メトロノームを響かせて




 夕焼け色に染まった音楽室に、少女は一人佇んでいた。
 視線の先の、ピアノ。それが、憎たらしくも愛おしく感じてしまう。
 ピアノの蓋は、開いていた。ほんの僅かに手を伸ばせば触れられる、白と黒の鍵盤。色のないそれは、それでも少女にはキラキラと眩し過ぎた。
 ……それが、同時に痛くて。ただ、泣きたくなった。
 だらんと下がった腕は、時折、動こうとするが、結局それが何かの動作をすることはなく、元の位置に戻る。
 悔しげに唇を噛んで――、それでも、それで何かが変わる訳でもない。それを、少女はもう痛いくらいに理解していた。
 怒っても、悲しんでも、嘆いても……何も現実は変わらないのだ。現実はそれとしてそこに存在する。

 少女は、ピアニストになりたかった。
 この掌が表現する、無限の世界。鮮やかで、美しく、繊細な。それに、魅せられた。少女にとっての、世界そのものだった。ピアノが存在して、彼女は彼女でいられた。
 ピアニストを目指すなど、並大抵のことでは叶わない。それを少女も理解していた。幸い、彼女には才能もあった。それに驕らず、絶え間ない努力をした。
 その結果、有名なコンクールで賞を取ったこともあったし、注目を集めてもいた。誰もが、彼女がピアニストになることを疑いはしなかった。
 ――だけど、全ては過去形だ。
 何故なら、彼女の左手はもう、それを望めるほど繊細には動いてはくれないのだから。
「………」
 無言のまま左手を見る。そこにあるのは、数か月前にはなかった、まだ痛々しい事故の傷跡。
 少女は、怪我をした。大怪我と言って、過言ではないだろう。理由は交通事故だったのだが、そんなことは些末な問題だ。
 少女にとって問題なのは、その原因が彼女になかったということと……何よりも、もうピアニストを目指すことは出来ないという事実だ。
 ピアノに限らず、楽器は繊細なものだ。治りはしても、以前と同じようには動かない。もう、同じように上手になんて、弾けやしない。……まして、ピアニストを目指すだなんて。
 ――ただ、悔しかった。悔しくて、悔しくて堪らない。
(その事故にあったのは、どうして自分だったんだろう。どうして、自分はピアノが好きなんだろう。片方でも欠けていれば、こんなにも苦しくならずに済んだのに……)
 失くしたもの、それは少女にとって大きすぎた。
 何よりも大きなもので、彼女を彼女たらしめるもの。彼女にとって、自分そのものと言ってもいいもの。
 胸にぽっかりと空いた空白。そこから広がりゆく虚無感。
 ピアノが存在し続ける世界。音の溢れる世界。それでも、そんな世界に未だに身を置く自分。
 世界は、どうして続いていくのだろう? この世界は、自分にとってなんなのだろうか?
 なんの意味も、価値も見出すことが出来なかった。全てが、虚ろで、曖昧だった。
 自分というもの、それすらも。
 ここにいる自分という存在ですら、曖昧で。ここにこうして、ピアノの前にいる自分は、本当にここに存在しているのか、少女には分からなかった。
 それほど希薄で、曖昧で。

 ――それなのに。
 それなのに、ピアノを弾きたいと思う自分。
 どうして、それだけがこんなにも強く残っているのだろう。他のもの全てが希薄でありながら、どうしてこの想いだけは一緒に消えてくれないのだろうか。
(世界は、なんて残酷なの)
 この想いも、一緒に希薄になってしまえばいいものを。
 少女は、堪らず掌を握り締めた。


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