、止めた。
「でも、綺麗で、優しい演奏」
素直で、真っ直ぐな瞳。
ゆっくりと視線が交わる。
「待ってるね、ずっと。ううん、追いかける。私も、留学出来るくらいになるね」
瞳には涙を溜めながらも、彼女は柔らかく微笑む。
春の木漏れ日のような優しい笑みに、自然と俺の表情も柔らかくなる。
「ああ、待っている」
俺は、彼女に素直に頷いた。
さよならは言わない。別れは、終わりではないのだから。
END
2013.7.9
- 2/3 -
Prev | 栞 |Next