「弾かないのか?」
 唐突に、凛と響いた声。
(――え?)
 それが、少女の意識を引き戻した。
 声のした方をゆっくり振り返る。少女の視界入って来たのは、すらりとした長身の人影。いつからそこにいたのだろうか、その人は音楽室の入り口でこちらを見ていた。
 逆光でその表情は見えない。ただ、低く、冷たい声音。それから、男性だとだけ判断出来た。
 少女は、ただそのシルエットを見つめた。背後には夕焼け空。シルエットでしかないその姿だったが、その中ではとても映えた。
 男は、静かにこちらへ近付いてくる。……目が、離せない。少女は、引かれるままにその姿を目で追った。
「先、生」
 ピアノの前まで来ると、流石にその顔が分かった。
 確か、音楽の授業を受け持っていた教師だ。直接の面識はないし、話したことはなかったが、その冷徹な横顔は時折見かけることはあった。
 眼鏡を掛けて尚、隠されることのない鋭い眼光。整った顔立ちをしてはいても、それがまたその冷たさを際立たせる。
 他の人達が噂するように、冷たくて無機質で怖い人だと、少女もまたただ漠然と思っていた。
 だから、少女がピアノを弾くことを知っていたとしても、彼が声を掛けてくることはとても意外だった。無意味な関わり合いを持とうとするだなんて、想像すら出来なかった。
「弾かないのか?」
 もう一度、同じ問いを投げられる。
 それは、抑揚に欠けた声音だった。そこに、人間らしい感情は感じられない。
「……いいんです」
 だから尚更、少女は無機質に答える。心を、見せないように。覆い隠すように。
 ――ピアノを弾かないのか。
 それは、本当に何度問われた言葉だろう。
 そして、どれほど少女にとって残酷な問いだろうか。
「嘘つきだな。弾きたい癖に」
「!」
 そんな少女に、男は変わらぬ声音で断言する。
 それは、少女にしてみれば、あまりに無遠慮な言葉だった。
(……貴方に、貴方に分かるものか。私の気持ちなんてっ!)
 毒づきそうになるのを、少女はなんとか耐える。
 どうして、初めて会話するような相手に、そこまで踏み込まれなければいけないのだろう。そんな権利が、この男にあるというのか。
 それも、冷徹な教師と言われているような人間に。機械的に生きているような人間に。
(人の心が、貴方なんかに分かるのか)
 この気持ちが他人に分かる筈がない。それを経験したことのない人間に、分かる筈がない。
 自分の全てを失くした者の気持ちなど、分かる筈がない。この胸にある、埋められない空白。虚無感。
 弾きたいと、どれほど痛切に思っているだろう。
 思わない筈がない。ピアノは、ピアノを弾くことは、殆ど彼女の一部だったのだから。


「座れ」
「はい?」
 唐突な言葉に、少女は一瞬怒りすら忘れ、男を見る。
「椅子に座れと言ったんだ」
 言うが早いか、唐突にピアノの前の黒い椅子に座らせられる。
 近くなる、ピアノとの距離。目の前の鍵盤。
(なっ!?)
 あまりに想像の範疇を越えた事態に、少女は狼狽する。
 弾かないと言ったのに。少女には、この男が何を考えているのか、全く分からなかった。
 小さな物音に、少女は男を振り返る。
「合わせられるな?」
「はぁ?」
 男が手にしていたのは、メトロノームだった。ピアノの近くに置いてあったような気がしたが、いつの間に手にしたのだろうか。
 どんな意図があるのかも分からず、思わず間抜けな声で返してしまう。
「君は、右手だけでいい。左手の部分は私が弾こう」
「え!?」
 男が、少女の隣にもう一つ椅子を置く。
 徐々に男がしようとしていることを、少女は朧気ながらも理解し始める。
 ピアノを、二人で弾こうと言うのだ。右手の部分を少女が、左手の部分を男が。
「曲は、何がいいか」
 少女は、咄嗟に声を出すことも出来ず、ただ男を瞠目して見つめるだけだ。
 そんな彼女の反応に全く構わず、男がその隣に座った。

 ――キィ、と椅子を引く音。
 それは、演奏会での発表が始まる瞬間の音に酷似していた。


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